051.魔法
『ネオアンジェリーク』レイン×アンジェ
不意に意識が浮上して、ぱちりと目を開くと、視界は一面の闇の中だった。
目覚めた瞬間には不透明な意識が、天井を見つめ、何度か瞬きを繰り返しているうちに、徐々に覚めて来る。まだ夜なのだと分かったのは、静寂の中で進む時計の針の微かな音と、傍らにいる猫のエルヴィンが、まだ深い眠りの中にいて、小さく丸まっている、その温もりがブランケット越しに伝わって来るから。
(……ああ、まだ朝は来ていないのね……)
小さな溜息をついて、アンジェリークは片方の手の甲で瞼を押さえる。
……夜の静寂は好きじゃない。
すぐに帰ると言い残して、そうして二度と帰ってくることはなかった大切な存在を、微睡むことも出来ず、独り待ち続けていた夜を思い出してしまうから。
もう一度眠ろうと、何度かベッドの上で寝返りをうっていたアンジェリークだが、一度覚めてしまった意識が、何をすることもなくもう一度眠りの淵に引き込まれることはなかった。しばしの逡巡の後、アンジェリークは思い切ってベッドの上に身を起こす。
(何か、暖かいものを飲んで、落ち着かないと)
こっそりキッチンへ降りてホットミルクでも飲んで来ようと、アンジェリークは物音を立てないように、そっとベッドから抜け出す。
わずかに軋んだベッドに、ブランケットの上のエルヴィンが、丸まったまま不快そうに尻尾をぱたりと振った。
ほんの少しひやりとする夜の空気に、咄嗟に椅子の背もたれに掛けていたショールを手にとって羽織り、アンジェリークは薄暗い廊下に踏み出す。カーテンをしっかりと閉めた自室よりは、月の光が差し込む分、廊下の方が明るく感じて、アンジェリークはほっと安堵の息をついた。
(……あら?)
明かりを付けないまま、足元を気にしつつキッチンへ向かいかけて、ふとアンジェリークは自分の足元に射す月光ではない光に気付く。思わず顔を上げると、傍の部屋のドアがほんの数センチほど開いていて、そこから部屋の明かりが漏れているのが分かった。
(……レインの部屋だわ)
若き研究者の肩書きを持つ彼は、一旦研究に没頭し始めると、並々ならぬ集中力を発揮して、寝食を忘れるようになる。真夜中に起きていることは珍しいことじゃないし、下手をすれば朝まで眠らないこともあるらしい。
アンジェリークはキッチンに向かう足を止め、レインの部屋のドアの前に立つ。
(レインも一緒に……お茶をどうかしら)
ノックをする手を躊躇いながら、アンジェリークはそう、この扉の先に行く理由を自分の中で必死に作る。
……ほんの少し。
数分で構わないから。
研究の合間、心ここにあらずでも、ただ相槌を打つだけでいいから。
自分と、話をして欲しかった。
……自分が、今はもう独りじゃないんだと。
実感したかった。
「……レイン? 起きているの?」
こんこん、と遠慮がちに開いているドアをノックして声を掛けてみるが、部屋の主からの返答はない。また活字を追うのに夢中になっているのかと、アンジェリークはそっとドアを開き、中へ足を踏み入れてみる。
部屋の主が、これはこれで機能的だと豪語する、本やアーティファクトがところ狭しと並んでいる、レインらしい雑多な部屋。不思議なことに、その室内はしんと静まり返っていた。
「レイン……入るわよ?」
そう告げても、まだ返事はない。アンジェリークはそろりそろりと、周りの本の山や、足元のアーティファクトと思しき精密機械類を、崩したり踏んだりしないように、部屋の奥へ進んでいく。積み上げられた本の塔の合間に、赤と銀の混ざった、見慣れた髪が見えた。
「レイ……」
……ンと、呼び掛けるはずだった名前が、途中で途絶えた。アンジェリークはその場で立ち尽くした。
部屋の主は、机の上で広げた本に囲まれて、突っ伏して寝入っている。
アンジェリークは、慌てて声を出さないよう、両手で自分の口元を押さえた。
(返事がないのは、眠っていたからなのね)
そっと背後からレインの様子を伺い、アンジェリークは納得する。静かな室内には、レインの規則正しい寝息だけが微かに響いていて、彼の眠りの深さを物語っている。
(……そうね。幾らレインでも、疲れているわよね)
アンジェリークは苦笑する。
皆は、浄化を一手に引き受けるアンジェリークの事ばかりを気遣ってくれるが、アンジェリークが浄化出来るまで、矢面に立ってタナトスを弱らせてくれるのは、レイン達4人だ。アンジェリークが疲れるのなら、彼らの疲労だって相当のものだ。
そうして戦闘を繰り返しながら、更にレインは連日アーティファクトの研究を怠らないのだ。……見せないようにしていても、疲れていて当然だ。
(起こすのは、可哀想だわ)
アンジェリークの勝手な寂しさに、レインを付き合わせる必要はない。
……それに。
(こんなに心地よさそうな寝顔が見れたから)
オーブハンターでも、博士でもない、年相応の青年の。
少しあどけない、可愛い横顔。
そんなレインの寝顔を覗き込みながら、アンジェリークはふふっと笑った。
その瞬間、アンジェリークはくしゅんっと小さなくしゃみをする。慌てて片手で口元を押さえたが、レインが目覚める気配はなく、ほっと胸を撫で下ろした。
(でも、このままじゃ風邪を引いてしまうし、身体にも良くはないわよね)
うん、と一つ頷いて、アンジェリークはきょろきょろと辺りを見渡す。さすがにアンジェリーク一人の力でベッドに運ぶことは無理だし、こんな夜中に誰かを呼ぶわけにもいかない。せめて、何か羽織るものでもと思ったのだが、いろんなものがあり過ぎるレインの部屋では、ブランケットを探すことすら困難だった。
(……いつも、どうやって寝ているのかしら)
そういえば、リビングのソファに横になってる姿しか、見たことはない。
首を傾げながら、アンジェリークはとりあえず、と自分が肩からかけていたショールを取って、そっとレインの肩にかけてやった。気休めだが、何もないよりはいいはずだ。
「……ん」
ショールを掛けた途端、その下でレインが、ふと眉間に皺を寄せて、小さく呻く。はっとして、アンジェリークが思わず後ずさると、ゆっくりとレインの目が開いた。
「ん……? アンジェリーク……?」
レインはすぐに背後にいるアンジェリークに気付き、眠そうに瞬きをしながらも、意外にしっかりとした口調で名を呼びながら、身を起こした。
「ご、ごめんなさい……勝手に。その、ドアが開いてて、明かりが見えたものだから、起きているのかしらと思って……一緒にお茶でもと思ったのだけれど……」
必死に言い募ると、ああ、と納得するレインが、くしゃくしゃと片手で自分の髪をかき回した。
「別に、構わないさ。……うっかり、うたた寝してたみたいだな」
ふう、と息をついて。
それから、ふと思い付いたように、レインがアンジェリークを見上げる。
「……お茶だって?」
「ええ。……そして、少し話でもできればと思っていたのだけれど……」
きゅっと自分の両手を握り締め、アンジェリークは俯く。
暗い闇は、帰らぬ人達をひたすら待った、あの夜の静寂を思い出して。
哀しくて、辛くて。
独りでいるのが怖かった。
少しの間でいいから、誰かに傍にいて欲しかった。
だけど。
「……もう、いいの」
にっこりと笑って、アンジェリークはそう言った。
レインの穏やかな横顔を見つめていたら。
今、彼が安心出来る空間に、自分も存在していることを実感出来た。
会話はなくても。
レインが、そこにいるだけで。
「……じゃあ、私は部屋に戻るわね。起こしてごめんなさい、レイン」
「ああ、待てよ。……これは、お前が掛けてくれたのか?」
自分の肩に掛けられていたショールを手に取り、レインが尋ねる。差し出されたそれを、慌ててアンジェリークは受け取った。
「……サンキュ」
照れたように笑うレインに、アンジェリークはただ頷いた。
「……それと」
ショールの礼の、その続きの声音で、何でもないことのようにレインが呟く。
「今度、また夜中に目が覚めた時には、遠慮なくここへ話をしに来ていいぜ」
「……え?」
机の上に頬杖をついた姿勢で、アンジェリークを見つめるレインの目が、優しく細められる。
ここに来た意図を、正しく読まれていたことに気付き、アンジェリークは息を呑んだ。
「で……でも」
夜の闇が、不安で怖い、だなんて。
あまりに、子供じみた、幼い感傷なのに。
「レインの研究の、邪魔に」
「俺が起きていることには変わりない。円滑な研究のためには、適度な休息も必要さ。お前が話に来てくれたら、逆に研究がもっと進むかもしれないぜ」
きっぱりと言い切って、悪戯っぽく笑いながら、片目を瞑る。
「ついでに、美味しい紅茶と甘いアップルパイを運んで来てくれたら、糖分も補給出来て言うこと無しだな」
一瞬きょとんとしたアンジェリークが、ぱちりと瞬きをして。
それから、小さく吹き出した。
くすくすとひとしきり笑った後、アンジェリークは顔を上げる。
まっすぐにレインを見つめ返して。
そして。
花開くように、艶やかに笑った。
「夜に目が覚めたら、きっと、ここに来るわ。……ありがとう、レイン」
(……反則だ)
不貞腐れて頬杖をついたまま、レインは心の中で呟く。
反則だ。
あんな、無防備な。
……愛らしい笑顔で。
(おかげで、研究どころの騒ぎじゃない)
鼓動が、激しくて。
頬が熱くて。
……心が揺れる。
(……まるで魔法に、かかったみたいな)
ベッドに潜り込んだアンジェリークも、同じことを想う。
(魔法みたい)
暖かいホットミルクを飲まなくても。
……他愛無い楽しい会話がなくても。
ただ、レインがそこにいるだけで。
穏やかに過ごしていてくれるだけで。
……アンジェリークに優しく笑いかけてくれるだけで。
心は、容易く凪いで。
そして、意識は安らかな眠りに落ちる。
040.凶刃
2015.08.9 転載
【あとがきという名の言い訳】
ネオアンではレイン推しでーす(どうでもいい)
ネオアン、実はいろいろ書きたい感じだったんですけど、
アンジェがあまりに女の子で、私自身にその要素が
欠片ほどもないために書くのが難しいのです。
久々にゲームもやりたいなー。