かなでが身支度を整えて菩提樹寮のリビングへ降りていくと、かなでが挨拶するよりも先に声をかけてくれたのは、八木沢雪広だった。
全国アンサンブルコンクールも無事に終わり、かなでたちが身を置いていたこの夏の喧噪も、ようやく落ち着きを見せていたが、あの全身全霊をかけたコンクールが夢ではなかったと実感出来るのは、八木沢を始めとする至誠館や東金を筆頭とする神南の生徒たちは、まだ横浜に滞在し続けているからだ。
先日、八木沢雪広という目の前の優しくて穏やかで……そして音楽の事となると誠実で少しだけ頑固な生まれて初めての『恋人』を手に入れたばかり。
一生大切にすると言った半ばプロポーズ紛いの八木沢の言葉を疑ってはいないけれど、もう少し恋人同士としての甘い時間を過ごしてみたいというのも本音だ。だから、せっかく想いが通じ合った途端、離れ離れになるのはとても寂しいと思っていた。
全てが終わった今、さすがに無闇に滞在を延ばすことは難しいようだが、僅か数日の間でも皆が……八木沢がいてくれる。コンクールに神経をすり減らさずによくなった今だからこそ望める贅沢なのだから、二人で過ごす猶予を与えられていることがかなでは嬉しかった。
「朝食の用意をしましょうか? もう他の皆は食事を済ませて、それぞれに出かけてしまいましたけど」
「あ、自分でやりますから、八木沢さんは座ってて下さい。……よければ、そのお茶だけもらってもいいですか?」
テーブルの上で程よく冷えたウォータボトルの麦茶をグラスに注ごうとしていた八木沢はふとその動きを止めると、分かりました、と穏やかな笑顔で答えてくれた。
棚から自分が準備していたものと同じグラスを取り出し、二人分の麦茶を注いでくれる。
それを傍目に見ながら、かなでは用意されていた朝食のおにぎりのラップを剥ぎ、おそらく皆が食べた後なのだろう、コンロに置きっぱなしの鍋の中に残っているお味噌汁をいそいそと温めた。
手早く準備を終えて、かなではお味噌汁のお椀とお皿のおにぎりを抱えて、食卓の定位置へと腰を下ろす。そんなかなでの目の前に、八木沢が準備したお茶を差し出してくれた。
「ありがとうございます。……八木沢さんは私を気にせずに、ゆっくりしてて下さいね」
普段からクセの強い至誠館メンバーをまとめあげている苦労人の八木沢の手を、更にかなでのことで煩わせるわけにいかない。そう思いながらかなでが一人、いただきます、と両手を合わせてお味噌汁に箸をつけると、小さな溜息と共に八木沢がかたんと椅子を鳴らし、かなでの目の前の席に腰を下ろした。
「……小日向さん」
真正面からかなでを見つめ、八木沢は妙に真剣な面持ちでかなでを呼ぶ。
思わず箸を止めたかなでは、居住まいを正して背筋を伸ばし、「ハイ」と行儀よく返事をする。
「あの……不躾は重々承知の上で、一つお聞きしたいことがあるんですが」
「……ハイ」
真面目な八木沢の様子に、かなでも慎重に答えを返す。
何度か言いにくそうに口を開いては閉じ、やがて思い切ったように八木沢がかなでに告げたのは、予想外の一言だった。
「僕は一体いつになったら、如月くんや響也くんよりも、あなたに近い存在として認めてもらえるんでしょうか……?」
「……は?」
怪訝な表情をしたかなでの大声が、誰もいないリビングキッチンに響き渡る。
ですから、と焦った様子の八木沢が、腰を浮かせて身を乗り出し、言葉を続けた。
「僕は、あなたの恋人になったつもりだったんです。だから、すぐにはそうなれないと分かってはいても、幼馴染みの彼らよりも、あなたに近しい存在になりたいと思っていて……」
「いやいや、待って待って?」
片手を振って八木沢の言葉を制したかなでは、何故か突然内緒話をするように声をひそめ、上目遣いに八木沢を見つめる。
「あの。これでも一応、私は律くんや響也よりも、八木沢さんを充分大事に想ってるつもりなんですけど……」
伝わってませんか? と不安げにかなでが首を傾げた。八木沢の頬が仄かに赤く染まる。
「……そ、そうだったんですか?」
それはすみません、と照れて恐縮した八木沢がすとんと椅子に身を落ち着けて俯く。ややして、「そうではなくて」と我に返り、もう一度かなでを見つめた。
「ですが、その……あなたはお二人を、名前で呼ばれていますよね? でも僕の事はまだ『八木沢さん』と他人行儀に呼んでいらっしゃる。そのことが気になって……」
「……ええと」
ようやく、かなでにも八木沢の言いたいことが見えてきた。
「つまり、名前で呼んで欲しいってことですか?」
「ええ、まあ。……平たく言えば」
はっきりと言葉にしたかなでに、増々身を縮めるようにして八木沢は小さな声で呟く。それならそうと最初からはっきり言ってくれればいいのに、とかなでは頬を膨らませる。
「だったら八木沢さんにも『小日向さん』って呼び方変えてもらわなきゃですよね。八木沢さんのその理屈だと、私は東金さんよりも八木沢さんから遠いヒトになっちゃいますし」
「ああ、そうか。……そうですね」
一人納得して頷き、八木沢は頬を赤らめたまま何かを考え込んでいる。
そんな八木沢の様子を上目遣いに伺いながら、八木沢の中で何かしらの結論が出るまで、かなではとりあえず目の前の食糧を胃の中に収めることに専念する。
しばらくの間、かなでが食事のためにたてる物音だけがその場を満たす。……そうして、八木沢が口を開く。
「それでは『かなでさん』とお呼びしてもよろしいですか?」
「ハイ!」
はにかんで告げた八木沢に、満面の笑みでかなでが頷く。
そして今度は、かなでが思い悩む番だった。
「ええと。どうせなら誰も呼ばない呼び方がいいなって思うんですけど……八木沢先輩とか雪広先輩じゃあんまり変わらないし……」
「僕は呼び捨てでも構いませんよ」
「あ、それは駄目です。おじいちゃんから『周囲の支えてくれる人には敬意を払うように』って教えられてるから。八木沢さんが私をさんづけで呼んでるのに、私が八木沢さんを呼び捨てにするのは違う気がするんです」
かなでなりの理論からすぱっと八木沢の申し出を退け、かなではうんうん唸っている。
祖父の教えに沿うならば、単純にかなでは八木沢を『雪広さん』と呼ばなければならないのだが、それは気恥ずかしくて言えそうになかった。
そういう呼び方は、もっともっと彼との関係が深くなった時の為に、もう少し大事に取っておきたい。
「あ」
ふと何かを思い付いたかなでが、ぱん、と両手を打って顔を輝かせた。小さく首を傾げ、八木沢はかなでの結論を待つ。
「『ユキ先輩』っていうのどうですか? ちょっとだけ東金さんの真似っこですけど」
それは、今まで誰も呼ぶことのなかった呼称。
かなでだけが呼ぶことのできる、ちょっとだけ新鮮な八木沢の名前。
「はい。……あなたが、それがいいと仰ってくださるのなら」
先程のかなでのように答え、八木沢が嬉しそうに笑う。
そんな八木沢の表情を見て、かなでも花開くように笑う。
「では食事が終わられたなら、よろしければ、一緒に出かけませんか? 小日……ではなくて、かなでさん」
「ハイ、喜んで。八木沢……じゃなかった。ユキ先輩」
まだ辿々しい新しい呼び名に、二人で顔を見合わせて。
楽しそうに二人同時に笑って。
そうして、また穏やかに始まる。
少しだけ距離を縮めた二人で過ごす。
残り少ない、幸せな夏の休日。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:2011.10.23 加筆修正:2016.8.5】
東金がユキと呼ぶので、どうせならそんな感じの呼び方がいいかなあと思って書いてみました。将来的には雪広さんになるかな。
同じ学校でないのに先輩と言うのは人生の以下略。
他の方の創作ではこの呼び方はほとんど見ないので、あまり使わないようにはしたいと思います(笑)


