音が変わる、きっかけは君

東雲さなえ様 加地×日野

 成り行きでアンサンブルを組むことになって早数日が過ぎようとする頃。
 放課後、加地は全く人気のない屋上の長椅子に腰掛け、彼にしては珍しく深い溜め息を吐いていた。
 その手には彼の愛器であるヴィオラと弓。先ほどまで練習を重ねていた証であるハンカチが汗で濡れた状態で傍らに置かれている。
「こんな音じゃ駄目だ」
 ぽつりと呟かれた言葉は、質感を持って彼の黄金の耳に届いた。
 やはり無謀だったのだろうか。憧れの彼女に頼まれてアンサンブルメンバーに組み込まれた時点でこの結果は予測できていたはずだ。
 自分だけ明らかに音の質が違う。それは技術のように練習すれば習得できる類の物ではないように加地には思えた。もっと根底からくる何かに違いない。
 再度溜め息を漏らすと、次の瞬間、階下から続くドアが開き
「加地くん!」
 明るい少女の声が屋上に飛び込んできた。
 今加地が一番聞きたい、そして同時に一番聞きたくない彼女の声が自分の名を呼ぶ。
 加地の姿を見つけ笑顔で駆け寄ってくる彼女の姿が眩しくて、思わず目を眇めた。
「やあ、日野さん。どうしたの?そんなに慌てて」
 己の心は封じ込めて彼女…日野香穂子に笑顔を向ける。
「屋上から加地くんの音が聞こえてきたから、一緒に合わせてもらおうと思って来たの」
 その言葉に、加地は無意識に漏れ出かけた溜め息を押し殺す。
(よりにもよってあの音を聴かれていたなんて……)
「日野さんごめんね。僕はまだ君と合わせられるようなレベルじゃないんだ」
「そんなことないよ!きちんと弾けていたよ?」
「そうじゃないんだ。僕の音は足りていない。君のように人を惹きつけてやまない決定的な何かがね」
 視線をそらす加地を数秒見つめたのち、香穂子はヴァイオリンをケースから取り出しその場で調弦を始めた。
「日野さん!僕は……」
「加地くん。私ね。最近音が変わったねってよく言われるの」
「え?」
 加地の言葉を遮るように言葉を重ねた香穂子の真意が分からず、加地は目をわずかに見開く。
「聴いてくれる?」
 そう告げると加地の返事を待たずに香穂子は弓を弦に滑らせた。
 屋上に美しい旋律が響き渡る。
(なんて美しい。魂が洗われるような清らかな旋律なんだ。でもただ美しいだけじゃない。甘くてまろやかな音が調和して存在している)
 加地は呼吸も忘れてその一音一音に聴き入った。そして。
「ブラボー!!」
 演奏を終えた香穂子に心からの賞賛を送ると、彼女は照れたように頬を赤く染めてはにかんだ。
「ありがとう。加地くん。私の音が変わったとしたら、それは加地くんのおかげなんだよ」
「僕の?」
 耳を疑う発言だった。自分が彼女のために何をしてあげられたというのか。全く心当たりがない。
「私ね。今まで楽しいって気持ちだけで弾いていたの。ヴァイオリンが好きで、弾けたら嬉しくて楽しくて仕方なかった。でもね。加地くんを好きになって色々な気持ちを知ったの。この胸から溢れそうになるくらいのたくさんの気持ち。それをあなたに伝えたくて。今も加地くんのことを想ってヴァイオリンを弾いたんだよ」
 微笑む香穂子を前にして加地は言葉を失った。
 人は、驚きすぎると言葉が出てこなくなるということを加地は生まれて初めて知った気がした。いや、もう自分は一度経験しているではないか。初めて彼女に出会いその音を耳にした時に。言葉にできないほどの感動、その想いを。
(そうか。それを音に乗せて弾けば良いんだ。君を愛おしく想う全ての気持ちを)
 加地は立ち上がると、香穂子の横に立ってヴィオラを構えた。先ほどいくら練習しても納得できなかった曲をもう一度最初から。
 一呼吸置いて弦に弓を滑らすと、まるで奇跡のような一音が発せられた。
 世界がどこまでも広がっていくような、モノクロだった色彩が色鮮やかに映え渡るような。どこまでも自由で、どこまでも美しい。
 音の奔流を加地は体中で体感した。
「ブラボー!!すごいよ!加地くん!」
 香穂子が頬を紅潮させて腕を掴んできても、加地は呆然とその場に立ち尽くしていた。
 今までの演奏とは雲泥の差である音色に感情が追い付かない。
「加地くん。大丈夫?」
 わずかに袖を引かれ、はっと意識を取り戻した加地はようやく香穂子と視線を合わすことができた。キラキラ輝く瞳が嬉しそうに眇められ、満面の笑みを浮かべる姿を目にした瞬間、加地の中で全ての出来事がすとんと収まった気がした。
 今までの加地は自分のことしか考えていなかったのだ。うまくならなければという焦り、皆には敵わないコンプレックス。そういった負の感情を抱きながらただひたすら練習に没頭していた。
 それでは駄目だと教えてくれたのはやはり香穂子だった。加地にとって唯一無二である音色を奏でる愛おしい少女が。
「君はいつだって僕を救い上げて、たくさんの幸せを与えてくれる」
 加地は震える手で香穂子を引き寄せると、そっと抱きしめた。泣き出したい気持ちを堪えて肩口に顔を伏せる。
「本当にありがとう、日野さん。僕の音は君のおかげで変わることができたんだ。こんなに嬉しいことはないよ」
(君を想う、君に恋するこの気持ちが僕の音を変えたんだ)
 恋をすると音が変わる。そのきっかけをくれた、かけがえのない存在。
 心の奥底から愛しく想う彼女の体温をもっと感じたくて、加地は抱きしめる腕に力を込めた。




2014.10.05 お預かり
【管理人より】
予定してなかったのに最初に頂いた作品でした(笑)
月森とは逆の意味で互いに影響し合いながら成長していけるさなえさんの地日が大好きです!(←聞いてない)

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