箒星別館

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涙を止める方法

『暁のヨナ』ハク→ヨナ

「じゃあヨナ。悪いけど少しの間、雷獣の事見ててよ。何かあったら、遠慮なく呼んで」

 治療道具一式を手早く片付け、ユンがそう告げて天幕を出て行く。うん、と頷いて小さく呟いたヨナの声は、おそらく届いてはいないだろう。
 視線を下げれば、そこに横たわるハクのせいで狭い天幕の中がいつも以上に狭く感じる。治療の仕方も看病の仕方もよく分からない。だが先ほどまでユンがそうしていたように、ヨナはハクの傍らに膝を突き、額に浮かんだ汗を濡らした手拭いでそっと拭ってみた。

 『高華の雷獣』と謳われ、高華国最強と評された己の従者の本当の強さを、ヨナはこれまで知らなかった。
 本来ののハクの雇い主であるヨナの父は、争い事を避ける王だった。周囲の都市はどうであれ、当然のことながらヨナが暮らしていた緋龍城に戦火が届くことはなく、ハクの闘いぶりを見るのは模擬戦や武闘大会の時くらいだったからだ。
 だが平和なはずの城を追われ、こうして旅をしながら追手を振り切ったり、野盗などと争ったりするうちに、ヨナは初めてハクの強さを目の当たりにした。
 稲妻のような一閃で敵を蹴散らすその妙技。記憶の奥底に存在する優しかった従兄が、かつて絶賛していた、ハクの強さ。
 だが、その強さを持ってしても、闘いの中に身を置けば必ず傷を負う。ハク一人であるならばともかく、彼は戦えないヨナやユンを守りながら、剣を振るうのだから。そして、わずかな傷であろうとそれが蓄積していけば、結局のところは傷はハク自身を脅かす。
 刀傷は熱を持ちやすい、とユンは言う。彼が旅の仲間に加わるまでは、ヨナはそんな基本的なことも知らなかった。おそらく、二人で旅をしている頃に傷を負った時には、ハクは無理をしてヨナに弱った自分を見せないようにしていたのだろう。

(決して、お前一人を傷つかせたい訳じゃないのに)
 守られるだけの自分が不甲斐ない。
 それでも力を持たない自分が現状を生き抜くためには、ハクに頼らざるを得ない。
 そのことがひどくもどかしく、そして辛かった。

「……姫さん?」
 ヨナが額に乗せた濡れた手拭いの下から、くぐもった声でハクがヨナの名を呼ぶ。はっと我に返り、頬を伝ったものを隠そうと手を上げたが、一瞬早くそれを見咎めたハクが、ヨナの手を掴んだ。
「もしかして、泣いてるんですか?」
「……っ、だって……!」
 誤魔化そうとしても、おそらくハクは誤魔化されてくれない。だったら正直に胸の中にある不満をぶちまけるしか、今のヨナには出来ない。
「私は非力で、お前に頼らなきゃ、自分の身すら守れない……そのことが、悔しい……っ!」
 ヨナは小さな両手を硬く拳に握り締め、膝の上に押し付ける。その小さな手の甲に、はらはらと涙の粒が零れ落ちた。


(喜怒哀楽の『哀』を知らない姫だったな)
 緋龍城にいた頃のヨナを思い返し、ハクはそんなことを考える。
 表情がくるくると変わる、嘘や隠し事のできない、無邪気な姫だった。
 大好きな従兄に逢えることに喜び、ハクがからかうのにいちいち腹を立て、箱庭の中の生活を楽しんでいた無垢な姫が泣く姿は、あまりハクの記憶には残っていない。それなのに。
 城を追われて以来、ヨナは泣くことが増えた。
 誰よりも信じていた従兄に裏切られた哀しみに。
 最愛の父の命を失った絶望に。
 大切な仲間が傷付く痛みに、この目の前の小さな姫は涙をこぼす。
(……あんまり、見たくねえな)
 暁の空のような赤い髪と。
 屈託のない、朗らかな笑顔は。
 城にいた頃から、ハクにとって、とても心地よく暖かなものだったから。

 肩肘をついて、ハクがゆっくりと身を起こす。
 頬を伝う涙はそのままに、ヨナは突然のハクの行動を、ただじっと見守っていた。
 ちらりとヨナに視線を向けたハクは、腕を伸ばして彼女の二の腕を掴み、自分へと引き寄せる。
 倒れ込むように自分の腕の中に収まったヨナに頬を寄せ。
 そして。

「……ハク!」
 大声を上げ、ヨナがハクから飛び離れる。
 片手で頬を押さえ、真っ赤に顔を染めてわなわなと唇を震わせた。
「お前、今、わたしの頬を舐め……っ!」
 柔らかな曲線を描くヨナの頬に、ハクの乾いた唇が触れた。
 そう認識した瞬間、熱く濡れたものがヨナの頬に残る涙の跡を拭ったのだ。
 それが、ハクの舌であるということを理解するのに、そう時間はかからなかった。
 怒りと羞恥とに頬を紅潮させるヨナを、どこか冷めたような呆れたような眼差しで眺め。
 そして、自分の膝に頬杖をついたハクは、にやりと悪戯に成功した子どものような笑みを、唇の端に浮かべた。
「涙、止まったでしょ?」
 ヨナは思わず抗議の言葉を呑み込む。
 確かにあまりのことに驚きすぎて、それまで流れていた涙が、いつしかぴたりと止まっていた。
「……ほ、他に方法ってものがあるでしょう! ハクの馬鹿! 意地悪!!」
 悔し紛れに叫び散らし、ヨナが天幕の外に出て行く。
 駆け去っていく軽い足音を聞きながら、おそらくユン辺りに愚痴を吐きに行ったのだろうとハクは推測する。
(ヨナの事からかうのもほどほどにしてよ。拗ねたりなんだりで、空気がギスギスして、面倒くさ)
 呆れたように不満を零すユンの言葉が脳裏に浮かぶ。
 ……それでも、彼女が泣くのを見るよりはずっといい。

(泣くくらいなら、いっそ怒っててくださいよ)
 例えばそれで、彼女が自分のことを嫌うのだとしても。
 哀しい涙を見せられるよりは、拗ねたり怒ったりしている方がまだマシに思える。

「……まあ、本当は笑っていてくれるのが一番なんすけどね」
 一人ごちて、ハクはもう一度その場に横たわる。
 自分の熱を吸い取って、温くなった手拭いを目元に押し当てた。

(……笑っててくださいよ)
 昔のように、何の痛みもないままに無邪気に笑うことは、もうできなくても。
 たかが一従者の傷などに、いちいち心を痛めなくて構わないから。
 ただ、あの姫には幸せな気持ちで笑っていて欲しい。

 そして、彼女が幸せであるために、自分が出来得る術があるのなら。
 たとえ嫌われたとしても。
 何度でも。

 様々な方法で、自分は彼女の涙を拭うだろう。
涙を拭う方法

2015.01.12 執  筆
2015.07.05 加筆修正


【あとがきという名の言い訳】
2作目ハクヨナ小説。
Twitterの診断メーカーで出てきた「涙を舐め取る」というお題に沿って書いていますが、
時間が経って見返すとうちのハクとヨナって常日頃同じようなことを相手に対して思っているんだな(笑)
ハクヨナもそうですが、腹へり珍獣どもの打てば響く感じの会話のやり取りが自由に書けるようになりたい今日この頃。
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