ふと綺麗に重なっていた二つのヴァイオリンの音色のうちの片方が途切れ、小さな呻き声と共にその場で律が俯いた。
もしかして、また手が痛んだのだろうかと、かなでは慌てて律に駆け寄った。
「律くん?」とかなでが声をかけながら律の顔を下方から覗き込むと、その目にじんわりと涙が浮かんでいて、かなでは驚いて目を見張った。
「大丈夫? やっぱり手が痛むの?」
「ああ、いや。……大丈夫だ、手が痛むわけじゃない。どうやら、目にゴミが入ったようだ」
言いながら、頬と眼鏡の隙間から長い指先を挿し入れ、律は涙の浮かんだ片目をこすろうとする。焦ったかなでがその手を掴んで律の動きを止めた。
「駄目だよ律くん、こすると余計にひどくなっちゃう。ちゃんと洗い流さなきゃ。本当は目薬があればいいんだけど……でも涙が出てるなら、もう流れちゃうかな」
「……そうなのか」
よく分からない、といった様子で律が首を傾げる。
苦笑するかなでが、ベンチに置いていた自分のバッグの中を漁り、タオル地のハンカチを取り出す。
律を振り返ると、そのベンチを指し示した。
「律くん、ここに座って。ゴミが流れたかどうか、見てあげる」
「ああ、そうだな。頼む」
かなでの指示に素直に従い、律がベンチに腰掛け、その正面にかなでが立つ。
わずかに上向いた律の端正な顔を見下ろすようにして、「失礼しまーす」と、かなではその目の中を覗き込んだ。
「大丈夫そうだけど……、律くんごめんね?眼鏡を外してもらっていい?」
わずかに充血した律の綺麗な目の中に、もうゴミは残ってはいないように見える。
だが、薄い眼鏡のレンズが光に反射して、あまり細かいところまで見ることが出来ない。そのことに気が付いて、かなでは律に眼鏡を外すよう促した。
わかった、と頷いた律の指先が、眼鏡を引き抜く。軽く瞬いた律が、もう一度かなでを見上げた。
「これでどうだ?」
「ん、大丈夫だと思う。ちょっと待っててね」
ハンカチを片手に、至極真面目な表情でかなでが律を覗き込む。
その一生懸命な表情が、とても近い距離にあった。近視の律の裸眼でも、はっきりと分かるくらいに。
澄んだ大きなかなでの目の中に、裸眼の自分の顔が映り込んでいるのが見えた。
(ああ、こんなに)
(かなでが……近い)
「……うん!平気みたい。でも菩提樹寮に戻ってから、ちゃんと洗った方がいいと思うよ」
満足げに笑顔で頷き、かなでが身を起こそうとする。
彼女が離れていく気配に、律は妙な焦りを感じた。
腕を伸ばし、離れようとした小さな頭に手をやって。
律は、力任せにかなでの頭を引き寄せる。
「……ん!」
されるがままにかなでは勢いよく律の唇に自分の唇を押し当てる。
「んんんんんっ?」とくぐもった声が喉の奥から漏れた。
驚きに大きく見開かれたかなでの目の中に、同じように真っ直ぐにかなでを見つめる自分の姿が映る。
だからきっと、かなでにも。
こんなふうにかなでを熱っぽく見つめる、律の姿が見えている。
「り、律くん?」
「……眼鏡をかけていなくても、この距離ならお前の可愛い顔がはっきりと分かるな」
「か、かわ……っ」
頬を真っ赤に染めて。
あわあわと後ずさろうとするかなでの腰を抱き寄せて。
自分がかなでを見上げているという、この物珍しい位置関係を、律は堪能することに決めた。
「……かなで」
もう一度、と。
まるでヴァイオリンの練習をしている時のような……それでいて、練習の時には絶対に発することのない甘い声音で律が強請る。
うう、とかでも、とか。
羞恥心から律の要求する行為を躊躇っていたかなでも、普段の練習の様子から一度律が言い出したら、彼が満足するまでは終われないことを知っているので。
渋々、という様子で頬を赤く染めたまま、律の顔に顔を寄せる。
至近距離から、お互いの瞳を見つめつつ。
でも唇が触れた瞬間には、やっぱりどうにも恥ずかしさの方が勝るので。
息がかかるほど傍にある、律の綺麗な表情を堪能する余裕はなく。
かなではついつい、ぎゅうっとその両目を閉じてしまうのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:16.5.15】
改装に合わせてweb拍手を撤廃しましたので、御礼創作を引き上げてまいりました。
書いたのが昔過ぎるのと、他の掲載物と比べてほぼ自分で見返す機会がなかったせいか、なかなか新鮮な気持ちで読み返しております。ほんっとに律ってさあ……(呆・いや、私が書いたんだけど)


