この道の果て
『暁のヨナ』ハク→←ヨナ
受け止めた刀身の重さに耐えきれず、握り締めていた柄から両の手の指先が剥がれる。それを自覚した瞬間に、乾いた高い音と共にヨナの手から木刀が弾き飛ばされた。
地面に跳ねたそれをもう一度掴もうと伸ばした手の行く先を遮るように、鋭く一閃した別の人間が操る木刀が、一度地面に落ちたヨナの木刀を、更に遠くへと追いやってしまう。
「あっ……」
ヨナの唇から思わず声が漏れる。木刀が飛ばされた行方を追って視線を巡らすと、目の前の対峙すべき相手から視線が逸れた瞬間を見逃さず、その胸元に木刀の切っ先が鋭く突き付けられた。
「はい、姫さん死亡―」
およそ戦いの場にそぐわないのんびりとした口調でハクが告げた。悔しげに唇を噛み、背の高いハクの顔を反射的に睨み付けるが、全く意に介さない態度でハクは切っ先を振り上げ、その肩に刀身を弾ませた。
「何度も言いますが、あんたより腕力のない敵なんてそうそういやしません。相手の剣をまともに受けちゃ、さっきのように弾き飛ばされるだけですよ」
「だから、軽く受けて流せって言うんでしょう? ……でも、ハクの説明じゃよく感覚が掴めないんだもの」
良くも悪くも戦いにおいては天才肌であるハクは、言葉での説明が上手くない。真正面から受け止めず、相手の剣を受けて流せとハクからは指導されるが、しっかり木刀の中心で受け止めないと、中途半端に受けてしまえば、それはそれでハクの力に押されてそのまま刀身を己の身に受けてしまうのだ。
おかげで、ハクと剣の稽古を始めて以来、ヨナの身体には生傷が絶えなかった。
「勿論、中途半端に受け流すことは命取りですよ。かと言って男の力をそのままあんたの力量で受け止めるのも危険です。……要するに、相手の勢いを利用して返す方法を覚えろっつーことです。こればかりは言葉で説明して理解できることじゃありませんから、訓練の中で体に叩き込むっきゃないっすね」
「……うん」
神妙にヨナは頷く。
元々ハク自身が理屈で戦いの方法を覚えているわけではない。彼は実戦の中で、経験を重ねて今の力を手にしているのだ。
幾ら愚痴ってみても便利な技やコツがあるわけではないことはヨナにも分かっている。何より、実戦の最中にいちいち脳内で理屈をこねくり回す余裕なんて、実際にはないはずだ。ならばハクの言うとおり理屈ではなく、身体に叩き込んで覚えさせるしかないのだ。
「……さて、分かったところで、今日のところは終わりにしましょうか」
「ええ? 私、まだまだやれるわよ?」
「疲労と傷を溜めこんで、いざ何かあった時に対応できないんじゃ本末転倒だっつってんです。師匠の言うことは大人しく聞いてくださいよ」
ハクの言葉に、少し不満そうにしながらも、ヨナは「はぁい」と素直に返事をする。
苦笑するハクが、その赤く癖の強い髪に片手を乗せ、くしゃりと混ぜた。
「戻るまでに少しでも冷やしておいてください。放っておけば痣になります」
ハクは傍の川で洗った手拭いをヨナに差し出した。
天幕に戻ればユンが薬を常備しているが、稽古のためには開けた空間が必要だったので、皆がいる本日の寝床に選んだ森の中からヨナ達がいる場所までは少し距離があった。
稽古でハクの剣を受けたヨナの身体のあちこちに、赤や紫の打ち身の痕がある。
無論、大事には至らないようすんでのところで剣を止めてはいるが、実際に戦いの場にあれば相手は寸止めや峰打ちなどで容赦してくれるわけではない。その身を守るための武器の扱い方を覚えさせるという目的のためには、ハクもそれなりの意志を持ってヨナに剣を振るわなければ意味がないのだ。
元々、ハクも戦いの中で自分に剣を振り下ろされれば反射的に攻撃を返すように体が作られている。加減はしていると言え、互いに剣を交わす状況で、ヨナに全く傷を負わさずに実戦さながらの稽古をするということは難しかった。
「ありがとう。でも、気にしなくて大丈夫よ」
手拭いを受け取り、打ち身や擦り傷の部分に当てながら、ヨナがそう言って笑う。それでも傷に手拭いが触れるたびに小さく顔を歪めるのが痛々しかった。
無意識のうちにハクが眉間に皺を寄せたのが、ヨナの視線の端に映った。
「……そういえばね、この間ユンから言われちゃった。そんなに体に傷を作ってると、お嫁に行けなくなっちゃうよって」
努めて冗談めかした口調で、ヨナが言う。ハクの表情を見ないように自分の足元に視線を落とし、穏やかな声で続けた。
「城にいた頃は、いつか高華国の王となる人を婿に迎えるのが……結婚するのが自分の仕事なんだって、そんなふうに思ってたこともあったわ。父上がしかるべき相手を決めるって言ってたの、すごく嫌だった……」
一瞬、脳裏にヨナ自身が選びたかったはずの相手の面影が過った。目を閉じて、その残像を振り払い、ヨナは苦く笑う。
「……おかしいわね。あの頃私が姫としてやらなければならなかったはずのことは、今の私には必要ではなくなってしまったの」
今目の前に広がるこの道を進むために。
生きるために、ヨナがやるべきことは、己が身を守る力を手に入れること。
それは、あの箱庭のような城の中で生きている時に、何よりもヨナがやらなければならなかった責務とは相反するものだった。
ハクはただ、黙り込んだままヨナの言葉を聞いていた。ヨナが口を噤むと、しばしの沈黙の後、ぽつりとハクが呟いた。
「……心配しなくても大丈夫ですよ」
「え?」
反射的にヨナが顔を上げると、いつの間にか隣に腰を下ろしていたハクは、ただ目の前の景色をまっすぐに見つめながら、独り言のように告げた。
「傷のせいで嫁の貰い手がないっつーんなら、……責任とって俺が姫さんを貰い受けますよ」
ぱち、と音がしそうなほどに、大きくヨナが瞬きをする。
目線の先にあるハクの横顔は、いつものようにどこか不機嫌そうな飄々としたもので、その表情からはどんな感情も読み取れない。まじまじとその端正な横顔を見つめていると、ふとハクが視線だけをヨナの方へ向ける。いつになく真剣な双眸が、ヨナを射抜く。
ひとつ、ヨナの鼓動が跳ねた。
じいっとヨナの顔を見つめながら、ハクが低い声で繰り返した。
「……俺が、きちんと責任を取ります」
……いつも、ヨナを守ってくれるハクの大きな手が。
そっと伸ばされて、ヨナの頬に冷たい指先が触れる。
「…………ハ、」
ク、と続くはずのヨナの声は、頬を辿るようにして鼻先に到達したハクの指先にぎゅっと鼻を摘ままれて、最後まで発することが出来なかった。
「……なーんてね、冗談ですよ。心配せずとも、痕になるような傷は付けちゃいませんので、姫さんはお綺麗な身体でヨメに行けることでしょうよ」
ぼちぼち、皆のところに戻りましょう、と呟き、立ち上がったハクは、ヨナに背を向けてついでのように付け加えた。
「まあ、それこそこんなお転婆でがさつで、家事ひとつまともに出来ない姫さんをもらってくれる奇特な相手がいれば、ですけどね」
「一言多い!」
反射で叫び返したヨナの声に、片手をひらりと振って応じたハクは、もういつもどおりのハクだった。
一人その場に残されると、先ほどのハクの言葉がふと脳裏に浮かんできた。
いつものように、ハク一流の冗談でからかわれただけだ。それは分かっている。
……だけど。
(ねえ、ハク。……私、おかしいかしら)
去っていくハクの背中を目で追いながら、ヨナは心の中でハクに語りかける。
自分自身が負う傷の責任を、決してハクに押し付けたいわけではない。
ハクに対して、以前スウォンに対して抱いていたような甘い気持ちを覚えるわけでもない。
だが、思い返してみれば、あの穏やかな箱庭の中で空想した、大好きな従兄と共にある未来の中でさえ。
ハクの姿が傍にないことは、一度もなかった。
自分がいて、スウォンがいて、父がいて……そしてハクがいる。それがいつもヨナが思い浮かべていた、幸福な未来の予想図だった。
そして、あの頃手にしていた全てを失い、新しく歩き始めたこの道の果てですら。
ヨナはハクが自分の傍にいないことを想像できずにいる。
あれほどまでに、ハクに自由を返したいと願うのに。
そのために、自分自身を守れる力を欲するのに。
それでもヨナが目指す道の先に。
ハクがいない未来はない。
お前を誰よりも自由にしたいと願うのに。
私には、お前のいない未来は考えられない。
その、我儘で醜い望みの罪深さは。
身体に負ったどの傷の痛みより。
ヨナの胸を熱く、強く痛ませた。
この道の果て
2015.01.16 執 筆
2015.07.05 加筆修正
【あとがきという名の言い訳】
確か「責任とって嫁にもろうてやろう」というハクの台詞が書きたくて練った話
(あれ、そんな台詞あったっけ?)
そういう書きようによってはほのぼの甘々になるはずの題材を仄暗くするのが渡瀬クオリティ。