祈る
『暁のヨナ』ハク→←ヨナ
ふと気を抜いた瞬間に天幕から姿を見せた人物と目が合って、ジェハは内心で「しまった」と呟く。慌てて笑顔を取り繕って片手を振って見せたが、当然のことながら相手は騙されてはくれなかった。
「ジェハ……もしかして傷が痛むの?」
まるで自分の傷が痛むかのように、ヨナは目を細めてジェハに歩み寄る。
手を伸ばしかけ、どこに触れていいのか分からずに、しばらく傷があるはずのジェハの腹部辺りに視線を彷徨わせ、そして肩を落としてぎゅっと小さな両手を拳に握り締めた。
「……ごめんなさい」
「……ヨナちゃんが謝るところじゃないと思うけど?」
無意識のうちに、庇うように広げた掌を腹部に当て、ジェハは苦笑した。
衣服に隠されたそこには、確かに黒ずんだ内出血の痕がある。傍目には見えない場所であるし、傷を負った事情が事情なだけに、治療をしてくれるユン以外の目には晒していないが、ふとした拍子に鈍く痛むその傷に顔を歪めた瞬間を、よりにもよってヨナに見られてしまった。
「でも、私が最初にきちんと知らせておくべきだったと思うわ。『あの人』のことを知らない皆には関係のないことだし、余計な心配をかけないようにと思ったのだけれど……」
唇を噛むヨナの表情に、後悔の色が滲む。ジェハの脳裏にヨナの言う『あの人』の姿が朧げに浮かんだ。
『彼』が人の上に立つ人種なのだというのは、数回の受け答えですぐに分かった。言葉一つで周囲の人間を動かすことに躊躇いがなく、何よりも大局を読み取り、理解する能力に長けていた。
どこかの『長』と呼ばれるのにふさわしい人物であろうことは推測が出来ていたが、さすがに現在玉座に君臨している人物だとはまさか思わなかった。
「……まあ、それは仕方がないよ。だいたい、彼がどういう人物で、僕らがそれを知っていたからといって、きちんと対処できたかどうかはかなり怪しい。あれほどハクが激高するとは、そもそも誰も思っていなかったんだからね」
小さな溜息と共に零したジェハの言葉に一瞬顔を上げたヨナは、どこか痛そうに表情を歪め、もう一度視線を足元に落とす。
過去のど風景を顧みても、あれほどまでに冷静さを失ったハクをジェハは見たことがない。
どんな状況に陥ったとしても、彼はいつも飄々としていて、物事を斜めから見下ろして、我を失うことなんてなかったのだから。
そしてヨナも、彼にとって大切な幼馴染みとの決別が、それほどまでに心に深く突き刺さっていたのだということにあの時初めて気付いた。
……あの瞬間までその傷の深さに気付けなかったことを。
ヨナは今、ひどく後悔していた。
「ヨナちゃん」
穏やかなジェハの声がヨナの名を呼ぶ。
ゆるゆると緩慢な動きで彼を見上げると、ジェハはまだ傷跡の残る顔で、ヨナを励ますように小さく笑う。
「結局、ハクを止めたのは君の声だった」
四龍の能力を持ってしても、我を失ったハクの暴走を抑えることは出来なかった。
ハクを止めたのは、仲間の中で一番力を持たないはずの、ヨナの小さな指先と彼を呼ぶその静かな声だった。
「君がどう悔やんでいたとしても、……ハクの心を本当の意味で救えるのは、君だけだと思うよ」
ジェハの励ましに、ヨナは微かに目を見開き。
それから、何かを堪えるように俯き、哀しげに微笑んだ。
薪にするための枯枝を拾い集め、夕焼けの茜色に染まる風景の中を、迎えに来てくれたハクと肩を並べて歩く。
あの日以来、まるであの激高が夢であったかのように、ハクはいつものハクと何も変わらない。……夢ではなかったと分かるのは、彼が左腕に負った深手と、ヨナの目と耳とに焼き付いたハクの悲痛な叫びと一筋の涙とが、決して記憶から消えてしまわないからだ。
いつもと変わらない他愛ないやり取りの中で、ふと彼が浮かべた笑顔に、ヨナの心はこれ以上にない安心感を覚えた。
……彼には笑っていて欲しいと、いつも思っていた。
だがあの日以来、もう二度とハクが笑ってはくれないのではないかと恐れていた。
安堵と共に自然に溢れた涙は、抑えることも隠すこともできない。戸惑うヨナをそっと抱きしめ、何も見ていないと言ってくれたハクに、ヨナはこれまでもこんなふうに、自分が気付かないうちにハクに守られていたことに改めて気付く。
……そう、どうして今まで気付かなかったのだろう。
ヨナの運命が変わったあの夜。
誰よりも大好きだったスウォンに、誰よりも大切だった父を殺された……これ以上にない裏切りを目の前に突き付けられたあの日。
生きる気力を失くした自分を生かすために、ハクが支払った代償を、ヨナは自覚しているつもりだった。
住み慣れた城を追われ、故郷の風牙の里を追われ、唯一手にしようとしていた自由さえ、ヨナの我儘で奪ってしまった。
だから、いつか一人で生きていけるようになったら、その奪った自由をハクに返そう。
今は、ハクに守られるだけでしかない弱い自分だけれど、強くなってハクを守れる自分になろう。
そんなふうに呑気に考えていた自分は……どこまで愚かだったのだろう。
あの時、ハクが流した一筋の涙が教えてくれた。
スウォンの裏切りに絶望したのは、ヨナだけではない。
心の底から信頼していたはずの親友に、仕えるべき主君を奪われ、その主君と一人娘の姫を弑した濡れ衣を着せられたハクは、ずっと……もしかしたらヨナよりも深く、傷ついていたのではないだろうか。
だが、彼は決してそれをヨナに見せなかった。
今も、自分が負った傷の痛みと深さを隠して誤魔化しているように。
スウォンに裏切られた絶望と痛みとを、ヨナには決して気付かせなかった。
……それはただ、ヨナを守り続けるために。
(ごめんなさい)
ハクの大きな身体を抱き締めながら、ヨナはたくさんの人に詫びる。
自分が不甲斐ないばかりに、たくさんの人が傷を負い、その優しい心を痛めた。
ハクを止めるために傷を負ったジェハやキジャ。
ハクが負った深い傷を「絶対に完治させてみせる」と力強く答えてくれたユン。
何も詮索せずに、変わらずに傍にいてくれるシンアやゼノ。
そして、何よりも。
自分の心の傷を顧みず、ただヨナのためだけに、今ここに存在してくれるハク。
……城を追われたあの日。
スウォンの裏切りを知ったあの瞬間。
もし、ちゃんとヨナがハクの痛みを受け止められていたら。
傷付いたのでは自分だけではなく、ハクも同じ傷を負っていたことに気付いていたら。
こんなふうに、ハクだけを追い詰めることにはならなかったのに。
「……ハク。お願いが、あるの」
ハクを抱き締めたまま、ハクにだけ聞こえる小さな声で、ヨナが告げる。
この言葉をハクに告げるのは、本当は間違っているのかもしれない。
だが、たとえハクに恨まれることになったとしても、ヨナはハクを戒めなければならない。
今のハクを止められるのは、おそらくは彼の主である自分だけなのだ。
だから、ヨナはハクが望んではいないはずの願いを口にする。
それはただ、ハクをこれ以上傷つけないために。
……ハクの心を、失わないために。
「……何ですか?」
ハクの低い声が、彼を捕らえた腕を伝って響いてくる。
……祈りを込めて。
ヨナがその願いを口にした。
「……スウォンを、殺さないで」
腕の中で、ハクの身体がはっきりと強張るのが分かった。
顔を上げてハクを見ると、驚愕に目を見開いていたハクが、自嘲するように唇の端を歪めて笑う。
「そう、ですね。……あんたはまだ、あの簪を捨て切れていない。あいつへの想いを、捨て切れていないんですから、たとえイル王の仇とはいえ、殺すのは忍びないでしょう」
主の命ですから、ちゃんと従いますよ。と、押し殺したような声が呟いた。
……本当は、もうそれでよかったのかもしれない。
ハクにとってどれだけ不本意なことであれ、ハクがスウォンを殺さないということを、約束してくれたのだから。ヨナに約束をした以上、ハクはその約束を守るだろう。
だがその理由が、ヨナがスウォンに想いを残しているからだと誤解されることは、ヨナはどうしても我慢ならなかった。
「……そうじゃないわ!」
叫んで、ヨナは顔を上げる。
突然の叫び声に、呆気にとられたようにハクがヨナを見下ろした。
ヨナは反らさずに、まるで睨み付けるかのようにハクの深い闇色の瞳の奥を見据える。
……自分の想いが、間違いなく歪みなくハクに届くように。
「……私がスウォン自身をどう思っていようが、あの人が父上を殺した事実は消えないわ。そこにどんな大義があれど、私がそのことを許せる日は、永遠に来ない」
民の平和のため、戦を嫌い、遠ざけてきた父の理想。
城にいた頃に、その理想を疑ったことはなかったが、それはただの理想でしかなかったことを、ヨナは旅の中で高華国の置かれた現状を目の当たりにするうちに実感した。
現実を知ることなく、理想だけを掲げる王に業を煮やしたスウォンの気持ちも、今なら少しだけ分かる気もする。
だがそれでも、正当に意見をするわけでもなく……たとえユホン叔父の敵討ちという動機があったのだとしても……父に反論の余地もなく命を奪ったスウォンを、ヨナは生涯許すことはないだろう。……少なくとも、淡い恋心を抱いていたあの頃と同じ気持ちでスウォンのことを想うことは二度とない。
「それでも、あの人の命をお前に奪わせることはしないわ。たとえ父上の仇を討つためだとしても、あの人と同じことを、お前にはさせたくない」
ハクを止めた、あの時のように。
ハクの手にそっと指先を触れさせて。
ヨナは祈るように目を閉じる。
「……ハク。お願いだから、お前の手でスウォンを殺さないで。怒りと、哀しみとで自分を見失ったりしないで。……私ならもう、大丈夫だから」
今のヨナは城を追われたあの日のように、絶望に打ちひしがれて生きる気力を失くしてはいない。
確かに全てを失ったけれど、代わりに手に入れたものがある。
自分がやるべきこと。守るべきもの。
城にいる頃には分からなかったことを、今の自分は知っている。
だから、今度は間違わない。
自分だけの哀しみに目を奪われて、ハクの傷を見落としたりはしない。
……今度こそ。
ハクだけに、辛い思いをさせたりはしない。
ハクにスウォンは殺させない。
いつか、ハクが今の自分と同じように、少しは穏やかな気持ちでスウォンのことを思えるようになる日まで。
過去の暖かな想い出に、目を向けられる日が来るまで。
もし、怒りと哀しみに我を忘れ、その激情に流されるままスウォンの命を奪ってしまったら。
きっと、誰よりも傷つくのはハク自身なのだから。
「……参りました」
溜息と共に、ハクがそう告げる。
「まさか、あんたから諭される日が来るなんて、思ってませんでした。随分成長しましたね、姫さん」
ぽんぽん、と手のひらで頭を軽く叩かれて、ヨナは思わず涙に赤くなった目で、上目遣いにハクを睨む。
「ば、馬鹿にしないで。私、これでもいろんなことを一生懸命考えて」
「分かってます」
皆まで言わせず、穏やかな声でハクがヨナの言葉を遮る。
しばらく、黙り込んで考えを巡らせていたハクは、何かを吹っ切るように目を閉じ、深く息を吸って、吐いた。
「姫さん。……少しだけ、甘えさせてもらっても構いませんか」
笑みを消し、項垂れるようにしてハクが告げる。
それは、おそらくハクがヨナに対して初めて見せる……彼の弱さだった。
「ええ。……少しだけ、ね」
そのことが、嬉しくて。
ヨナは小さく微笑んでそう応じる。
全てを委ねてくれる人ではないと知っているからこそ、『少しだけ』でも甘えてくれることが……幸せだと思った。
その胸に浮かぶ僥倖の理由を。
いまだ、ヨナ自身が知らなくとも。
身を屈めたハクの額が、そっとヨナの細い肩に押し当てられる。
声も出さず、身を震わせることなく。
ほんのひとときだけ、ハクは泣いた。
その涙が肩に染み込んでいく熱さを感じ取りながら。
ハクの大きな身体を懸命にその細い両腕に抱き留めて、ヨナは目を閉じ。
……ただ、祈る。
どうか、神様。
いまだ癒えない私たちの心の傷が、跡形もなく消えてなくなる日は、未来永劫来ないのだとしても。
互いに支え合い、澱みを抱え込まずに、涙と共に外に流すことで、少しでもその痛みが軽くなりますように。
過去は振り払えずとも、未来に目を向けることで、傷痕は残り続けていても、前へと歩いていけるように。
……いつか、全ての痛みを乗り越えて。
ハクと二人、心の底から笑えるような。
そんな穏やかで幸せな日が、私たちに訪れますように。
祈る
2015.02.02 執 筆
2015.07.05 加筆修正
【あとがきという名の言い訳】
そもそも、この話が書きたくて始めたようなものです、ハクヨナ創作。
16巻のあのハクの激高の意味と結論を自分なりにまとめたくて、うずうずしてました(笑)
だからこそ二次創作をやってみたかったので、16巻の展開がなければ多分書いてませんでした。
ただの裏切りならともかくとして、イル王を殺している以上、ヨナがスウォンを選ぶことはないと
個人的には思ってます。そこにどんな理由があったとしても、「この人が自分の父親を殺したんだ」と思えば、
許せないと思うんですよね。復讐まではいかなくても。
そんな感じで、簪が捨てられない理由も「こうかな~」という渡瀬なりの解釈はあったりするんですが、
これはもういつか原作に出て来る気がするんですよね(笑)