02. あんな表情、知らない

響也→かなで

「……は?」

 思わず聞き返して、かなでの顔を凝視した自分は、きっと随分と間の抜けた表情をしていたと思う。
 それが分かっていてもどうしようもなかったのは、かなでの言葉が自分の常識の範囲内からひどく逸脱していた所為だろう。
「……俺の、聞き間違いじゃなきゃ」
 両目を閉じてこめかみに指先をぐりぐりと押し当て、響也は一言一言を噛みしめるように告げる。
「星奏学院に編入するって……そう言ったか?」
「うん!そう」
 聞き間違いであって欲しい、という響也の微かな期待を容赦なく一刀両断し、満面の笑みでかなでは大きく頷き、宣告した。

「私も律くんと同じ、星奏学院に行くよ!」


 長い時間を共に過ごしてきた幼馴染みが、無鉄砲で楽天家で……そして一度言い出したら絶対に自分の意思を曲げない性質であることを響也はよく理解していた。
 何しろ毎度そのかなでの突飛な思い付きに振り回されるのは、他の誰でもない響也自身だったからだ。
 当然、この編入騒ぎにも巻き込まれる羽目になった。
 かなでが言い出した瞬間から覚悟はしていたが、それでも響也はギリギリまで精一杯抵抗してみた。当のかなで本人は「来たくないなら別に響也は残っても」と薄情なものだったが、彼女の保護者達はそうはいかない。特に孫を溺愛するかなでの祖父の不安は相当なもので、かなで本人の意思が曲げられないというのが明白な以上は、彼女の無鉄砲っぷりを監視するのは響也以外にないと、響也が根負けしてかなでとともに編入することを承諾するまで、毎日家に押しかけては手を変え品を変え、宥め、脅し、最終的には泣き落としという常套手段で響也を説得にかかったのだ。

「ったく、お前のとんでもない思いつきのせいで、俺までとばっちりくったじゃねーか」
 かなでの祖父の説得に根負けして編入を承諾しても、不満が残るのは別の話だ。むしろ諸悪の根源相手に愚痴くらい吐かせてもらっても罰は当たらないと響也は思う。
「別に響也が来たくないなら私一人でもいいって言ったのにねえ」
 ほやんとした口調で、かなでが言う。そういうわけにもいかねえだろ、と響也が溜息を付いた。
「お前がよくったって、ジイさんたちはよくねえんだよ。……心配かけるって、お前にだって分かってたんだろ?」
 その度を越えた脳天気っぷりが周りを振り回していることを、かなで本人はあまりよく理解していないようだが、かなでが無茶を言えば周りが過剰反応することは、これまでの経験で嫌でも分かっているはずだ。
 そしてかなでが発端の騒動には、幼い頃からずっと一緒にいる響也が否応なく巻き込まれるであろうことも。
「巻き込んじゃってごめんね。響也」
 苦笑してかなでが詫びると、あまりにストレートに謝罪されて逆にバツが悪くなったのか、「……べ、別に、もういいけどよ」と響也がそっぽを向いた。
 昔から響也は反発をすればより一層反発するけれど、逆にこちらが引けばそれを素直に受け入れてしまう人の良さがある。だからこそ面倒事を押し付けられていることを、本人は自覚しているのかいないのか……。
 多分よく分かっていないのだろうとかなでは思う。そして、それこそが響也の憎めない、どれだけ悪態をつこうが皆に愛される美徳だ。
「それにしてもよ……」
 かなでと響也は、横浜に向かう列車に乗るために、駅の構内のベンチに座っている。乗る予定の列車は事故のために到着が遅れているらしい。二人は仕方なく腹ごしらえと時間つぶしを兼ねて、かなでが売店で購入したスナック菓子を並んでつまんでいた。
 かなでに話しかけながら響也の手が袋の中からごっそりと大量のスナックを掴み取っていくので、かなでは顔をしかめながら響也の手から逃げるように、スナック菓子の袋を持ち上げた。
「……何で突然、律んとこ行こうなんて思いついたんだよ?」
 高校進学時に言い出していたならまだ分かる。かなでは昔から律に懐いていたし、律が故郷からは遠い星奏学院に進学した時もとても寂しがっていたから、自分の進路を決める時に律のいる場所を選択肢の一つとして挙げるのは自然な流れだ。
 だが、高校に入学してからもう1年と数か月の月日が経過していた。今更かなでが律の元へ行きたいと言い出すのは、随分不自然な話だった。
「……うん。自分でもね、本当はよく分からないの。私だってほんの数週間前までは、あっちに編入することなんて考えていなかったし」
 珍しく歯切れ悪く切り出したかなでは、「でも」と言葉を切る。真っ直ぐな視線が、空を見据えた。
「私のヴァイオリンは、このままじゃダメだって思うの。それだけは私にも分かる。今のままじゃ、私の音楽はこれ以上先に進めないの。……そう思った時、あの時の律くんの言葉が浮かんできたんだ。律くんも言ってたじゃない。『このままじゃ駄目なんだ』って」
 響也にもかなでにも相談することなく、遠方の学校への進学を決めた律を響也が問い詰めた際、確かに律も言った。「ここで音楽を続けていても駄目だ」「お前たち以外のライバルが必要なんだ」と。
「響也はずっと何も言わないでいてくれたけど……本当は私のヴァイオリンのこと、響也が一番分かってたよね」
 かなでの言葉に、響也は微かに息を呑む。
 そう、確かに気付いていた。かなでのヴァイオリンの音色が、幼い頃のどこかを境にして、変わってしまったこと。
 悪くはない、下手ではない。むしろ技術だけを見れば、幼い頃よりも確実に成長をしている。
 だが確かに彼女の音色は昔の輝いていた頃の面影を失ってしまっている。無難で過不足なく、無色透明の単調な音色。
「そりゃ律くんと私は違うし、環境が変わったからと言って、私のヴァイオリンの音色も変わるのかどうかなんて、本当は知らない。……だけど、私はまだ、自分のヴァイオリンを諦めたくない」
 律が変化を求めて旅立ったその場所に、かなでもまた変化できる可能性があるのなら。
 かなでは、そのわずかな可能性にかけてみたいと思ったのだ。

「諦めたくない」と呟いたかなでの横顔は、ずっと傍にいたはずの響也が見たことがない、険しく……そして大人びた表情で。
 何だか急にかなでが別の存在になってしまったようで、響也はひどく居心地が悪く……不安になる。
 思わず響也がかなでの肩を掴んで、自分の方に向き直らせると、驚いたように大きく瞬きをしたかなでが、……いつものほやんとした表情で、解けるように笑った。
「どうしたの? やっぱり響也は戻る? おじいちゃんには私が上手く言うから、帰ってもいいよ」
「……ばっ!」
 馬鹿野郎、と言いたい言葉は呑み込んで。
 響也は放り出すようにかなでの肩を掴んだ手を離した。
「……編入手続きも引っ越し作業も終わってんのに、今更そんなこと言うわけにもいかねえだろ! もういいよ、腹ぁくくったから!」
「響也って、最後には折れてくれるのに、結構悪あがきするよねえ」
 諦め悪いよねと笑ってまたスナック菓子を齧るかなでの横顔は、響也が幼い頃から見つめてきたよく知っているかなでの表情と変わりなくて、響也はこっそり安堵の息を吐く。

 音が変わる可能性だとか、そんなことは響也の知ったことじゃない。
 あまり仲がいいとは言えない(響也はそう思っているが、かなで曰く、「律くんが好きすぎて、構って欲しくてちょっかい出して反発しちゃうだけのブラコンじゃないの?」……冗談じゃない)兄・律の元へ行くことになるのも、正直なところ面白くはない。
 だが変革を望むかなでには、もう既に一つの変化が現れ始めている。
 ついさっき、かなでが見せた、今まで響也が見たことのなかった表情。
 困難に真正面から向き合う……強い表情。
 かなでの傍にずっといて、彼女のことは何でも知っているつもりでいるのに。
 響也の知らないところで、かなでが変わっていく……大人になっていく。
 知らない女性になっていく。
 きっと、自分はそれが怖い。……だから。

(かなでの何かが変わる可能性があるのなら、俺はそれを傍で見届けたい)

 どんなふうにカッコつけてみても、多分響也がこの無理矢理な編入騒動を最終的に受け入れた理由は、そこに在るのだ。

「あ、響也。電車来たよ」
 呑気な声でかなでが呟き、立ち上がる。
 いつの間にか食べ終わっていたスナック菓子の袋をかなでの手から取り上げ、捻り潰して備え付けのゴミ箱に放り込み、響也も立ち上がる。
「うし!……じゃあ、行くか!」
 気合を入れ直して響也が言うと、かなでが肩越しに振り返って、そんな響也に小さく笑った。

 全てを見透かされているような、かなでの大人びた微笑みに。
 ふと気を抜いた瞬間に現れる、響也の知らないかなでの表情に。
 響也は何かに追い立てられるような……落ち着かないような。

 そんな、何ともいえない焦燥感に襲われるのだった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2012.10.28 加筆修正:2018.8.11】

響也は書きやすいですねえ(笑)ひねてるようですけど、まっすぐなひね方してるんで、書きやすい。
どうやってもかなでの(つか、周囲全ての)ペースに巻き込まれるタイプなので、流されるだけで終わらないように(笑)丁寧に書いてあげたい子だと思います。

Page Top