いつか
『暁のヨナ』ハク→←ヨナ
いつか、彼に自由を返したい。
その気持ちに嘘はない。そのために、自分で自分の身を守れるよう、大切な人を二度と失うことがないよう、強くなろうと決めたのだ。
今まで知ることのなかった戦いの中に身を置き、自分の命を守るために人に刃を向けることを覚えた。
命を奪い、傷つけることでしか守れないものがあることを知った。
そして、彼がこれまで自分や父を守るために身を置いていた場所に自分自身が立ち、それまで抱いていた常識が変化したことで、疑問に思うことがある。
彼にとっての『自由』というものは。
本当は、いったいどんなものなのだろう。
(ねえ、ハク。城を出た頃に比べたら、少しは私、強くなれたのではないかしら)
(弓も得意になったし、剣も少しは扱えるようになったわ。ハクが教えてくれたことが、ちゃんと理解できるようになったの)
(ねえ、もう少しで貴方を本当に自由にしてあげられるわよね)
背の高い彼を見上げて懸命に訴えかけると、いつものようにからかうような笑顔で、彼は言う。
(そうですね。もうそろそろ、俺も姫さんのお守りから解放されてもいい頃ですね)
(じゃあお言葉に甘えて、俺は俺で好き勝手にさせてもらいます)
そう言って、背を向けたハクの向こう側に、人影が一つ。
自分の元から去っていくハクの、その行く先で穏やかな微笑みを浮かべ、ハクを待つ人物は。
間違えようがない。ヨナがよく知っている、あの人だ。
(スウォン……!)
「……駄目!」
自分の叫び声で、ふと目が覚める。
一瞬、自分の置かれている状況が分からずに、ヨナは小さく瞬いた。
一つ深呼吸をすると、周りの様子が見えてくる。固い地面の感触、そこかしこから聴こえてくる幾つもの眠りの息遣い。火の爆ぜる音、虫の声。
夢の淵で吐き出された自分の声は、どうやら実際には音として漏れ聞こえはしなかったようだ。ゆっくりと腕をついて身を起こすと、隣に眠るユンも、少し離れた場所でそれぞれに眠っている四龍たちも、誰も起きる気配はない。
ほっと安堵し、ヨナは無意識にハクの姿を探す。ヨナの視界には映らなかったが、周囲の気配を探ることに一番長けている彼が、四龍たちとは違う場所で警戒を怠ることなく眠るのはさほど珍しいことじゃない。決して不安に思うわけではないのだが、何かが起こった時に反射的にハクの姿を探すようになっている自分に、ヨナは苦笑した。
(ハクを自由にしてあげたいって気持ちに、嘘はないのに)
それでも、どうしても。
こんな瞬間には、自分が彼という存在を必要としていることを実感してしまう。
周りに眠る仲間たちを起こさないようそっと起き出し、ヨナは獣除けのため燃やし続ける焚火の明かりを頼りに、休息の場所に選んだ木陰を抜け出し、近くの沢へ向かう。
目覚める直前に見ていた夢が恐ろしすぎて、そのまま眠る気になれなかった。
あれは、ヨナの不安の具現だ。
スウォンは、ヨナの大切な従兄で幼馴染みで、そして初恋の相手。
そして、今では王である父を殺した、憎むべき存在だ。
だが、この国が置かれている現状を知るたびに、スウォンがあのような非道な行いを選ばざるを得なかった理由も、今ではほんの少しだけ分かるような気がしていた。
それでもヨナが前王の一人娘である限り……たとえ無能の王と呼ばれようと、ヨナにとってイル前王が愛すべき父親である限り、スウォンの所業を何のわだかまりもなく、許せる日は決して来ないであろう。
そして、ハクにとってもスウォンは大切な幼馴染みだ。
時折ヨナがやきもちを焼いてしまうほどに、スウォンとハクはとても仲が良かった。
父王が殺された際、父王との主従関係を盾に、ハクに自分と共にあることを命じた時にはそこまで考えが到らなかったけれど、ハクが自由になるということは。
父との主従関係を捨て、ヨナと離れ……そうして、いつかハクがスウォンと共に戦うことを選ぶ。そんな選択肢もあるのではないだろうか。
それも確かに、ハクが選ぶことのできる『自由』だ。
スウォンの裏切りを知った時、最初はただただ哀しかった。
父を失い、恋をした相手を失い、どうしていいか分からなかった。
あまりにすべてが突然すぎて、スウォンを憎むという感情にも至らなかった。
そして今……落ち着いて、自分の置かれた状況を振り返った時、やはり今はスウォンのことを許せないとヨナは思う。
それでも、仇を討ちたいかと問われればと、おそらく否とヨナは答える。
スウォンが長い間ヨナの恋い焦がれた相手であるという過去は拭いようがなく、順序立てて用意された決別ではなかったから、捨て去れぬ情もある。
だが、復讐を遂げることを躊躇うのは決してそれが理由ではない。
たとえ彼のことを許そうが許すまいが、通り過ぎた過去は今更変えようがない。
殺された父王は、もう二度と蘇らない。
……復讐が何も生まないのだということを、ヨナが今ではもう理解しているというだけだ。
こんなふうにスウォンのことを思う時、ただ痛いばかりの気持ちではなく、少しは凪いだ気持ちでその面影を浮かべられるようになったのは、きっとハクのおかげだと思っている。
スウォンを失っても、ヨナは生きることを選べた。
何も知らなかった頃のように、安穏とした煌びやかな日々ではなく、空腹を満たすことが最重要事項で、闘う術を持たなければ生き延びることすら危うい、そんな殺伐とした日々。
それでも自分は不幸ではない。あの頃手に在ったものをすべて失っても、自分には理解してくれる仲間がいて、……そしてハクがいる。
だが、もしもハクを失ってしまったら。
もう、ヨナはどんなふうにして生きていけばいいのか、分からない。
「……こんな風に思っては駄目よね」
ぽつりと苦笑と共に呟き、ヨナは水辺に腰を下ろす。穏やかな水面には星々と月の光が映っていた。
いつか、ハクに自由を返したい。
その気持ちに嘘はない。
だが、もしその時が来てしまったら。
ハクが、自分の元からいなくなってしまったら。
……物知らずの、ハクに依存するしかないお荷物な自分ではなく、あれほどまでに仲が良かったスウォンと共に闘う道を、ハクが選んでしまったら。
ハクにまで裏切られたら。その時は。
今度こそ、ヨナは立ち上がれないような気がする。
「……何を、どう思っては駄目なんですか?」
暗がりから不意にヨナの声に応じる、聞き慣れた声がする。びくっと肩を震わせてヨナが振り返ると、すぐそばの大木の幹に背を預けた、ハクがいた。
「び……っくりした」
「それは、こっちの台詞です。……幾ら月や星の明かりがあるとはいえ、焚火を離れて夜中にうろつかんで下さいよ。うっかり足滑らせて、沢に落ちでもしたらどうするんですか」
俺は、助けませんよ。とハクは軽口をたたく。
だが今のヨナには分かる。そんなふうに憎まれ口を叩きながらも、いざヨナがそんな境遇に陥れば、ハクはヨナを助けるだろう。
そう……たとえ自分の身を犠牲にしたとしても。
そんなふうに、自分がハクのお荷物にしかならないことを知っているからこそ、そのヨナの心の奥底に燻る不安が、あのような夢を見せる。
「……眠れませんか?」
軽口の続きで……だが、どこか気遣うような口調で、軽く首を傾げるようにしてハクが尋ねる。ヨナは小さく首を横に振った。
「少し、目が覚めてしまっただけ。……夢を、見て」
何気なく言いかけて、ヨナは口を噤む。
あの夢の話をすれば、きっとハクは否定する。
姫さんを守るのが、俺の仕事ですから。
そんなふうにいつもの口調で淡々と、ヨナの不安を払拭するだろう。
それでもその不安を拭いきれずに、ハクがいつか離れていくかもしれない可能性に怯えるのは。
……ハクが、先王との契約の元に『仕事』でヨナを守り。
そのことであれほど心を許し合った親友と敵対せざるを得ない、そんな現状にハクを置いていることに、ヨナ自身が罪悪感を抱いているからだ。
「怖い夢でも見たんですか?」
「……そうね。怖かったわ」
ハクは『仕事』だから傍にいてくれる。
亡き父との最後の約束を、守ってくれようとしている。
だから、いつか彼に自由を返さなければ。
きっと本当の彼は何者にも捕われず、風のように自由に生きていきたいはずなのだから。
分かっているはずなのに。
いつか必ずやって来るその瞬間を思うたび。
どうしてこんなに、胸が痛むのだろう。
ハクの負担にならないよう、自分の身を守れるよう。
そして、いざという時にハクを守れるように。
自分の不甲斐なさのために、ハクを失うことがないように。
弓を覚え、剣を覚え。
生きるための術を身につけてきた。
それは全て、いつかハクを解放するため。
自分を守るために命を懸ける彼に、本当の自由を返すため。
だが、そんな建前の奥底で。
本当は。
(お前に、笑っていて欲しい)
(私のために、傷つかないで欲しい)
(私を主の娘としてではなく、一人の人間として認めて欲しい)
(お前の隣で、私を息づかせて欲しい)
「姫さん……?」
からかい気味だったハクの声が、真剣味を帯びる。
頬を伝った一筋の涙を、ヨナは指先で拭った。
「とても怖い夢だったわ。だけど大丈夫。……あれは、ただの夢なのだから」
今の彼は、決してヨナを裏切らない。
それは、彼の父王への忠誠心が揺るがぬことをヨナが知っているからだ。
だからヨナがハクを失うことは、今はただの夢でしかない。
いつか来る未来で。
自由を与えた彼が選択する道が、どうであるかは分からなくても。
しばらく黙ったままヨナの顔を見ていたハクが、幹から身を起こし、すっとヨナに向かって片手を伸ばす。何も考えないまま、その大きな掌の上にヨナが自分の手を委ねると、ハクはヨナの手を引き、自分の傍らにヨナを座らせる。
「ハク……?」
「怖くて眠れないなら、ここで眠っていいですよ、姫さん。……何せ『高華の雷獣』の傍らですから。怖いもんも迂闊に近寄れません」
に、と笑うハクに目を丸くし、そしてヨナは小さく笑う。
「……すごい自信」
「あんたを害するものには容赦しませんよ。それが俺の仕事ですからね」
これまでに何度も聞かされたハクの言葉に、ふとヨナの口元から笑みが消える。訝しげにハクが「姫さん?」と呼びかけた。
「……いいえ、何でもないの」
ふるふると首を横に振り、ヨナはハクの身体におそるおそる寄り沿う。ヨナの体勢が楽になるようにハクが小さく身じろぎして姿勢を変え、ヨナはその胸元にもたれかかるような形になる。
微かなハクの鼓動と温もり。
目を閉じると、先ほどのハクの笑顔が浮かんだ。
(お前に、生きていて欲しい)
(私のために傷つかないで欲しい)
(……ずっと、屈託なく笑っていて欲しい)
願うのは、ただそれだけのこと。
そして、いつか。
彼に自由を返す、その時が来たら。
『仕事』だからじゃなくて。
主と従者だからじゃなくて。
一人の人間として、共に歩くものとして、ずっと私の傍にいて欲しい。
それは、ハクの傍で深い眠りに落ちる瞬間に、沈む意識に反比例するように浮かんだヨナの本当の願いで。
意識が遠のくと同時に儚く消え、ヨナの思考には残らなかった。
(いつか、君を自由にしたいそうだよ)
傍らで、安心しきったように眠りに落ちた大切な存在を見下ろして、ハクはいつか仲間が教えてくれたヨナの願いを思い出していた。
「……自由、ね」
風のように、何にも捕われず、自由に生きるのは性分で。
前王に仕えると誓ったことも、この姫を守ると決めたことも、自分自身が選んだ、とても自由な選択だった。
「俺の自由を望んでくれるんなら、……このままあんたを見守らせていただけませんかね」
癖のある赤い髪を指先で弄び、ハクはぽつりと呟いた。
ヨナがハクに、何か自由を許すと言うのなら。
不器用に懸命に……色鮮やかに。
一国の姫ではなく、たった一人の人間として生にしがみ付き生き抜く彼女の姿を。
生涯その傍らで見守らせて欲しい。
「……今更お役御免とか、よしてくださいよ」
いつか、彼女が自分のことを自由にする、その時が来るのなら。
許して欲しい自由は、ただ一つ。
昔から押し殺し続けてきたこの想いを、今更どうして欲しいとも望まない。
ただ、この人生を。
最期まで、この少女の傍で貫きたい。
いつかの選択の日に、望む自由は。
ハク自身が選び取るのは。
ただそれだけの願い。
いつか
2015.01.12 執 筆
2015.07.05 加筆修正
【あとがきという名の言い訳】
初書きハク×ヨナ小説です。
このカップリングについては、常々書きたいなあと思ってはいたんですけど、
16巻の展開辺りからその気持ちに火が付きました(笑)
ふとした思い付きで書けるのかなあと悩んでたら、
周りの方々が「You!書いちゃいなYO!」と背中を押してくれて、今に到ります。
初書きに当たり、渡瀬の頭の中にあるハクヨナの基本を形にしてみた感じです。
これを書き上げられたから、この後を書くことが出来たと思ってます。