call me! ~如月律の場合

律×かなで

「そういえば小日向」

 アンサンブルコンクールの全国大会が終わった星奏学院オーケストラ部の残りの夏休みは、コンクールにかまけて放置されていた部室の整理整頓に費やされている。
 これまでも隙を見て副部長の大地が片付けてくれてはいたのだが、人数の多いオケ部の部員たちは片付けたそばから、整頓された楽譜をまた借りては好き放題に戻していくため、またもや部室は収集がつかなくなっている。さすがにこれ以上は外部受験を控えている大地にばかり頼ってはいられないし、もうそう遠くはない未来に引退を控える部長としては最後にきちんと整理をしていくのも礼儀だろうと、律が整理整頓を引き受けた。
 更に、コンクールで全国制覇という実績を積んだとは言え、中途入部のニューフェイスとしては当然の役目だろうと、かなでは響也を巻き込み、律の手伝いに名乗りを上げたのだが、楽譜の並べ方さえも完璧を要求する律に、元々片付けに乗り気ではなかった響也は早々に匙を投げてしまった。それも予想の範囲内だったから、かなではしょうがないなあと溜息をつきつつも、響也の分まで律の手助けをするべく、律の細かい指示に従って、懸命に楽譜や資料を片付けていた。
 そんな中、ふと思い出したように律がかなでに声をかけたのだ。少し高い位置の棚に楽譜を戻そうと懸命に背伸びをしていたかなでが、踵を付け、楽譜を抱えたままくるりと律を振り返った。
「なあに? どうしたの? 部長」
「……お前はいつから俺のことを『部長』と呼ぶようになったんだ? 昔は『律くん』と名前で呼んでいただろう」
 真面目な顔で指摘する律に、かなでの両手から抱えていた楽譜がどさどさと音を立てて落ちる。……特に、律の指摘が的外れ、というわけではないのだが。

「えええええ!? 『今』それ聞くの!?」
 大声でかなでが叫ぶ。

 コンクールの間中、かなではずっと律のことを『部長』と呼んでいたのに、律は約一ヶ月が経過した今頃になってそのことをようやく指摘したのだった。


「最初はちゃんと昔通り、『律くん』って呼んでたでしょ? でも」
 名前呼びは控えて下さいとかなでに言ったのは、後輩の水嶋悠人だ。
『お二人が気心の知れた幼馴染みで、幼い頃からの慣れもあるという理屈は分かります。ですが、それでは他の部員に対して示しがつきません。響也先輩は兄弟ですし、仕方ないところもあると思いますが、そもそも中途入部で大会メンバーに抜擢されたお二人に対して反発する部員も少なくはないんです。せめて、他の部員の目があるところではきちんとけじめを付けて下さい』
 水嶋の指摘に、響也は律の話題を要領よく他の部員の前では持ち出さないようにしている。以前と変わりなく律を呼び捨てて、よく悪態をついているように見えるが、それはアンサンブルのメンバーの前でだけに限られている。
 かなでも響也のように呼び方を使い分ければいいのだろうが、そういう器用な芸当が難しいことは自分自身が一番よく分かっている。うっかり親しげに呼んでしまうと水嶋に渋い顔をされてしまうのが予測できて、かなでは普段から律を『部長』と呼ぶように心掛けていた。
「それに部長だって、私のこと昔みたいに名前で呼んでなかったでしょ。『小日向』って名字で呼んでて」
「それは……響也はともかく、お前を昔のように呼ぶと、他の部員に対して示しがつかないからな」
 でしょ?とかなでが不機嫌そうに頬を膨らませる。
「つまり、私もハルくんからそういうこと言われたんだよ。だから頑張って気を付けてたのに」
「……そうか、成程」
 頬を膨らませたままかなでが散らかした楽譜をもう一度拾い集め、また高い棚の上に戻そうと格闘していると、横から手を伸ばした律がかなでの腕の中の楽譜を取り上げ、棚の上に難なく戻してくれる。
 何気なくそんな律を見上げていると、かなでの方を見ずに視線を棚の上の方に向けたまま、律が呟くように言った。
「……良ければ、また前のように名前で呼んでくれないか? コンクールの時はコンクールに夢中であまり気にしてはいなかったが、名前で呼ばれていないことを自覚してしまうと、何だか寂しい心地がする」
 本当に寂しそうに微苦笑する律に、小さく瞬きをして。
 ……かなでは唇をとがらせて、自分の足元を見つめる。
「……ねえ。それは、私の方だけ?」
「え?」
 小さく呟いたかなでの言葉の意味が分からず、頭一つ分低いかなでの頭頂部を律は見下ろす。
 俯いたかなでの耳が、ほんのりと赤く染まっていた。

「……昔みたいに名前で呼ぶのは、私の方だけ……?」

 想いを伝えるために必要とする言葉を発することが圧倒的に少ない律が、昔みたいに親しげに自分の名前を呼んではくれず、どこか他人行儀に呼ぶことが、本当はかなでも淋しかった。
 水嶋の指摘もあり、多分そういうことなのだろうと律の真面目な性格を思い出し、自分で自分を納得させていたけれど、本当にまるでただの後輩のような呼び方で再会した最初の日に『小日向』と呼ばれた時は、少なからずショックだったのだ。
 それが薄らいだのは、たとえ呼び方が変わってしまっても、律がかなでが知っている律と少しも変わっていないのだと、この夏を過ごすうちにちゃんと分かっていったから。
 律は昔と少しも変わらず、ヴァイオリンと音楽が大好きで。
 大好きが故に、妥協することが出来ず、常に誠実で。
 そして大好きな一つの事に一生懸命だから、他の事が少しだけ疎かになってしまう。
 ……そんな不器用で少し鈍感な、かなでの大好きな、憧れの幼馴染みのままだった。
 その憧れがこの夏に少しだけ軌道を反れて育ち、別の感情に変わってしまったのは、かなでと律があの頃より少しだけ大人になってしまったための必然なのかもしれない。

「そうか。……そう、だな」
 かなでの言葉に、少しだけ逡巡する律が、やがて一人納得したように頷く。
「……もう俺もオケ部を引退するんだ。あの頃のようにお前を呼んでも、誰も咎めるものはいないのかもしれない」

 部長と部員の関係から。
 仲のいい幼馴染みという関係から。
 もう既に、お互い変わってしまっているのだから。
 些細なことであっても。……呼び名一つにしても。
 同じようにきちんと変わっていくことこそが、自然な流れなのかもしれない。

「……かなで」

 かなでの記憶の奥に焼き付く、あの頃の声よりも。
 少しだけ落ち着いて、少しだけ低くなって。
 そしてとても、優しく……甘くなった声。

 その声で形作られる。
 懐かしい『かなで』という三文字の音色。


「随分と久し振りに呼んでみた気がするが……改めて呼ぶと何か気恥ずかしいものだな」
 頬を染めた律が、掌で襟足の髪の先を撫で付け、小さく笑う。
 ……過去には何度も聴いたはずの、律の声が紡ぐ自分の名前が、3年近く聴いていないうちに、何だかものすごく破壊力を増しているようで。
 かなでは恥ずかしくて、顔が上げられない。
「かなで……次は、お前の番だろう?」
 少しだけ、今の声では馴染まないかなでの名前を、噛み締めるように繰り返し。
 律は、かなでを見下ろして促す。

 頬を桜色に染めたままのかなでが、ふとその声に誘われるように顔を上げ、上目遣いに律を見つめる。
 反らさずにそんなかなでの眼差を受け止めて待っている律の真剣な表情に、何度かもごもごと唇を動かしたかなでは、やがて思い切ったように小さな声で呟いた。

「……律くん」

 それは、律の記憶の奥に焼き付いたままの。
 少しだけ大人になってしまったけれど、それでもその柔らかで綺麗な響きが変わらない。
 懐かしい、彼女の呼び声。

「……やっぱり、お前にはその呼び方で呼ばれた方が落ち着くな」
 しみじみと呟いた律が、そっと指先を伸ばして、かなでの指を捕らえる。
 片付け出来ないよ?とかなでがたしなめるが、少しだけ拗ねたような素振りを見せる彼女は、その指を振り払うことはしないから。

「もうじき俺が『部長』と呼ばれることはなくなるのだから。……これからはずっと、俺の事をそう呼んでくれ」

 そんな、ちょっとした我侭も。
 きっと彼女は受け入れてくれるのだろうと、律は確信していた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2011.10.23 加筆修正:2018.8.5】

響也と同じ幼馴染みなのに何で名字呼びか?と考えていて、こういう理由かなあと思った次第。律はそういうことに気を回さないような気がしなくもないけど、でもそれ以外に理由がないよね~と。
律の口調は月森に近いから書きやすい(笑)

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