Good Timing, Bad Timing

momo様 月森×日野

 ヒ ノ カ ホ コ

 人名を表すだけの、他には何の意味ももたないこの5文字が、口にするだけで、耳にするだけで、たった今まで持ち合わせていた冷静さをすべて奪ってしまうほどの威力をもつものに変わったのは、いつのことだろう。

 日 野 香 穂 子

 用事もないのに、昼休みになるとエントランスに向かってしまう自分の足も、ヴァイオリンの音が漏れてくる練習室をつい覗き込んでしまう自分の目も、確かに自分の一部であるはずなのに。どうしてこんな勝手な行動をとるのだろう。

 学内音楽コンクールが終わってからというもの、得体の知れない思いに気分が沈みがちだった月森は、新しい曲の構想を練りながら、気分転換も兼ねて、屋上へと足を伸ばした。
 屋上の扉の更に上。ここまで来れば、めったなことで他人に思考を遮られることもない。
 雑念を振り払って曲をイメージしようとしたその時、階下で扉の開く音がした。

 (日野…香穂子………)

 その姿を見ているだけでみるみる心拍数が上がる。そしてそれと同時に、胸に湧き上がるこの気持ち…。こうなってしまっては、曲の構想を練るどころではない。月森は、一切の思考をやめ、ただぼんやりと、校庭を見下ろす香穂子の背中を見つめていた。

 細くて華奢な香穂子の肩。香穂子の隣に寄り添い、そっとその肩を抱く自分…。
 働かせた想像力が描いたものに、驚きと焦りを隠せない月森は、しかしそのイメージを否定することもできずに、ほんのりと赤らんだ顔のまま、変わらずに香穂子の背中に視線を送り続けた。

 そんな月森の視界に、よく知る背中がそっと入る。忍び足で香穂子に近づくその背中。
 タイも締めず、着崩した白い制服のジャケットが風に揺れる……。

「だぁ~れだっ?」
「え、えっ?」

 気が動転しているためか、思い当たる人物の名前が口から出てこない香穂子は、慌てふためいて両手をパタパタさせている。そしてその両手を解いて相手を確認しようと、自分の顔を覆っている大きな手に、香穂子は自分の小さな手を重ねる。柵から身を乗り出しながらそれを見ていた月森は、気が気ではなくなっていた。

(すぐさま出て行ってこの馬鹿げた行動をやめさせたい。 …しかし、俺にはこの行動を止めるだけの理由が……ない………けれど………。実際日野は困っているはず。ここはひとつ、『先輩は楽しそうですが、日野を困らせるのはよくないのではないでしょうか?』
 くらい言ってもいいだろう。)

 香穂子は、自分の顔をしっかりと覆う大きな両手を何とか解こうと必死になっている。
 月森は、香穂子を構うことを楽しんでいるであろう相手にかけるべき言葉をしっかりと反芻しつつ、階下へ向かう心の準備をした。いざ香穂子の側へ、と思い、一歩踏み出したその時である。

「やあ、火原。ずいぶん楽しそうだね。でも、日野さんを困らせてはいけないんじゃないかな?」

 ちょうどよいタイミングで屋上にやってきた柚木が、にこやかに言った。
 自分が言おうと思っていた台詞を柚木に横取りされた形となり、回れ右をした月森は、下からは絶対に見えない位置まで素早く移動し臍を噛んだ。あまりのタイミングの悪さに涙をのんだ月森は、微笑みを崩さない柚木と、真っ赤になりながら慌てて弁解する火原と、そして、なぜか不自然に微笑みながら、ぎこちなくその場を去ろうとする香穂子を黙って見送るより他なかった。


 今日もまた、月森は屋上へと足を伸ばしていた。タイミングの悪かった昨日の自分を悔やみつつ、心のどこかで今日もまた香穂子に会えるのではないかと期待していた月森は、重い扉を押し開ける音を聞き、息を潜めてその人物の様子を伺った。視界に入ってきたのは、香穂子だった。

 月森の胸がひとつ、トクンと鳴る。

 そよ風にふんわりと揺れる香穂子の長い髪を、月森はただ見つめ続けていた。と、そこに颯爽と現れた人物。彼は音もなくあっという間に香穂子の背後を取ると、左腕で香穂子の肩を抱きすくめ、右手で目隠しをした。昨日の火原などおよびでないような密着ぶりに、
 月森はその場から一歩も動けない……。

「だぁれだ。」
「!!」
「ふぅん。この俺に一言もないなんて、随分とご挨拶だな。お前、今自分がとった行動の意味、分かってる? まさかお咎めなしで済むなんて、思ってないだろうね?」
「…………。」
「おや? もしかして震えてるの? 生意気に一人前の女みたいな態度をとるなんて、お前には10年早いんだよ。それとも、何? そんなに俺にいじめられたいの?」

 香穂子の様子がおかしい。あくまでも親しげに、詰めたままの距離を保とうとする柚木に対し、香穂子の方はがちがちに固まっている上に、足元が震えていておぼつかない様子なのだ。

(ここはひとつ、助け舟を出す必要があるだろう。日野を助けてやる義理も恩もないが、あそこまで怯えた様子の日野を黙って見ているわけにもいかない。『何をしているんですか!?日野が怯えてるじゃないですか。』くらい言ってやってもいいだろう。よし。)

 決意も新たに階段の手すりに手をかけた月森の眼下で、再び屋上の扉が開いた。
 開いたと思ったら飛び出してきた新たな人物は、声を荒げて言った。

「柚木先輩、何やってるんですか!? 日野が怯えてるじゃないですか!!いい加減離れてやったらどうなんです?」
「やあ、土浦君。昨日火原と日野さんがあんまり楽しそうだったから、つい僕も………なんて思ってしまったのだけれど。そうか、日野さんを怯えさせてしまったんだね。ごめんね。大丈夫? ああ、よかったら家まで送らせてもらうよ。」
「いや、ご心配には及びませんよ。俺もちょっとこいつに野暮用がありましてね。自宅も近いことだし、俺がそのついでに送っていきますよ。」
「………そう。それじゃあ日野さんのこと、よろしくね。」

 香穂子を伴って屋上から去ろうとする土浦と、階段の手すりから身を乗り出していた月森の目が合う。土浦は、一瞬ギョッとしたような表情をしたが、溜息にも似た小さな笑いを漏らしながら言った。

「そんな所から高みの見物とはお前らしいな。俺がここに来なきゃ、今頃もっと面白いもんが見られたかもしれないのに、お前の楽しみを奪っちまって悪かったな。じゃあな。」
「違うっ、俺はっ!」

 そう言いかけた時にはもう、二人は屋上の扉をくぐり、学院内に向かうところだった。
 月森の言葉がかろうじて香穂子に届いたのか、扉の陰からまっすぐこちらを見る香穂子が、一瞬見えたような気がした。


 
 今日もまた、月森は屋上へと足を伸ばしていた。今日は、いつも香穂子がもたれている柵の所に。ここで見る香穂子は、いつも思いに耽っているような、誰かを待っているような…。そんな香穂子を見るたびに、心をかき乱されるような気持ちになるのは一体何故なのか。

 とりとめもないことを考えながら空を見上げていた月森の視界が不意に塞がれ、真っ暗になる。一瞬慌てながらも、視界を塞ぐものを取り除こうと両手を自分の顔にやる。
 自分の両手が掴んだものは、暖かくてやわらかい、小さな手。そして聞こえてくる遠慮がちな声…。

「だっ、だあれ…だ……………。」
「…日野? 何故こんなことをする?」
「月森君、怒らない?」
「理由を聞くまでなんとも言えないな。」
「……そっか…………。」
「そうだ。」

 香穂子は静かに両手を離して月森の隣に並び、いつものように手すりにもたれかかった。
 話しかけられたことが、そして何よりも触れられたことが。嬉しくてたまらなかったのに。
 そっけない対応しかできない自分に失望しながらも、やっとのことでいつもの自分らしく見えるよう振舞う。

「で、理由はなんだ?」
「仕返し……。」
「は? 仕返し?」
「私が困ってるのに、黙って見てたでしょ? 2回も。助けてくれなかった仕返し。」
「俺がいたことを、君は知っていたんだな…。だとしたら、随分と優しい仕返しだな。おとといも、そして昨日も、俺は君に声をかけることができなかったというのに…。」
「月森君……」
「それは俺が…自分から君に声をかける勇気をもてずにいたからで………。」
「え?」

 月森は、そこまで口にすると、つい滑ってしまった口を慌てて押さえた。しかし、もう既に引っ込みが付かなくなっているのは、続きをせがむような、縋る瞳で月森を見つめる香穂子を見るまでもなく明らかなことだった。
「あ、いやその………俺は、別に、俺以外の参加者が君のことを親しげに呼んでいることを気にしていたわけではなくて………」
「気にして………くれてたの?」
「だから、そうではなく、話すタイミングをうまくつかめなかったというか………」
「………私と?」
「あ………ええっと、その………要するに話しかけなかったのではなく、話しかけられなかっただけというか………」
「私も………………同じ………だったよ………。」

 途切れ途切れにそう話した香穂子の顔へと視線を動かした月森は、はっと息をのんだ。

 月森の目に飛び込んだのは、自分を見つめながら、静かに泣き笑いをする香穂子…………

「日野!? 俺は何か君の気に障るようなことを言ったのか? もしそうなら、謝るから………。」
「そう思うなら、私のお願い、ひとつ聞いて。」
「俺にできることなら………」
「私のこと、名前で呼んで?」
「なっ!? いや………しかし………」
「一度だけでいいから………お願い……………。」

 正直、月森は戸惑っていた。しかし、ここでこのチャンスを逃してしまったら、いつまた香穂子との距離をグッと縮めることができるというのか。涙で潤んだ香穂子の瞳に釘付けになりながら、月森は考えた。

(こ、これはまさに千載一遇のチャンスと言えるだろう。この好機を生かさない手はない。
 『一度と言わず何度でも、俺は君の名前を呼ぼう。香穂子。ずっと君が好きだった。君の気持ちを、聞かせてはもらえないだろうか。』………よし。これだ。これしかない。)

 大きく深呼吸した後、第一声を発しようとした月森は、背後から聞こえてきた、呟くように語り掛けるその声に、出鼻をくじかれた。

「一度と言わず何度でも、僕はあなたの名前を呼びます…。香穂先輩…。だから、あの、先輩…よければ僕と………。」
「し、志水君…君は一体いつからそこに……?」


 二の句を継げない志水。

 言うべき台詞を奪われた月森。

 どちらにどういう対応をしたらいいのか分からないままの香穂子。


 我に帰った香穂子が、真っ赤な顔で俯きながら踵を返した。

「わっ私、そろそろ教室に戻るね…。」
「まっ、待ってくれ! 日野! いや、香穂子っ!!」
「えっ!?」


 思いがけない月森の言葉に、立ち止まって振り返った香穂子。

 そんな香穂子の予想外の動きに対応できず、足がもつれた月森。


 そして…………


「やぁやぁ日野ちゃん、ここに来てるって聞い…て………。」
「あ、天羽先輩。こんにちは。」
「し、志水君。えっと、ここで一体何が…。」
「ひの…あ、違った。香穂先輩が、みんなから名前で呼ばれたかったみたいで、泣きながらお願いして、僕が合奏を頼もうとしたら逃げ出して、それから…………」
「志水君、なんか全っ然分かんないよ?」
「はあ。そうですか。」

 焦点の定まらない会話をする天羽と志水の目前には、壁際に追い詰められた真っ赤な顔の香穂子と、その香穂子を、壁に付いた両手で閉じ込めている、やはり真っ赤な月森の姿。

 言い逃れできない体勢になったところを天羽に目撃された2人が、翌日の号外のトップを飾ったことは、タイミングが悪かったとしか言いようのない出来事だった。

 否、当事者の2人にとってはむしろ良かった、と言うべきなのかもしれない。
 恋のキューピッドは、思いを寄せ合う2人に、最高のタイミングをプレゼントしてくれたのだから。




2005.07.24 お預かり
【momo様より】
ひとつの話にこんなにたくさん人出したの、実は初めてですよ。最近カッコイイ月森さんって書けない。どこかヘタレてしまう。でも、それって私の中の月森さんの基本装備かも。

【管理人より】
いいですね、この月森のヘタレっぷり、徹底してて!(笑)
渡瀬も、月森はこんな感じで石橋を叩きまくって渡りそうな気がします。お互いにお互いの思惑を分かってない月森と香穂子が可愛い~~~(>▽<)momoさん、本当にありがとうございました!

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