Anniversary Date

7月7日 サマーバレンタインデー
【不動翔麻×日野香穗子】

Anniversary Date

 同じ大学とはいえ、所属する学部が違うとなかなか会う機会は減ってくる。
 互いに現状の愚痴を言い合ったりしてやり取りは絶やさなかった香穂子と天羽だが、久しぶりに顔を合わせたのは、大学に入学してから既に二か月以上が経過してからのことだった。
「やー、ほんっと忙しいわ、キャンパスライフ。受験地獄から抜けたら遊び歩いてやろうって目論んでたのに、出鼻くじかれたわ」
「天羽ちゃん、後から楽しようって必修教科を1年の時に詰め込むからだよ……」
 馴染みのカフェでがっくりと項垂れた天羽に、香穂子が苦笑する。香穂子も3、4年生時の就職活動等を見越して1、2年時のうちに必修科目の単位はある程度取っておくつもりで、履修数を半々に振り分けているが、天羽は香穂子よりさらに1年時に重心を置いているため、1年で受ける授業数は香穂子よりかなり多い。当然課題や研究授業なども増えるわけで、メールでのやり取りも大半が「レポートが間に合わない」だの「資料が揃わない」だの、授業に関する愚痴になっていた。
 香穂子の方も忙しくはあるが、天羽ほど時間を圧迫してはいない。だが、実技の方でなかなか教授の要求するボーダーラインに到達できないことに戸惑っている。これまでは自己流で自分勝手にヴァイオリンを弾いていたこともあり、指導者と一対一で曲を作り上げていくことにまだ慣れていないのだ。二か月ほど試行錯誤で授業を受けながら、指示が抽象的な指導員の理想とする音を、ようやくぼんやりとながらも香穂子なりの形で思い描けるようになったところだ。
「そう言えば、学部違いとはいえ同じ大学の私とすらあんまり会えてないのに、その後どうよ? 不動先輩とは」
 はたと思いついたように天羽が顔を上げて尋ねる。香穂子が高校時代から付き合っている不動翔麻という青年は、香穂子たちとは別の大学に通っていて、天羽が知っている限りかなり大雑把な性格で、著しくデリカシーに欠けている。
 香穂子が多忙に追われているからといってマメに連絡を入れてフォローを入れるような気の使い方が出来るとは到底思えないし、香穂子の方がきちんと気をかけて連絡していないと、そのまま自然消滅しかねない予感が漂う。案の定、香穂子が困ったように小さな溜息を付いた。
「メールとか電話はしてるけどね。相変わらずバイトとバンドで翔麻先輩忙しいみたいで。私もライブ見に行く暇とか全然なかったから、先輩の誕生日以来、まともに会ってないや」
 寂しそうに笑う香穂子に、天羽は「相変わらずあの人は……」と頭を抱える。
 翔麻は自分の生活費のために、幾つかバイトを掛け持ちしている。その中の一つが香穂子の生活圏内にあるレストランのため、高校時代は時折食事に出かけて顔を見ることはできていた。だが、大学に入学してから香穂子もバイトを始めたため、その機会すら徐々に減ってきていて、ここ最近はまともに翔麻と逢えていなかった。
「ね。それって、不動先輩、結構ヤバくない?」
「やっぱり、ヤバいかな。……先輩、意外とモテるし、こんなふうにすれ違ってるうちに浮気発覚しちゃったり、とか」
「いや、それはないけどさ」
 きっぱりと天羽が否定する。
 性格としては気さくで話しやすく、バンドマンである翔麻は、確かにそれなりにモテる。
 だが、それが「それなり」でしかないのは本人の致命的な鈍さとデリカシーのなさとが起因している。器の広い香穂子に見捨てられてしまっては、この先まともに翔麻に彼女が出来ることはないと天羽は踏んでいるので、そういう意味で翔麻にとって今は正に危険な状況だ。
 現時点では翔麻が大好きで、翔麻一筋の香穂子だが、実は大学構内で彼女に狙いを付けている男子が多いことを、天羽は知っている。あまり香穂子を放っておくと、それこそ翔麻にとっては『トンビに油揚げ』ということになりかねない。
(まあ、だからと言って私が不動先輩に救いの手を差し伸べる義理はないんだけどさ……)
 それでも、香穂子が翔麻に逢えなくて寂しがっていることが分かるのに、協力しないことも天羽の方針に反する。翔麻のことはぶっちゃけどうでもいいが、香穂子が哀しむ姿を見ることは天羽にとって本意な事ではないのだ。
「何かさ、逢う理由見つけてちゃんとデートでもした方がよくない? 特別な理由がなくても、アンタが逢いたいって言えばさすがの不動先輩も逢わなくはないと思うけど」
「そうかな……そうだといいけど。でもバイトとバンド頑張ってる先輩に、私と逢うために無理に時間空けてって、ちょっと言い辛いかな……」
「逆にアンタはもうちょっとワガママになっても良いと思うんだけどねえ……」
 思わず溜息をつき、天羽が呟く。
 人が良いのは香穂子の性格上、そうそう変えられるものではないのだろうが、多少はワガママも言っておかないと、香穂子ばかりが損をする。
「仕方ない、そんな香穂のために天羽さんが知恵を授けようじゃないのさ!ちょうど、タイミングのいい記念日があるのよ」
「記念日?」
 香穂子が首を傾げる。
 今日の日付を思い返しても、近日中に恋人同士で過ごすための記念日というものは何も思い浮かばない。6月が終わろうとするこの時期に思い浮かぶ記念日と言えば……
「お、何か思いついた?」
「七夕がもうすぐだなって思うくらい。でも、七夕って別に恋人との記念日ってイメージないし……」
 とりあえず思いついた記念日を告げてみると、「惜しい!」と天羽が指を鳴らす。
「惜しいと言うか、日付としてはそれで合ってる。実は7日には別の記念日もあるんだよ」
 そうして天羽が教えてくれたのは、サマーバレンタインデーという記念日だった。
「7日って実は他にも色々と記念日があるんだけどね。恋人同士が過ごす記念日として、一番分かりやすいのはそれかなって」
「天羽ちゃん、それって……」
 販促?と困ったように笑う香穂子が尋ねる。販促だとも、と天羽も苦笑した。
「そもそも本家本元のバレンタインデーが今じゃもうお菓子会社の販促チックなとこあるしね。要するにそれをそのまま夏場に持ってきただけなんだけど」
 知る人ぞ知るイベントとはいえ、それが恋人同士のための記念日として位置付けられていることには違いがない。翔麻と逢うキッカケを欲している香穂子にはちょうどいい記念日のはずだ。
「まあ、どう考えても不動先輩がサマーバレンタインを知ってるとは思えないけどさ。香穂だって、別にチョコレート渡してそれで満足って話じゃないでしょ?」
 逢うのに間が空き過ぎて、誘い出すことすら躊躇うようになっている香穂子にとって、翔麻との約束を取り付けるための口実になればそれでいいはずだ。
「不動先輩、甘いの嫌いじゃなかったでしょ。別に記念日でなくたって、お菓子あげるから逢いましょうって言えば、先輩のことだから逢ってくれるんじゃないの?」
 まだ高校生だった頃、初めてバレンタインに香穂子からのチョコをもらった翔麻が、恥ずかしげもなく周囲に自慢して歩いていたことを天羽は知っている。「何なら学内新聞のトップニュースにしてくれても構わないぜ!」と売り込まれて、丁重にお断りしたことは言うまでもない。
「天羽ちゃんの中の翔麻先輩像はあんまりだと思うけど……。でも、心配してくれてありがとう。せっかくだから、先輩のこと誘ってみるね」
 天羽なりの気遣いはきちんと受け止めたのだろう。香穂子は穏やかに微笑み、そう言った。


 その夜、香穂子は翔麻に電話をかけた。バイトの最中ということも多いため、翔麻が電話に応じるかどうかの確率は半々だが、着信履歴を残しておけば、そのうち折り返してくるだろう。そう思っていると、コール数回で、翔麻はあっさりと通話に応じた。
「ようパタちゃん、久しぶり」
 表示から香穂子と分かったのだろう。何の気負いもなく、翔麻は開口一番そう言った。相変わらずの様子に、香穂子は何となく安堵した。
「急にごめんなさい。今、電話大丈夫ですか?」
「全然ヘーキだぜ。今日はバイトも昼間だけだったしな」
 俺も電話しようかって思ってたとこでさ、と翔麻は狙わずに香穂子の嬉しい部分を突いてくる。天羽の言う通り、彼氏としては残念な部分も多いが、こんなふうに計算なく喜ぶツボを押してくるのが、翔麻の侮れないところだ。
 しばらくは香穂子は聞き役に徹する。翔麻は一つ所にじっとしているタイプではないので、ほぼ大学とバイト先と家とを巡回するだけの生活をしている香穂子と違い、格段に話題の引き出しが多い。最近の翔麻の近況を彼が満足するまで聞き終えたところで、香穂子が本題を切り出した。
「あの、翔麻先輩。7月7日って、予定空いてませんか?」
「あ?七夕?……どうだったっけな……」
 電話の向こうで翔麻が移動する気配がする。どうやら予定を書き込んでいるカレンダーを確かめているようだった。
「7月7日、七夕。……喜べ、パタちゃん!ラッキーなことに、その日は一日フリーだ! 久しぶりにデートするか」
「ホントですか!?」
 そこまで期待していなかったので、思いがけず翔麻の方から誘ってくれたことに香穂子の声が弾む。天羽が授けてくれた口実を切り出す手間が省けた。
「何だよ、そんなに俺に逢いたかったのか~?」
 からかうような翔麻の口調に、香穂子は素直に「はい!」と即答する。「そ、そっか?」と翔麻が戸惑った。
「しかし、今は梅雨時だしなあ。屋外に行く予定にしてると、変更の可能性が出て来るよな。当日の天気で変わるから、どこ行くかはその日落ち合ってから決めようぜ」
 香穂子も了承して、その日の通話は終わる。携帯のスケジュール機能に7月7日の予定を入力しながら、ふと香穂子は天羽に授けられた『口実』のことを思い出した。
「約束はできたから、サマーバレンタインをやる必要はなくなっちゃったけど……」
 それでも、せっかく天羽が香穂子のこと考えて教えてくれたのだから、当日はきちんとチョコレートを準備しておこうかと香穂子は思う。天羽がきっかけをくれなければ、翔麻を誘う勇気も出せなかったのだから。
 おそらくそういう記念日であることを翔麻は知らないだろうが、要は香穂子の気持ちの持ちようだ。
 翔麻は甘いものは平気だし、天羽の言ではないが、プレゼントをもらって嫌がることもないだろう。
「7日までにチョコレート準備しなくちゃ」
 たかが企業の販促記念日と思っていたけれど、自分でやろうと決めたら俄然楽しみになってくる。本来のバレンタインほど賑わってはいないだろうが(何故なら、これまでに香穂子はこの時期にサマーバレンタインだからといって特設コーナーが設置されているのを見たことがない)、名の知れた洋菓子店を巡って翔麻のためのチョコレートを探すことはとても楽しいだろうと思った。
 
 
 
 そして、当日の7月7日。快晴とまでは行かず、雲の多い天気だが何とか雨降りの事態は避けられた。小さな保冷バッグに翔麻宛てのチョコレートをきちんと収めて、香穂子は軽い足取りで家を出る。先に楽しみがあれば日常も充実感を持って過ごせるもので、以前に翔麻と逢った彼の誕生日から翔麻との約束を取り付けるまではとても長く感じていた日々が、約束してから今日までは何だかあっという間に過ぎていった。
 待ち合わせ場所に向かう香穂子のトートバッグの中で、マナーモードの携帯が振動する。何気なく取り出してディスプレイを見ると、発信は翔麻からだった。
「はい、日野です」
 翔麻が約束の時間に遅刻することはそんなに珍しいことではない。また寝坊でもしたのかなと、軽い気持ちで香穂子は電話に出た。
「パタちゃん、ごめん!」
 電話に出た途端、謝られる。驚いて一瞬携帯を耳から離し、まじまじと眺めた後、改めて香穂子は携帯を耳に当てた。
「翔麻先輩?……何か、あったんですか?」
 謝罪から始まった通話に、何となく嫌な予感はした。そして、翔麻から語られたことは、その嫌な予感を裏切らなかった。
「ほんっと、ごめんな! さっきバイト先から電話かかってきて、夏風邪でシフトに入ってたバイトが数人、集まらないらしくて」
 ちょうど週末ということもあり、飲食店は稼ぎ時だ。それなのに、予めシフトに入れてあった数人がこぞって夏風邪を引いてダウンしてしまったらしい。
「人手が足りないから、ホール出てもらえないかって店長から打診があってさ。困ってるって分かってるのを放っておけねえし、バイト料は臨時ボーナス込みで出してくれるって言うしさ」
 パタちゃんとの約束は、また日を改めてってことでいいかって思ってさ。そう屈託なく言う翔麻に、香穂子から何かを言えるはずもない。
「……急に人手がなくなっちゃったんなら、お店、大変ですもんね」
「そうだよなー? 頼られるのも困りもんだけど、まあ、こればっかりは仕方ねえからな。……この埋め合わせは後で絶対する! 今日バイト出るおかげで臨時収入もあるし、今度会う時メシ奢るから! ほんっとにゴメンな!」
 言いたいことを告げると、翔麻はあっさりと通話を切る。おそらくは急なバイトの依頼で、予定は変更になったし、バイトに行く準備もあるのだろうと理解はするのだが。
「……逢いたいのは、私ばかりかなー……」
 小さく香穂子が呟く。
 先ほどまで、何とかぎりぎり平静を保っていた重い曇り空から、ぽつんと雨粒が一つ、香穂子の頬に落ちてきた。
 
 
 
(あーあ。せっかく久しぶりにパタちゃんと遊べるって思ってたのにな~)
 徐々に人が増えてきた店内で、客を席に案内したり、注文を取ったりと慣れた様子できびきびと動きながら、翔麻は心の中で溜息を付く。
 しばらく逢えていなかった恋人の香穂子が、この日を指定して誘ってくれたのが10日ほど前。翔麻としてもどこかで香穂子に逢いたいとはずっと思っていたのだから、ちょうどバイトとバイトの隙間になっていた今日を指定してくれたのは渡りに船だった。
(そういや、何でパタちゃんは今日が暇かって聞いてきたのかな)
 今更ながら、そのことに思い至る。電話とメールでのやりとりは頻繁だったものの、わざわざバイトのシフトを教えるには至っていなかったので、香穂子は7日が翔麻の休日であることを知らなかったはずだ。それなのに7日が空いていないかと聞いてきたのは、もしかしたら何か意味があったのかもしれない。勿論、たまたま香穂子のバイトの休暇もその日だったという可能性が高いのだが。
「しかも、人助けと思って店に出てみりゃ、ダウンした本人たちが自力で人集めてたおかげで、数は足りてるって言う……」
「不動、心の声は表に出すなー? 心の中で発してこその、心の声だぞー」
 客への応対が一段落して、厨房に戻ってきた翔麻がつい愚痴ると、傍で聞いていた調理担当が炒め物をしつつ、的確な突っ込みを入れた。
 夏風邪でダウンしたバイト生たちは、各々真面目な性格ばかりで、店に迷惑をかけてはいけないとばかりに、シフトが入っていなかったバイト仲間や友人たちに声をかけて、きちんと穴埋めを行っていた。そのため実際に翔麻が店に来てみると、むしろ普段よりも店員が多いくらいの事態になっていたのである。
(こんなことなら、店長の泣き言なんか聞かずにパタちゃんとのデート優先してりゃ良かったぜ……)
 バイト歴が長い翔麻には甘えやすいのだろう。少し困ったことがあると、まだ若い店長は真っ先に翔麻を頼ってくる。いつもの調子で頼まれるとほいほい引き受けてしまうのだが、今日はつくづく失敗だった。
(せっかく久しぶりにパタちゃん補充できるって思ったのによ……)
 確かに忙しくはしていたものの、翔麻が香穂子のことを考えなかった日はない。大学に入学したばかりの香穂子が新しい生活に慣れるまでと、電話とメールのやり取りで我慢していたが、本当なら逢えるものなら毎日でも逢いたいし、顔を見たい。そうしなければ、翔麻の中の香穂子が不足する。
「ほらそこ、悶々と物思いに耽らない。次の客来たぞー、仕事行けー」
 調理担当が、手を休めることなく作業を続けながら翔麻の脚を蹴り、接客を促す。うっせーな、元はと言えば休みなんだから休ませろ!と愚痴を吐きながら、翔麻が渋々ホールに出た。
「いらっしゃいませー、何名様ですかー?」
 どことなく投げやりに応対すると、客が「不動先輩!?」と大声を上げる。聞き馴染みのある声に改めてその客を見ると、それは高校時代の後輩である、天羽菜美だった。
「おう、天羽じゃねえか。久しぶ……」
「ちょっと、不動先輩! こんなとこで何してんですか!」
 翔麻が全てを言う前に天羽が詰め寄ってくる。思わず後ずさりつつ、翔麻は眉間に皺を寄せた。
「こんなとこって、ひでえ事言うな~。俺は真面目に仕事してんだろーがよ」
「そうじゃなくて、今日、香穂と逢う予定でしたよね!? 何で真面目にバイトに勤しんでるんですか!」
「……お前ら、相変わらずツーカーだな」
 昔から香穂子と天羽が仲がいい事は知っていたが、デートの予定まで天羽に知らせているとは思わなかった。ちょっとひどくないかパタちゃん、と脳内の香穂子に嘆いたところで、厨房の奥から先程のバイト仲間が顔を出した。
「何か重い話すんなら、店の外行けよ、不動。お前らがそこでもめてたんじゃ、入りたい客が入ってこれねえだろー?」
 営業妨害、と冷たく言い放って、彼は奥へ消える。翔麻と天羽は顔を見合わせ、お互いに口を噤んだ。
 
 
「だって、7日を提案したのは私ですもん」
 バイト仲間の指示通り、天羽を店の裏側へ連れて行き、翔麻は何故天羽が今日香穂子と逢う予定だったのかを知っているのかを尋ねてみる。悪びれる様子もなく、天羽はあっさりとそう言った。
「不動先輩と逢うのに間が空き過ぎて、どう誘っていいのか分からなくなって悩んでたんですよ、香穂。不動先輩が忙しいだろうからってずっと遠慮して。だから、7日にサマーバレンタインデーって恋人同士の記念日があるから、それに便乗しちゃえって助言したんです」
「さまーばれんたいん? ……何だ、ソレ?」
「え、知らない? 嘘、香穂、それを口実に不動先輩を誘ったんじゃないんですか?」
 天羽が首を傾げる。翔麻はふるふると首を横に振った。
「7日空いてないかって聞かれて、普通にバイトがなかった日だからな。じゃあデートしようって話になって」
「あー、口実使う必要がなくなったのか。でも、チョコレートは準備するって言ってたのにな……」
 数日前、有名どころの洋菓子店のロゴが印刷された箱の写真と共に『チョコ買ってきたよ!』と報告のメールが送られてきていた。ならば、口実としては使わなかったものの、香穂子はきちんとサマーバレンタインデーを実行するつもりだったのだろう。
「……先輩に逢うの、ずっと楽しみにしてたんですよ、香穂」
「……」
 真っ直ぐに翔麻を見つめ、天羽が言う。
 返す言葉はなく、翔麻はそんな天羽の顔を黙って見つめるしかない。
「今日ドタキャンした事情は分かりますし、香穂もそれをいちいち根に持つ子じゃないですけど……根に持たないから、何も言わないからって、傷ついてないとか絶対思わないでください」
 それに。と天羽は大きく溜息を付く。
「あの子は全然気が付いてないですけど、そもそも性格良しだし、よくよく見れば可愛いしで、実際大学で香穂狙いの男、周りにめちゃめちゃ多いですよ。不動先輩がしっかり見張ってないと、そのうち捨てられますよ」
「……マジか」
「マジです」
 青ざめる翔麻に、神妙な顔で天羽が頷く。そわそわと落ち着きなく辺りを行き来して、翔麻は思い切ったように裏口のドアを開け、厨房に向かって叫ぶ。
「人足りてんだよな!? なら、今日は帰る! 本来なら俺、今日は休みのはずだしな!」
「おつかれー」
 手を休めることなく、先程の厨房担当の彼が冷たく応じた。天羽を振り返り、翔麻が軽く頭を下げる。
「教えてくれてサンキュな、天羽。あ、今日は日替わりランチがお勧めだから! ちゃんと飯食って、売り上げに貢献してけよ!」
 じゃあな、と片手を挙げ、翔麻は脱兎のごとくその場を走り去っていく。呆然としてその背中を見送った後、天羽が苦笑して呟く。
「なんだかんだ言いつつも、やっぱり不動先輩も香穂にぞっこんなんだよねえ……」
 ぞっこんって、死語か。と、天羽は思わず片手で口元を押さえた。
 
 
 
 
(保冷剤はちゃんと入れてるし、翔麻先輩の部屋のドアノブにかけておけば、食べてもらえるかな……)
 翔麻とのデートの予定がなくなって、途端に手持無沙汰になった香穂子は、翔麻が暮らしているマンションへと向かっていた。
 高校卒業を期に併設の寮を出て一人暮らしをしている翔麻だが、当初どこに住むかでもめにもめていたことを香穂子は覚えている。家賃を出し渋って、同じく近辺で一人暮らし中の兄のマンションに転がり込むか、それとも格安アパートに引っ越すかで迷っていたところ、両方の選択肢をその兄から駄目出しされたのだ。
「お前と一緒に暮らすのは絶対に御免だし、かといってあんまりボロボロのアパートに住まれても母さんたちが心配するでしょ。無理して高級マンションに暮らせなんて言わないから、お前の収入に見合った、かつそこそこ人間としての生活レベルが保てる『普通』のマンションで暮らしてくれないかな?」
 そう言って、自分の人脈を駆使してその兄が見つけてきた物件は、兄の要求を過不足なく、見事に満たすものだった。だがそれまで菩提樹寮という年代物で地元のホラースポットと噂される寮に暮らしていた翔麻にしてみれば、「何か小奇麗過ぎて、逆に落ち着かねえ」という評価にしかならなかったが。
 それでも、住めば都とはよく言ったもので、あれから1年以上が経った今でも、翔麻は兄が探してきてくれたその物件に住み続けている。『小奇麗な部屋』はしばしば『腐海の森』と化すらしいが、そこは面倒見のいい彼の兄が『小奇麗な部屋』を維持するために時折現れて片づけをしていくらしい。
「あ、でもちゃんとメモ残しておかないと駄目だよね。いきなりドアノブにチョコレートが下がってたら、それこそホラー案件になっちゃう」
 何か伝言を残せるものがあっただろうか。いざとなれば、メールにしたためておけば大丈夫だろうか。
 そんなことを思いながら、チョコレートを入れた小さな紙袋を翔麻の部屋のドアノブに引っかけ、バッグの中に何かメモとして使えるものが入っていないか探っていると。
「……パタちゃん!」
 階段を駆け上がってくる足音が聞こえ、久しぶりの聞き慣れた声が自分を呼ぶ。
 驚いて振り返ると、そこには走って来たらしい、息も絶え絶えの翔麻がいた。
「え、あれ? 翔麻先輩?……え、何で? 今、バイトなんじゃ?」
 そこにいるはずのない翔麻の姿があることで、香穂子の脳内がパニックになる。あわあわと香穂子が狼狽えていると、大きなストライドで香穂子に歩み寄った翔麻が、突然香穂子のことを抱き締めた。
「しょ、翔麻先輩……!?」
「あー、天羽が俺へのチョコ持ってるって言うから、ここだって目星付けてきてよかったー! ここにいなかったら、今度はパタちゃんちまで全力疾走する羽目になるとこだった」
 ぎゅうっと強く抱きしめられると、翔麻の激しい鼓動がシャツ越しに伝わってくる。本当に、走り通しでここまで来たらしい。
「バ、バイト……バイトは?」
「そんっなに俺をバイト漬けにしたいのか、パタちゃん」
 やたらとバイトバイトと繰り返す香穂子に、呆れたように翔麻が言う。だって、と既に涙目の香穂子が呟いた。
「だって、バイトだって……だから、私、これ置いて、帰ろうって……」
「うん、まあ、それは俺が悪いんだけどな? 実際にバイト出てみたら、休みの奴らがこぞって代役立ててたらしくて、人足りてたんだよな。そんで、臨時収入を諦めて、パタちゃんとデートするために帰って来たってわけ」
「あ、天羽ちゃんって……?」
「天羽の奴さ、バイト先にメシ食いに来て、パタちゃん放って何働いてんだーって説教しやがった。……だって、俺、知らなかったんだもんよ。今日がサマーバレンタインデーだとかさ」
 手を伸ばし、翔麻はドアノブに引っかけてあった紙袋を手に取る。中を覗いてみれば、成程、チョコレートが美味しいことで有名な、洋菓子店のロゴマークが印字された箱が中に鎮座している。
「ったく、パタちゃんも言えよな。そういう記念日だから、二人で逢おうって、ちゃんと。……そしたら、どんだけ忙しかろうが、俺はパタちゃんを最優先にするのにさ」
「……え?」
 呆然と、香穂子が尋ね返す。真っ直ぐに見上げてくる香穂子に、翔麻は苦笑した。
「そりゃそうだろー? どんだけバイトとバンドで忙しかろうが、俺はパタちゃんにいつでも逢いたいんだし。そんで、パタちゃんはどーんと我儘言っていいんだぜー? 俺に逢いたいですーってな」
 それは、からかうつもりで言った言葉だった。そんなわけないじゃないですかと、突っぱねられることを承知の上で。
 だが、香穂子は相変わらず、翔麻の思惑通りには動かない。
「……逢いたかった、です」
 翔麻のシャツの胸元を、指先でぎゅっと握りしめ。
 泣き声の香穂子が、ぽつりと呟く。
「……パタちゃん」
「私、ずっと。……翔麻先輩に逢いたかったです」
 ……そんなふうに、香穂子が自分の心を素直に、あっさりと認めてしまうから。
 翔麻も冗談で誤魔化してしまうことが出来なくなる。
「……うん。……だな」
 一人頷き、翔麻が香穂子を抱き締める腕に、力を込める。
「俺も……ずっと、パタちゃんに逢いたかった」
 パタちゃん不足って、結構キツいもんなんだよなと、しみじみ翔麻が呟くと。
 腕の中の香穂子が、「何ですか、それ」と、ようやく穏やかに微笑むのだった。
 
 
「まあ、残念ながら天気もあれだしな。のんびり部屋の中でデートってのもありだよな」
 雨は降ったりやんだりを繰り返しているが、出歩くのに傘なしというのは心もとない。空模様を気にして動くのは気が滅入るし、もうこの際二人で過ごせればどこでもいいやと翔麻は開き直る。
「え……これから、デートするんですか?」
 ちゃんと翔麻の顔を見れて、チョコレートも渡せて。何となく使命を全うした気でいた香穂子が、驚いたように呟いた。
「そりゃそうだろ? むしろ、これからがデート本番って感じだろ!? 今日という日が後何時間残ってると思ってんだ、パタちゃん!」
 どこぞの熱血タレントのような勢いで、翔麻が叫ぶ。香穂子が嬉しそうに笑って頷いた。
「だいたい、足りてねえだろいろいろと! せっかく久しぶりにパタちゃんに逢えたってーのに、あんなこととか、こんなこととか!」
「……その、あんなこととかこんなこととか、あんまり詳細は知りたくないですけどね……」
「わかんねーならいろいろ詳しく教えるか?」
「いらないです」
 香穂子は冷たくあしらうが、それでも翔麻から絡めて繋いだ指先を、香穂子の方から解く気配はない。
 だから「ちゃんと分かってるじゃん」と、翔麻は遠慮なく指先に力を込めることができる。
「まあ、ひとまずは前菜ってことで」
 と前置きをし、ドアを開けて部屋に入ろうとする隙に、香穂子の唇を奪ってみると。
「そういうことは、部屋に入ってからにしてください!」と、真っ赤になった香穂子のサンダルの踵が、翔麻のスニーカーを容赦なく踏みつけた。


あとがきという名の言い訳

初書きしょまパタですー。無事に翔麻になってるんだろうか、コレ(--;)
初めて書いてみて思うことは、翔麻が相手だと途端にうちの香穂子が動かなくなることですかね。無駄に翔麻というキャラクターの熱量が強いせいか、香穂子の方が委縮する感じ。
ところで、サマーバレンタインデーを実践している人には、まだ出会ったことがないです(笑)皆知ってるんだろうか……

記念創作は裏頁に続くように作成していますが、それを読まないと話が完結しないということもありません。続きのみを配布することはありませんので、希望される方は基本の裏頁アドレス申請の規定を遵守してください。
よろしければ拍手 web拍手 by FC2 アンケートにご協力ください。
執筆日:2018.11.12

Page Top