在るべき場所へ 第3話
『暁のヨナ』ハク×ヨナ
「お帰り、姫さん。さっぱりしましたか?」
ヨナが部屋へ戻ると、ハクはもう先に戻っていて、自分で買い込んできた蒸し物を頬張っていた。「食べます?」と問われ、反射的にヨナは頷いた。
紙袋の中から取り出した同じ蒸し物を受け取り、椅子に腰かけてヨナはその蒸し物を一口齧ってみる。だが、食欲をそそる肉のいい香りが漂うその蒸し物は、まるで砂を噛むように味がしない。もそもそと呑み込めない蒸し物を無理矢理呑み込むヨナの様子に、当然ハクが気付かないはずはなかった。
だが、ハクは何も聞かず、ヨナのために黙って茶を淹れる。仄かな花の香りが漂う湯呑みを、ヨナの傍の卓の上に、そっと置いた。
「……怖いなら、やめてもいいんですよ」
何とか蒸し物一つを最後まで呑み込み、お茶を一口含んだところで、穏やかなハクの声がそう告げた。反射的にヨナは顔を上げ、ハクの端正な顔をまっすぐに見返した。
「怖くなんてないわ!」
「……姫さん、そもそも俺があんたに何をしようとしてるのか、ちゃんと理解してます?」
ヨナと二人で街中を歩き、感情が落ち着く中で、ふとそのことがハクの脳裏に過った。
……ヨナの傍に仕える者たちの中に、本当の意味でヨナのことを考えている臣下はわずかだったことを、ハクは知っている。
ヨナの父・イル王の治世は、決して王の理想通りのものではなかった。
嫡子であるヨナには到底聞かせられないイル王への誹謗中傷も、将軍であるハクの耳にはそれなりに届いていた。
理想を揺るがせない一途さはイル王の利点だったと今でもハク自身は思っているが、その利点を利点として認識していない者が多かったことは、今ヨナが置かれている現状を見れば明らかだ。
水面下でイル王を軽視している臣下は多かった。城内で不穏の輩が表面化しなかったのは、ひとえに高華の雷獣と呼ばれるハクが側仕えであったためだ。飾りの王でしかなかったイル王の一人娘であるヨナが、城内の臣下たちに侮られていたことは想像に難くない。
……将来高華国の王となるべき人物を産むはずの姫であったとしても、当の王がヨナをまだまだ幼い娘として溺愛していた。いつかは、という考えはあったとしても、生々しい男女の営みについてヨナに教えるのは、まだ早いと考えていたに違いない。
当然、その辺りの危機感を持って、ヨナに男女間のアレコレなど耳打ちするものはいなかっただろう。
(……「赤ちゃんは伝説の鳥が授けてくれる」だの、「畑の野菜の中から産まれる」だの言い出さねえだろうな……?)
ヨナの専属護衛とは言え、さすがにそちらの教育に関してはハクは専門外だ。ヨナがその手のことに関してどこまでの知識を持っているのか、ハクは知らなかった。
「し、失礼ね。ちゃんと理解しているわよ! ……そりゃ、経験なんてないから、詳しいことまでわからない……けど」
真っ赤に頬を染め、視線を足元に落としてもごもごとヨナが口ごもる。
おや、とハクは首を傾げた。……どうやら、婚姻を結べば勝手に子どもが授かる……などというおとぎ話が、どれだけ現実から剥離しているものなのかを説明する必要はなさそうだ。
「参考までに。……その手の話、誰から聞きました?」
片手を挙げて、ハクが尋ねる。
少なくともハクの記憶にある限り、ヨナが関わっていた臣下たちの中に、世継ぎを産むことの重要性を説くような『出来た』人物は存在しない。
綺麗ごとを並べ、本来ヨナが知るべき事柄を決してヨナの耳に入れることはなく、波風が立たないことだけに留意しながら、上辺だけでヨナに関わっていた女官がほとんどだった。
今頃彼女たちは、何の疑問も持つことはなく、ヨナから居場所を奪ったかつてのハクの友人の世話をしているのだろうか。
……不意に浮かんだ忌まわしい存在の面影を、ハクは軽く首を横に振って消し去った。
「……ハクが城に上がる少し前に、急に辞めてしまった女官がいたの。他の女官たちに比べてとても厳しい人だったけれど、私の話をきちんと聞いてくれる人だったわ。その人が教えてくれていたの。他の誰も教えてくれなかった、私が学ぶべきいろいろなことを」
少し年老いたその女官は、ただ一人ヨナに対してヨナが高華国の姫として果たすべき役割を説いてくれた人だった。
何不自由なく、望むものをこの緋龍城という箱庭の中で与えられる代わりに、ヨナが果たすべきこと……それは、この王族を紡いでいく新しい命を育むことなのだと。
「今思えば、母上の記憶がほとんどないのにギガン船長が母上のように思えたのは、むしろその女官に似ていたからかもしれないわ。厳しさの中にきちんと優しさがある……たくさんの女官たちの中で、唯一私が信頼できた人だったの」
ヨナの言葉に、ハクは合点がいった。
世界の広さを知れば、ヨナはきっとただのお飾りの姫では収まらなかった。今のヨナを見れば、彼女が確実に王としての器を持っていることが分かる。
そこにかつての親友の影を感じたくはないが、王座を虎視眈々と狙い、ヨナをただの何もできない姫として置いておきたかった者たちにとって、ヨナに王族として必要な知識を与えるその女官は、邪魔な存在でしかなかっただろう。きっと、ヨナの目に映らない城の裏側で、謀略のうちにヨナの傍から引き離されてしまったのだ。
「……まあ、何であれ。姫さんがその辺りをきちんと理解してくれてるんなら、話が早い……」
まだ湿ったままの黒髪をくしゃりとかき混ぜ、ハクは立ち上がる。ヨナの目前に静かに佇み、そしてハクは、そのまま床に片膝を付いた。
「ハク……?」
「姫さん。……いや、ヨナ姫」
不安げにハクの名を呼ぶヨナの声を遮るように、真剣なハクの低い声がヨナを呼ぶ。先ほど約束した恋人としての呼び方ではなく……主と従者としての名を。
がた、と椅子を揺らし、ヨナが立ち上がった。
「ハク……やめて。私を姫と呼ばないで。お前の前では私」
「そうはいきません。これは、俺のケジメなんで。……とりあえず、最後まで聞いてもらえませんかね?」
苦笑するハクに諭され、ヨナは渋々ながらもう一度椅子の上に腰かける。
片膝を付くハクは低く頭を下げ、いつも軽口をたたく時とは違う、深い声音でヨナに語りかけた。
「……ヨナ姫。貴女はこの高華国の正統なる血を継ぐ姫です。たとえ城を追放されたとしても、その真実は消し去りようがない」
そして、徐に顔を上げたハクの鋭い視線が、ヨナを射抜く。
「……貴女は万が一、俺の血を引く赤子をその身に宿した場合。その子を王にする覚悟がおありか?」
ヨナを手に入れる。
心も身体もハクのものにする。
その抗いがたい誘惑の果てには、ハクがこの高華国の繁栄の根源に関わらなければならなくなる可能性が見え隠れする。
一国の姫を手に入れるとは、そういうことだ。
……だが。
「問われる前に予め言っておきますが。……俺は、貴女を手に入れても、この国の王にはなれません」
「……ハク」
「責任逃れがしたいんじゃないですよ。……この国の王になるということは、この国を守るために命をかけるということ。他の何を犠牲をしても、この国のために命を賭すということだ。だが、俺には国より先に、命をかけて守りたいものがある」
ハクは、国を背負う存在にはなれない。たとえこの国が滅びても、まず大切にするべきものがハクにはあるからだ。
「……貴女以外の何者をも、俺は優先して守れない。俺はこれからもこの命をかけて貴女を守り抜きますが、それ以外のものは、もう何一つ負えないんです」
王とは、国の存続のためにあるべきものだ。たとえヨナという存在は望めても、ハクはこの国の頂上に立つことは望めない。そうなりたいとは思わないし、なれるとも思えない。
「たとえ貴女がヨナ一個人として生きることを望んでも、国がそれを許すかどうかは分からない。……貴女が高華国の皇女である以上」
今はスウォンという王を掲げ、平定の道へ進もうとしているこの国は、どこで綻びが生じるかは分からない。
どんな大義名分があれ、スウォンは簒奪の王だ。今はまとまりつつある臣下たちも、スウォンがひとたび何かに躓けば、途端に手のひらを返すことは全くあり得ない話ではない。そして、その『何か』が起こった際、彼らの脳裏に真っ先に過るのは、正統なる王族の血を引く……おそらく、一部の者たちにはその生存が知れている……ヨナだろう。
ヨナが何を望もうと、この国が揺らげばヨナは否応なくそのうねりに巻き込まれることになるのだ。
ハクの視線の先で、ヨナはゆっくりと双眸を伏せる。しばらくの後、開いた菫色の瞳は、ハクの予想を覆し、酷く穏やかな色をしていた。
驚くハクの前で、ヨナは小さく笑った。
「……ねえ、ハク。覚えてる? 私がスウォンを想っていることを父上に告げた時、確かお前もその場にいたわよね」
ヨナの16歳の誕生日が近づいていたその日、そろそろヨナの婚約者を選ばねばならないと告げた先王に、ヨナは自分がスウォンを想っていることを告げた。だが、スウォンの幸福を望むのなら、スウォンとの婚姻を望んではならないと先王は諭した。
もう、明らかにすることはできないが、今思い返せば先王はスウォンに対して何かの疑念を既に抱いていたのかもしれない。だが、ヨナの心に今も深く刻まれるのは、スウォンと結ばれることを否定されたことではなかった。
「……私を手に入れたら、ハクは不幸になるのかしら……?」
スウォンを幸せにしたいのであれば、共に生きることを望んではならない。
ならば、ヨナという存在は、周囲のものに不運しかもたらさないのであろうか。
愛した人と添い遂げたいとヨナが望むことは、その愛する者を不幸にするのだろうか。
父から言葉が放たれた瞬間にヨナの心に生まれた不安は、ずっと呪いのように奥底で燻り続けていた。
「……まあ、仮にも一国を治めることになる人物の傍にいるわけですから、決して安寧とは言い切れないでしょうね。……ですが、俺は別に不幸にはなりませんよ」
ゆっくりと身を起こし、ハクはヨナに歩み寄る。触れるほど近い場所にもう一度片膝を付き、下方からヨナの顔を覗き込みながら、そっと指先でヨナの頬に触れた。
「あんたを手に入れられるなら、俺にそれ以上の幸福はありませんから」
何せこれでも高華の雷獣なんで、俺を害せるヤツがいるなら逆にお目にかかりたいくらいですよ。
冗談めかしてそう呟き、力強く笑うハクに、ヨナの心の奥底で凍らせていた想いが。
……自分の愛情が、誰かを不幸にするのではないかという不安から、無意識のうちに凍らせていたハクへの想いが……本当に、解ける。
傍らのハクに縋るように両手を伸ばし、ヨナは泣きながらハクを抱き締めた。
「……大丈夫、お前を王にはしないわ。もし、本当にいつか私が城に戻る日が来るのなら……その時は、私自身が王になる」
何も知らない深窓の姫君だった頃の自分は、もう遥かに遠い。
国を治めることがどれだけ難しくても、今のヨナには大切な仲間がいる。
傷つけること、傷つけられることの痛みを知っている彼らと共にあれば、ヨナは自ら進んで間違った道を歩むことはない。
ならば、きっと出来るはずだ。
ヨナ自身の力でこの国を、正しい方向へ導くことが。
「その代わり、もし私がお前の血を引く子どもを宿すことになったら……その子に未来のこの国を背負わせることを許して。きっとお前の血を引く子なら、強い子に育ってくれるはずだから」
高華の雷獣の異名を持つ者を父とする、新しい命だ。
きっと降りかかる火の粉を自らの力で振り払える、強い存在になる。
……だから。
「お願い、ハク。私の傍にいて。私をお前の傍にいさせて。お前を好きでいることを、私に許して」
震える声で、ヨナが懸命に言葉を紡ぐ。
自分に縋り付くヨナを優しく引き離し、微笑むハクが指先でヨナの頬を伝う涙を拭う。
「……あんたにその覚悟があるのなら、俺ももう、迷わない」
ヨナの頬に、瞼に、ハクは一つ一つ静かな口づけを落としていく。
そして、両手でヨナの頬を押さえ、その潤む菫色の瞳を、息がかかるほど近い場所から真っ直ぐに見据える。
「……お前を貰う。……ヨナ」
そして、まるでヨナの全てを食らい尽くすような。
ハクの激しく深い口付けから。
その夜は始まった。
2015.03.01 執 筆
2015.08.15 加筆修正
【あとがきという名の言い訳】
ハクがヨナの覚悟を問うこのシーンがずっと書きたかったのです。
きっかけになる話に「放たれる」とタイトルをつけてしまいましたが、
実はこの話にかかってくるタイトルでした。
なので、このシリーズは本当は5作通して「放たれる」なんですよね。
この話は次で終わりますが、最終話は裏頁となります。
ただし、この話のテーマそのものはこの第三話に詰め込んでいますので、
読まなくても何ら問題はありません。