通い慣れた理事長室の扉の前で、香穂子は数度、深呼吸をした。
ここに来るまでになかなか気持ちの踏ん切りがつかず、すっかり遅くなってしまった。
(でも今日言わなきゃ。会えなくなっちゃうもの)
卒業してしまったら吉羅と関わりがなくなってしまう。
在校生でもない人間と用事もなければ会う必要もないのだから当然だが。
だから今この時が、香穂子に与えられた最初で最後のチャンスなのだ。
そう。
香穂子はこれから世間でいうところの、愛の告白をこの部屋の主にするためにここに来た。
相手は大人で、自分のような高校生を相手にしてくれないのは分かっている。
好きだと告げたら確実に二人の関係性は変わるだろう。良くも悪くも。
(それでも気持ち、ちゃんと伝えなきゃ)
自分の気持ちを相手に告げなければ、前には進めない。
覚悟を決めると、香穂子はこんこんと扉をノックした。
「入りたまえ」
中から聞こえた声にドキリと鼓動が跳ねる。
最後にもう一度だけ深呼吸をして扉を開けると、いつもの定位置に腰かけた吉羅が、香穂子の姿を目にして微笑んだ。
「卒業おめでとう。日野くん」
「ありがとうございます」
「君には今まで学院のために色々貢献してもらったからね。感謝しているよ」
吉羅の前に立った香穂子を感慨深げに見つめ、言葉を紡ぐ。
「唯一残念なのは、君が入れてくれる珈琲をここで飲めなくなることだが……。生徒が学舎を巣だっていくのは喜ばしいことだからね。我慢しよう」
離れることが辛いのは自分だけ。分かっていたけれど、チクリと胸が痛む。
「私、理事長に聞いていただきたい話があるんです」
「ほう。何かね」
「その前に一曲披露させてもらってもよろしいですか?」
そう前置きをしたのち、香穂子はヴァイオリンを取りだし吉羅の前で構えた。
(お願い。リリ。勇気をちょうだい)
奏でるメロディはエルガーの『愛のあいさつ』。
甘く美しい音色が流れ出し、理事長室を満たしていく。
想いを込めて奏でられた演奏は、わずかな余韻を残し、空気に溶けるように終わった。
「文句なしに素晴らしい演奏だった」
拍手と共に、吉羅からもたらされる最高級の誉め言葉に、香穂子は安堵の笑みをこぼした。
吉羅に認められた。もうそれだけで十分だ。
「私、吉羅さんのことがずっと前から好きでした」
素直な気持ちがするりと言葉となって零れ出る。
(ちゃんと言えた)
けれど吉羅の顔をきちんと見ることはできない。
「今までありがとうございました。では失礼します」
香穂子は一礼して踵を返した。
「待ちたまえ日野くん。人の返事も聞かずに言い逃げするつもりかね?」
急いでヴァイオリンをケースにしまい、立ち去ろうとした香穂子を吉羅が呼び止める。
「しかも過去形とは心外だな。もし私が君を好きだと告げたら、君はどうするつもりなんだね」
思いがけない言葉に、香穂子は振り向き目を見開いた。
言われたことの意味を、言葉通り捉えても良いものか分からず狼狽える。
吉羅は立ち上がると、戸惑いの表情を隠せない香穂子にゆっくり歩み寄った。
「君が私に好意を寄せてくれていることは気づいていた。私も君に少なからず好意を抱いているからね。それなりに伝わるものはあるのだよ。それにも関わらず、君が知っている通り、私は教育関係者としての立場を崩さなかった」
種明かしをするように朗々と語りながら歩く吉羅を、香穂子はただ黙って見やることしかできない。
「香穂子」
扉に片手をつき、上から香穂子の顔を覗きこむ。
「私の自制心を誉めてくれて構わないよ?」
なんてタチの悪い大人だろう。
呆気にとられて二の句が告げられない香穂子を見て、吉羅が悪戯に成功した子供のような顔で笑う。
その表情が新鮮で、香穂子は吉羅から目を離すことができない。
もしかしてこれから先も、こうして近くで様々な表情を見ることができるのだろうか。
「こんな私では不満かね」
問われてぎこちなく首を振ると、吉羅は口元に淡い笑みを浮かべた。
「ではこれからもよろしく頼むよ」
勿論、恋人として。
そう付け加えられて、香穂子の頬が赤く染まる。
叶わないと諦めていた想いは、どうやら実を結んだらしい。
この先も、吉羅のすぐ傍にいられる幸福を想い、香穂子ははにかむような笑顔を浮かべた。
2014.11.27 お預かり
【管理人より】
わーい、吉日! あれだけ理事推しなんだから、書いてほしかったんですよね。吉日創作!(笑)
この先のさなえさんが描く吉日の未来が読みたくなりました!(要求しています・笑)