箒星別館

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14.いっそこの手で

『暁のヨナ』ハク→ヨナ

「痛っ……!」
 何度かの剣の打ち合いの後、不意に利き手を襲った痛みに、ヨナは思わずその場に剣を取り落す。からん、と乾いた音を立てて、地面の上に抜身の剣が転がった。
「姫さん!」
 珍しく血相を変えたハクが走り寄ってくる。それなりの手数で短剣を操ってはいたが、ヨナの身体を傷つけるような真似はしなかったはずだ。その場に座り込んだヨナの肩に手を置くと、わずかに痛みに顔を歪めたヨナがハクを見上げた。
「ごめんなさい。大丈夫よ」
 逆の手でハクの目から隠すように利き手を覆ったヨナの、その手首を掴み、ハクは小さな掌を己の目前に掲げる。まだ慣れてはいない剣を強く握り締めていた掌には幾つものマメが出来、無残に潰れたそこから血がにじんでいた。
「……まったく、無茶すんなって何度言えば言葉が通じてくれるんですかねえ」
「だって、マメが出来てるって分かったら、ハクは練習を辞めてしまうでしょう?」
「当たり前でしょうが」
 きっぱりと言い切って、ハクはヨナの手首を掴んだまま、側の川の畔まで引っ張って行き、冷たい流れの中に容赦なくマメだらけの小さな手を突っ込んだ。
「ハクっ!ハクっ!! 痛い!!」
「確かに、そんだけ見事に潰しきってたら、相当水が沁みるでしょうよ。無茶をやった代償だと思って甘んじて受けるんですね」
「……だって、早く強くなりたいんだもの。マメくらいで稽古を休んでいたら、いつまで経っても上達しないじゃない?」
 涙目でまっすぐにハクを見つめ、拗ねた口調で言うヨナに、ハクは盛大な溜息を付いた。
「あのねえ、姫さん。気持ちは分かりますが、稽古で剣が握れないくらいのマメこさえてたら、いざって時に何も出来ないでしょうが。マメをつぶさなくていいように練習量を調整するか、マメを作らないように自衛するか、どっちかにしてください」
「……はい」
 自分の落ち度は分かっているのだろう。身を縮めてヨナが小さな声で返事をする。再度小さく溜息を付いて、ハクは懐を探る。傷を負った時に使うようにとユンから渡されていた、彼特製の軟膏を取り出した。
「とにかく、しっかり洗って治療しましょう。包帯をきつくして剣を握った時の負荷があまり傷口にかからないようにすれば、まだ剣は振れるはずです」
 暗に稽古を中止にはしないことを告げると、ヨナはその意味を正確に読み取り、嬉しそうに笑って「うん!」と頷いた。
 結局この姫の無垢な我儘には逆らえない自分自身を顧みて、ハクはこっそりと苦笑を零した。

「一国の姫ともあろう方が、なんちゅー手をしてるんですかねえ……」
 小川の水でしっかり傷口を洗ったヨナの手を乾いた布で拭い、ユンお手製の強力軟膏を傷口に丁寧に塗り込む。
 痛みにヨナが盛大に顔をしかめたが、懸命に悲鳴を呑み込んでいる。ハクはそれを知りながら、これでもかと無駄なくらい執拗に傷口に軟膏を塗りつけてやった。この痛みを二度と味わいたくないと思うのなら、多少はこの無謀な姫君も己の身を労わってくれることだろう。
「今はもう、姫じゃないわ」
 むう、と頬を膨らませ、ヨナが拗ねた口調で言う。その幼げな口調は、城にいた頃のヨナを思わせる。
 過酷な旅を続けるうち、随分とたくましくなったヨナだが、ハクとの会話の中でほんの些細なきっかけで、昔の面影が顔を出す。ハクはそれが好ましい。
「残念ながら、アンタは姫ですよ。……少なくとも、俺にとっては」
 潰れたマメに十分な処置を施し、多少の激しい動きでもずれることがないよう、その小さな手にしっかりとハクは包帯を巻いていく。その手際の良さに、ヨナがしばし見とれた。
 だから、ヨナは次の瞬間ハクがふと漏らした言葉に彼が含んでいた痛みを、つい見落としてしまう。
「……ホントに、酷い手になっちまいましたね……」
 荒れて、傷だらけ、マメだらけになった白い掌を労わるように撫で。
 溜息を吐くように、ハクが呟いた。



 例えるなら、鉢植えに大切に植えられた一輪の花のよう。
 上質な土壌に種を撒き、風雨に脅かされることがないよう周りを頑強な硝子の箱に覆われ、水や栄養分を可も不可もなく必要なだけ与えられる。そうして大切に、大切に育てられたその花は、あとはもう、大輪の花を咲かせる瞬間を待つばかりだったはずだ。
 それなのに、その花は全てを与えられた土壌から、ある日無残に引き抜かれ、路上へと打ち捨てられた。
 激しい風雨に晒され、たくさんの悪意に踏みしだかれ、萎れた花。
 ……だが、その花は決して枯れなかった。
 必死の思いで荒れた地に根を張り、善も悪も吸収できる様々なものを取り込み、育ち、そしてまた、新たな別の花を咲かそうとしている。
 最初に鉢植えに植えられていた花は、その花の形がどんなものか分かっていた。初めから『そう』である花を咲かそうと世話をされていたから、それはある意味当然の帰結だった。
 だが、今はもう分からない。
 一度は打ち捨てられて、そのまま枯れてしまうはずの花が、新たに根を張ったことで、どんな花として開くのか。
 当初のように、大輪ではなく、華やかなものでもないのかもしれない。
 それでも誰も見たことのないその花は、きっとこの広い世界の中で唯一の、鮮やかな花になるのだろう。

 ……だが、花が開くためにこんなふうに激しい風雨に晒され、傷を負うのなら。
 いっそ、この手でその花を手折って。
 もう一度、雨風の届かない硝子の箱の中に閉じ込めて。
 誰の目にも触れずに、大切に護りたかった。
 ……そんな想いも、あるのだけれど。


「……ク! ハクってば!!」
「大声で怒鳴らなくてもちゃんと聴こえてますよ、姫さん」
 包帯を巻き終わり、しばらく動きを止めたハクを気遣うヨナに、一つ瞬きをし、笑い交じりにハクが答える。「そう?」と訝しげに首を傾げたヨナは、しっかりと包帯の巻きつけられた自分の利き手を掲げ、指を握り込んだり広げたりしながら、動きを確かめる。
「……痛くないわ。これなら、剣を握っても大丈夫ね!」
「だから、面倒くさがらずに最初から手を覆って剣を握ってくれれば、マメも出来ねえし、俺が世話を焼く必要もなくなるんですけどね」
「……だって、握りづらいって思ったんだもの」
 まだ剣に慣れていないヨナは、剣を取り落さないためにそれを握る手に不要な力を込めてしまいがちだし、そのまま剣を振るえば汗で滑り、更に余分な力を加えて柄を握ることになる。そうしてただ力任せに剣を握り続けていればマメが出来るのも当然のこと。
 それが分かっていたハクは以前から滑り止めとして指の付け根の辺りに布でも巻いておくようにと言っていたのだが、逆に布地で剣を滑らせそうな気がしていたヨナは、ハクの言うことを聞かなかったのだ。
「じゃあ、いい機会だから慣れるんですね。特に汗で剣が滑るのはよくあることですから、滑らない対策をしておくのは無駄にはなりませんよ」
 本当は、戦場で剣を握る手を滑らせるものは己の汗だけではないのだが、ハクは言及しなかった。
 ……己の身を守るのにただ懸命な目の前の姫に、返り血の扱いの面倒さまで今教える必要はないだろう。
「分かったわ。じゃあ、剣を取って来るわね」
 先ほど取り落した自分の剣を拾うために、ヨナが踵を返そうとする。
 だが、利き手を掴んだままのハクの手が、その動きを止めた。
「……ハク?」
 怪訝に眉根を寄せるヨナの声が聞こえているのかいないのか。
 ハクはただ、自分の手の中にある傷だらけのヨナの小さな手を、黙って見つめている。


 ……主命に逆らってまで。
 自分はこの手に何を掴ませようとしているのだろう。
 それが例えヨナ自身の望みとは言え、あれほどまでに主君が忌み嫌っていた武器をヨナに教えることに、ハクはいまだ躊躇する。
 この姫が、己の身を守るということは。
 いつか、本来この姫があるべき場所を奪った人物を、彼女自身が討つことに繋がる気がするからだ。
(……それだけは、避けてえな)
 本当は、彼女が置かれた立場から考えて、彼女自身が討つべき相手なのだということは理解している。
 だが、いまだに彼から送られた簪を捨てられずに……彼に抱いていた情を消せずにいる彼女を知っているからこそ、討つための手段を教えることにハクは躊躇うのだ。
 ……もし、目の前にあの存在が現れれば、ヨナが手をくだす前に、己こそがこの手を血に汚すのだと。
 そう、人知れず決意はしていても。

 確かに彼女が身を守る手段は必要だ。
 たとえ彼女には自分と、彼女を守護する四匹の龍がいるのだとしても、決して味方ばかりとは言えないこの世界で、ヨナがヨナとして生きていくために。
 そして、ヨナが彼女の大切な仲間を守るためにも、力を欲していることを知っている。
 それでも身を守る術というものは、危害を与える相手を傷つける行為でもある。
 ヨナがそのことを理解できないとは思わないが、命がけの必死の攻防の中で、自分が傷付かず、相手の命を奪わないという行為は、実は相当に難儀なものであることをハクは知っている。
 ……できれば、この小さな手はいつまでも綺麗なままであって欲しい。

「……あんまり、無茶はしないでくださいよ」

 言っても、無駄なんだろうと分かっていても。
 祈りにも似た願いを込めて、ハクは何度目になるか分からない言葉をヨナに告げ。

 そして、その白く小さな手の甲に唇を押し当てる。

 ヨナの身体が瞬時に硬直して、頭上で物言いたげな唇が、それでも何をどう言っていいのか分からずにぱくぱくと無意味に動くのが分かる。
 どうせ、またからかって遊んでるとしか思われないんだろうなと分かっていても、ハクなりの切なる願いを、その神聖な口付けに込める。


 いっそこの手で。
 攫って隠して、誰の手も届かない場所で守りたいと思う、唯一絶対の花。
 だが、そうして無理矢理に閉じ込めてしまったならば、その花が遠からず枯れてしまうことを知っている。
 だからこそ、ハクはこの花を縛れない。
 ならば、荒れた地に懸命に根を張り、生きようと足掻くその小さな存在が。
 いつか咲かせるであろうその花の美しい色彩を
 せめて、一番近くで見届けたいと願う。

 だから、どうかその花は。
 無暗に人の命を吸い上げて、その鮮血に染まり切ったものではなく。

 傷つけられ、傷つける痛みを知る。
 尊き優しい花であるように。
14.いっそこの手で

2015.05.05 執  筆
2015.07.05 加筆修正


【あとがきという名の言い訳】
渡瀬主催の『姫と従者の恋愛戯曲』で書かせていただいた作品です。
書き終えた今だから言えますけど、選んではみたものの、最初は裏行きの話しか思い浮かばなかったんですよね(笑)
「いっそこの手で」どうするのかっていったら、何か不穏なものしか浮かばない(笑)
でも、そこで悶々と考えていたからこそ出来上がった話ではあります。
支部でも言ってましたけど、ハクの手の甲へのキスは最初は予定していなかったものだったんですけど、
何か勝手にやってくれました。恋愛話なのに恋愛要素がなかったからかな(笑)
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