箒星別館

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008.月光

『遥かなる時空の中で3』景時×望美

「……もう嫌なんだ……っ!」
 望美の両腕を強く掴む大きな男の人の手が、小さく震えた。
 自分より年上の男性の血を吐くようなその切実な声を。

 望美は何故かとても愛おしいと想った。



「オレと、一緒に逃げてくれないか?」
 きっと、これは景時の本当の声だ。
 普段より少し低くて、頼りなく揺れる声。
 軽い口調と明るい声音で覆い隠してきた、景時の本当の声。
「……一緒にいてくれるって、言ってくれたよね?」
 不安げに望美を見上げる弱々しい眼差。……九郎辺りなら何て頼りない姿だと一喝しそうな様子だったが、不思議と望美は、そんな景時の姿を情けないとは思わなかった。
「……景時さん」
 ぽつりと望美は名前を呼ぶ。……そうすることしか出来なかった。
 何を言ってあげればいいのか、分からなくて。
 望美より年上で、身体も大きくて。
 自分で言うよりも、ずっとずっと強い人なのに。
 そんな人が、望美に縋る。
 弱い姿を曝け出す。
 それはもう、本当に今が景時の限界だからなのだろう。
 一度望美が景時を失った世界。あの時、歴史に名を残すこと引換に、命を捨てた景時。……そうせざるを得ないくらいに、何かに景時は追いつめられていた。
 今、景時が望美に教えてくれた、彼に与えられてきた鎌倉殿からの指令。……本当は、それだけが彼を苛むものとは、望美には思えなかったのだけれど。
 それでも。
(逃げたいって……今の景時さんが思っているのは、本当だ)
 血を吐くような切実な叫びは、確かに今まで誰にも見せたことのない景時の本心だ。それだけは間違いない。
 ……だけど。
「……景時、さん」
 もう一度、望美は彼の名を呼ぶ。
 望美に縋り付く彼の手の甲に触れた指先に、ほんの少しの力を込めた。

「逃げちゃ、駄目です」
「……望美ちゃん」
 まっすぐに望美を見つめていた景時の眼差が、絶望に揺れる。
 望美は大きく息を吸い込んで、一度双眸を伏せる。そして目を開くと、景時の揺れる視線を真直ぐに見つめ返した。
 ……彼に、望美の気持ちがきちんと届くように。

「逃げちゃ駄目。……だって、それは景時さんの、本当の願いじゃないから」

 ここに景時が現れた時、彼は望美に問いかけた。
 「君には、オレの考えてることが分かるの?」と。
 分からない。……分からなかった。
 だからこそ、望美は一度、景時を失ったのだ。
 今でも自信なんてない。自分じゃない人の気持ちなんて、想像は出来ても本当の意味で知ることは出来ない。
 だから本当は。景時が望むなら、彼の言うように、二人で手に手を取って、この目の前の現実から逃げ出したって良かった。
(だけど、きっと違う)
 ……「楽になりたい」と景時は言った。
 それが、彼の本心。
 何に煩わされることもなく、咎められることもなく。
 穏やかに、平凡な幸せの中で生きる日々。
 だけど、何もかもを捨ててしまっては。
 今、景時を脅かすしがらみから例え逃れられたとしても。
 きっと、楽にはなれない。

「景時さんが、本当に今、逃げて。……楽になれるんなら、私は一緒に逃げようって言えると思う。だけど違う。……絶対に違うの。景時さんは、優しい人だから」
 目の前の苦しみから、ほんの一時目を逸らして幸せになれるのなら、彼はこんなに苦しまない。
 逃げてはいけないから。
 逃げても、何も変わりはしないから。
 ……それを、本当は彼が一番よく知っているから。
 だから、景時はこんなにも苦しい。
「……君は、オレを買い被り過ぎだよ。望美ちゃん……」
 力を抜いた景時の身体が、その場に座り込む。かろうじて望美を繋ぎ止める、望美の袖を掴む指先。望美はその片方の手を両手でぎゅっと握りしめる。

「……考えよう。景時さん」
 呆然としたままの虚ろな眼差が、ゆらりと揺れて望美を見つめ返す。その目の中をしっかりと覗き込んで、望美は景時の手を握り締める自分の手と、紡ぎ出す言葉とに、力を込めた。

「逃げないで、違う道を選ぼう。本当に景時さんが幸せになれる方法を。二人で一緒に、考えようよ」

 きっと、あるはずだ。
 望美が白龍の逆鱗を手に、運命を越えてきたように。
 何も捨てないで。
 何からも逃げないで。

 皆が幸せになる。……そんな方法が。



(君は、何も知らないから言えるんだ……)
 二人、甲板に座り込んで夜明けを待つ。
 この戦の決着が付く……そして、景時が鎌倉殿の命を果たさねばならない、その瞬間が近付いている。
 景時に逃げては駄目だと諭した少女は、知らない。
 次に景時が奪おうとする命が、誰のものであるのかを。
(いつだって、オレは逃げたかった)
(だけど、逃げ切れずに流されてた)
 主の命だから。
 それが、景時の使命だから。
 その言葉を言い訳にして、流されるまま、この手を他人の血で汚してきた。
(君まで、手にかけたくはないのに)
 彼女の命を奪うくらいなら、誰にどれだけ卑怯者と罵られようと、この現実から逃げ出した方がよかった。
(……だけど)
 景時は、自分の両手を見つめる。
 あの時望美に、縋った己の両手を。
(本当は、分かってるんだ)
 きっと、望美の言うことの方が正しい。
 目の前の現実から逃げ出しても。
 ……自分を取り巻く何もかもを忘れようとしても。
 きっと、自分は忘れられない。
 己の弱さ故に目の前の現実から逃げ出し、そしてそのために、戦友を裏切り、朔や母を苦しめてしまうことに、生涯苛まれるだけなのだろう。



 甲板はまだ夜の帳に包まれている。
 船に打ち付ける波の音だけが、夜の静寂の中で繰り返し、響いている。
 そして、頭上には月。
 明るい月の光は、闇の中の風景をほんの少しだけ垣間見せる。

「……オレにも、見つけられるかな?」

 望美ちゃん、と小さく語りかけ。
 景時は、隣に座り込んで束の間の眠りにたゆたう少女の手の甲に、そっと指先を触れさせる。


 見つけられるだろうか、自分にも。
 闇の中、もうどこにも行き場がないと諦めて、立ち止まった歩先にも。
 柔らかな月光が射せば、今まで見えていなかった違う道は見えて来るのだろうか。

(そうだね。……見つけたいよ)
 誰も傷付けない……望美を失わない未来。
 彼女と共に、何にも煩わされることなく、生きる幸せ。


 ……見つかるのかもしれない。

 彼女という月光が、行き場をなくした景時の足元を。
 ほんのりと、明るく照らしてくれるなら。
008.月光

2015.08.09 転載


【あとがきという名の言い訳】
ゲームの「一緒に逃げよう」のイベントの部分です。
逃げたら楽になるけど、本当の意味では逃げ切れないということで、
望美はここで景時のために、景時の甘えを許さないんだろうなあとか。
まあ、実際は逃げちゃうEDもあるわけなんですけどね(笑)
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