11.気づいてしまった
『暁のヨナ』ハク←ヨナ
「ねえ、ユン。ちょっと聞きたいことがあるのだけれど」
戎帝国での出来事を乗り越え、何かと慌ただしかった日々が落ち着いたある日のこと。いつものように食事の用意をするべく、小川にて本日使用する食器類を丁寧に洗い始めたユンの傍らで、その作業をぎこちない手つきで手伝っていたヨナが、徐にそう切り出した。
ユンにしてみれば、ようやく来たか、という感じである。
数日前から何度か、ヨナがユンに何かを言いたげにしていたことに気が付いてはいた。だが、何と言っても総勢7人と1匹の大所帯なものだから、これまでに悉くその言いたいことを言うきっかけを、他の連中に邪魔されていたのだ。
「俺に答えられることならね。……まあ、この天才美少年に答えられないことなんて、そうそうないとは思うけど」
食器を洗う手を休めることはなく、ユンは応じる。これまでにも何度か、ヨナの発する問いに答えてきた実績を踏まえての発言だった。
城を追われて以後、ただ生きるために必死だった姫君は、弓を覚え、剣を取り、儚げな印象は欠片ほどもなくなっている。だが、16年間城の奥深くに閉じ込められていた深窓の姫君だ。本人が嘆くように、積み重ねてきた無知は早々に満たされるものではなく、ふと目に止まった無邪気な疑問をユンに尋ねては、知識の器を満たしていく作業を、ヨナは相変わらず繰り返しているのだ。
「……あの、ね」
いつもは躊躇いなく発される質問が、今日はなかなか唇に上ってこない。何度か言いよどむヨナを、怪訝にユンが見つめた。
「あの……私ってそんなにいつもハクのことを見ているかしら」
……返答をするのに、さすがのユンもしばしの猶予を要した。
「……何なの?急に」
即答はせず、ユンは小さく首を傾げる。
はっきり言ってしまえば、ヨナが言うほどにハクのことを見ているのか、真偽のほどはユンにはわからない。道中、ユンはユンで考えなければならないこと、見なければならないものが嫌というほどある。ヨナに偉そうなことを言ってはみても、世界を知らないという意味では自分もヨナも大差ない。脳内にこれでもかと詰め込んだ『知識』を『経験』に変えていく作業は、想像以上に忙しい。
それに加え、一行の中で一番の常識人を自称する立場としては、暴走気味になりがちな珍獣どもの動向も見張らねばならず、正直なところ、ヨナが普段何を見ているかなど注視していられないというのが本音だ。
だが、見ていても別にそれはそれでいいのではないかとユンは思うのだ。
おそらく皆が共通して感じていることだが、ハクという人物は違う意味で『危うい』。
全てにおいてヨナを優先しがちな『専属護衛』は、ヨナのことになると己を顧みなくなる。それはいつしか彼自身の命を脅かすことになる……言葉にはしないが、同行するユンも四龍達も同じ危うさをハクには感じていて、おそらくはヨナ自身もそれを感じ取っている。
ならば、彼の身を案じて視線が向くくらいのことは、別段問題がないように思えるのだが。
「あの……カルガンにね、言われたの。『ずっとあいつのことを見てるけど、ヨナはあいつのことが好きなのか?』って。……ち、違うのよ!? その時はハクにたまたま目がいってただけなの! だけど、そんなに見ているつもりがなかったから、もしかしたら自分で気が付かないうちにハクのことを見てるのかなって……」
真っ赤になって言い募るヨナに、ユンは少し驚いて。
そして、少しだけ微笑ましい気持ちになり、知らず唇の端に小さな笑みを浮かべる。
ヨナと一緒に天幕で身を寄せ眠るユンは、気が付いていた。
このところ、ヨナがよく眠れていないことを。
激しい戦闘の只中にあり、緊張し通しだったせいかと心配していたのだが、寝付けないヨナの小さな溜息の理由がこれならば、あまり心配し過ぎるのもかえって野暮というものだ。
一通り洗い終え、かしゃかしゃと音を立てながら器用に山積みにした食器類を「よいしょ」と抱え上げ、ユンは真っ直ぐにヨナを見つめた。
「あのねえ。いくら天才美少年とは言え、他人の心を読めるわけじゃないんだよ? そんなこと俺に聞いてみたって、ヨナの納得いく答えが出るわけないでしょ」
無意識のうちに専属護衛を追ってしまう視線の理由がただ忠実な臣下を心配しているだけなのか、それとも恋という感情がそうさせるのか。
答えを導き出せるのは、ヨナ自身だ。
「……ヨナってさ。人を好きになったことあるの?」
「え?」
ユンの問いに、虚を突かれたようにヨナが目を丸くした。その菫色の目が不安定にゆらりと揺れ、視線が足元に落ちる。
「……ある、けど」
「……じゃあ、俺なんかよりヨナの方が分かるんじゃないの? 比べてみなよ。その時の気持ちと、今雷獣に対して感じる気持ちが、同じかどうかさ」
ユンに、恋心というものは分からない。
その日の食料を確保することだけに精一杯の日常。誰かを好きになる余裕も何もあったものじゃなかったからだ。
……だが、そんな真実をヨナに突き付けるのはユンの勝手な感情でしかないので、ただ静かに心の奥底に沈めて。
ヨナが今の気持ちを理解するその糸口だけを、ユンは彼女の目の前に差し出した。
スウォンを想っていた頃とは全く違う感情だとヨナは考える。
ヨナが恋をしていたころのスウォンは、ただただ優しく穏やかな人で、ハクのようにヨナをからかったり、意地悪なことを言ったりはしない。いつもにこにこと暖かい笑顔で、ヨナのことを見守ってくれていた。
……今思い返せば、ヨナが恋をしたスウォンの優しさの全ては、虚構だったのだけれど。
それでもあの決別の日まで、ヨナにとってのスウォンは自分の心を暖める存在で、彼に抱く感情はふわふわと優しくて可愛らしい、甘い砂糖菓子のようなものだった。
(……多くを望んだわけじゃなかったのに、な)
少しだけ振り返られるようになった過去を思い、胸が痛んだ。
父に我儘も言ったけれど、心の奥底でヨナは気付いていた。
自分はこの高華国のために、いつか父の決めた人間と添い遂げなければならないこと。父が駄目だと言い切ったからには、その相手はスウォンではありえないこと。
だから、ヨナはスウォンに自分へと想いを返して欲しいとはあまり望んでいなかった。ただ、これまで通りスウォンに甘く優しい気持ちを抱いたまま、ほんの少し、彼に自分の想いを、存在を認めていて欲しかっただけで。
たとえ、彼の隣に並んで歩くのが自分ではなかったとしても。
いつでも幸せに、ただ笑っていて欲しかった。
そこまで思い至り、ヨナは次の瞬間にはっと瞠目する。
かあっと体中の血液が沸騰するみたいに熱くなる。誰もそばにはいないのに、思わず口元を両手で押さえ、がばっとその場に立ち上がった。
「……姫さん? いつまで油売ってんですか。いい加減天幕に戻ってくだ」
川べりから戻らないヨナを心配したのか、ふとハクがその場に現れる。いつもの飄々とした口調で立ち尽くすヨナの背中に声をかけると、皆まで言わないうちに、頬を真っ赤に染めたヨナが、ものすごい勢いでハクを振り返った。
「わ、分かってるわよ!! いちいち迎えに来ないで!」
大声で答えたヨナが、まるで風のようにハクの目の前を走り抜けていく。
一人その場に取り残され、呆然とヨナの華奢な背中を見送ったハクは、訝しげに眉間に皺を寄せ、片手で前髪をかき上げた。
「……何怒ってんだ? 姫さん」
ああ、どうしよう。
気づいてしまった。
スウォンは優しくて暖かい。
ハクは意地悪で可愛げがない。
そんなふうに、普段抱く想いは違っていても。
たとえ、自分の傍にはいなくても。
いつか、違う道を歩くことになったとしても。
どうか、幸せでいて欲しい。
……ただ、邪気なく笑っていて欲しい。
ハクに対して今のヨナが心の奥底で抱くその願いは。
かつて、仄かな恋心を向けていた存在に向けていた願いと同じもの。
11.気づいてしまった
2015.04.26 執 筆
2015.07.05 加筆修正
【あとがきという名の言い訳】
渡瀬主催の『姫と従者の恋愛戯曲』の告知用に書かせていただいたお話です。
募集をかけた後で埋まらなかった2題を、参加者様方の了承を経て昇華させていただきました。
ヨナちゃんがハクへの想いを自覚する流れなんですが、
実際のところは多分スウォンに抱く想いとハクに抱く想いは
違うんじゃないかと推測しています。
要するに、スウォンへの想いは恋で、ハクへの想いは愛なのよ。
そんなことを考えながら終始物書きをやってるめんどくさい書き手です(笑)