先ほどから、ずっと背後の方を気にしていたかなでは、意を決したように八木沢の方を見つめ、恐る恐る口を開いた。
「……はい」
対する八木沢も溜息交じりにかなでの呼びかけに応じる。ちらりと視線だけを背後に向けたかなでが、声を潜めて尋ねた。
「あれ、新くんたちですよね?」
「……やはり、お気づきですよね……」
困ったように苦笑した八木沢が、かなでと同じように視線だけを自分の背後へと向ける。
すると、八木沢の動きに気が付いた背後の建物の陰からこちらを伺っていたいくつかの気配が、さっと身を隠すのが分かった。
「ええええっ!マジで! マジでかなでちゃん、今度の連休にこっちにくるんですか!?」
部室全体に響き渡るような大声で新が叫び、火積に特大の拳骨を食らう。それは至誠館吹奏楽部の日常風景だ。引退した八木沢と狩野も次期部長である火積へ事務的なことをまだ引き継いでいる途中なのでしょっちゅう部室には顔を出しており、引継ぎが終了するまで部内の予定は変わらず八木沢が取り仕切っていた。
「うん、夏のコンクールに菩提樹寮でお世話になった縁で、互いの学校の文化祭にうちの吹奏楽部と向こうのオケ部とを招待し合う話が持ち上がっていてね。部長の如月くん……今は弟さんの方だけど、彼と副部長の小日向さんがこちらに打合せに来てくれるらしいんだ」
打合せそのものは連休の中日である日曜に計画されているが、かなでは一足早く土曜日に仙台を訪れ、恋人である八木沢と一日ゆっくり過ごしたいと言ってくれた。それならばと、午前中のうちに駅でかなでと落ち合い、仙台の観光名所でも廻ろうかと思案中である。
「と、言うことはー」
意味ありげに言葉尻を伸ばし、新がその長身を折るようにして八木沢の顔を覗き込んでくる。
「部長、もしかして、かなでちゃんとデートですかぁ?」
「えっ……ええと、うん。……そう、なるの、かな?」
改めて言われると、急に恥ずかしくなって頬に血が昇る。
この夏、横浜に入る頃にも二人で出かける機会はあったけれど、彼女に告白して、想いを受け入れてもらって……恋人という関係性で出かけるのは、あまり多くは経験していない。そのくらい、今の八木沢とかなでの距離は遠いのだ。
「デートかあ……部長、何か心配じゃありません?」
「何がだい? 水嶋」
急に声を潜め、眉間に皺を寄せる新に八木沢は首を傾げる。だってーと新が立てた人差し指で唇を押さえる。
「部長って、イマドキ貴重な天然ドジっ子くんじゃないですかー」
「……ドジっ子」
愕然と八木沢が呟く。……身に覚えが、ないことも、ない。
「何もないところで転ぶのは当たり前、一緒に歩いててはぐれたりもしょっちゅうですしー、かなでちゃんも仙台の地理なんて全く分かんないだろうから、二人で迷子になっちゃったら大変ですよねー」
いや、幾らなんでも慣れ親しんだ故郷の地でそこまで致命的な迷子にはならない。現代には携帯電話という文明の利器もあるわけだし、いざとなれば人に道を聞けば済む話だ。……と内心八木沢は思っているのだが、新の『立て板に水』な話しっぷりに言葉を挟む隙がなかった。
「なのでここはいっそ、オレらも部長とかなでちゃんのデートに参加して、二人をフォローするっていうことでどーでしょーか!」
「おお、面白そうだな!水嶋!」
新の提案に、顔を輝かせた狩野が乗っかる。
悪乗りしやすい二人に、それはちょっと小日向さんに失礼では……と八木沢が異論を挟みかけた時、再度新の脳天に火積の鉄槌が下った。
「ai! ……ちょっと、火積センパイ!叩き過ぎじゃないですかー?あんまりポカスカ叩かれると、オレバカになっちゃいますよー!」
「それ以上馬鹿にはなれねえから余計な心配すんな。……狩野先輩も、水嶋の悪ふざけにホイホイ乗っかるのは止めてください。こいつが増々調子に乗っちまう」
言葉使いは丁寧ではあったが、険を含んだ火積の鋭い視線に、狩野はへらっと誤魔化すように笑う。
「あ、う、うん、まあ。もちろん、冗談だけどな?」
そして、うやむやのまま練習に突入したのだが、練習場所の片隅に行儀悪く腰を下ろした新と狩野がこそこそと何かを話し合っているのが見えて、八木沢は一抹の不安を覚えるのだった。
「……じゃあ、あれって」
「そうですね。僕らはどうやら水嶋と狩野に付けられているようです」
上手く尾行しているつもりなのかもしれないが、至誠館高校吹奏楽部1、2の賑やかしい二人なのだ。時折何かを喋り合う声があまりにも大き過ぎて、かなでと駅で落ち合った頃から八木沢も二人の存在に気が付いていた。
「えっと……」
どうしましょう?と困った顔でかなでが八木沢を見上げる。
新も狩野も知らない相手ではないし、久しぶりに会うのだからゆっくり話をしたいという気持ちもある。だが、せっかく八木沢に逢うためにかなでだけ予定を一日早めて仙台に来たのだ。部の活動という名目上、この日を逃せば八木沢と二人だけになる時間はほとんどないのだろうとかなでには思えた。
そして、かなでと同じことを八木沢も考える。
悪乗りしやすいとは言え、新も狩野も根本にはうっかりの多い八木沢が、かなでの前でヘマをやらかさないように心配してくれている気持ちがあるのだと信じている。
それでも、せっかくかなでが無理をして作ってくれた二人だけの時間を、できれば無駄にしたくはなかった。
「……撒きましょうか」
かなでににっこりと笑いかけ、八木沢が提案する。思いがけない言葉に、かなでが目を丸くした。
「撒けるんですか?」
「とりあえずやってみないことには……。僕としても貴方とせっかく二人だけで過ごせる時間が減るのは残念です。でも狩野や水嶋の気持ちも有難いと思っているので……そうですね、出来るだけ『撒いた』ということが分からないように、自然にはぐれてしまいましょう」
言って、八木沢はかなでの小さな手を躊躇いながらも、そっと握る。弾かれたようにかなでが顔を上げると、ほんのり頬を染めた八木沢がかなでの耳元で小さく囁いた。
「あまり僕らの間に距離があると、動きづらいので。すみませんが、手を繋がせてください」
「は、はい、もちろん」
強くない力が、きゅっと八木沢の手を握り返す。ほっと安堵の息を付いた八木沢が、かなでの手を引いて歩き出すと、背後で「おおおおおおっ!」という二重奏の歓声が上がった。
休日の観光名所ともなれば、それなりに人の数も多い。八木沢は上手くその中に紛れ込んで、慌てず急がず歩きながら名所の由来を語って聞かせたり、二人でお土産屋を覗き込んだり、背後の追跡者たちを伺いつつ、平静を保つ。
やがて、建物の角を曲がったところで八木沢がこれまでにない強い力でかなでの腕を引き、狭い路地裏にかなでの華奢な身体を押し込んだ。
「ゆ、ユキせんぱ」
「……シッ」
反射的にかなでが声を上げかけると、かなでの身体を隠すように壁に片手をついた八木沢が、立てた人差し指を口元に当てる。慌ててかなでも両手で口元を覆うと、やがて聞き覚えのある声が賑やかしい通りの方から聞こえてきた。
「もー、ホントにこっちだったんですかぁー?」
「だって、こっち以外行くとこなかっただろー? ……っかしーな、もう次の場所行っちまったのかなあ」
「まあ、こんだけ人多いと見失っちゃいますよねー。……しょーがない、先回りしてみましょーか」
同じような帽子と眼鏡で変装をしているつもりらしい新と狩野とが、路地裏から見える狭く縦長に区切った空間を横切って行くのを、かなでは目の端で追いかける。
二人の姿が見えなくなって、それからしばらく息を殺しつつ様子を伺い……。
ようやく、かなでと八木沢は同時に安堵の息を吐いた。
「上手くいきましたね」
「そうですね」
言い合って、見上げた八木沢の顔が思いのほか近く、かなでは思わず息を呑む。動きを止めたかなでを、八木沢が怪訝な顔で見下ろした。
「かなでさん、どうかし」
そして、八木沢も自分と彼女との距離を知り、今の自分たちの現状を知る。
うっかりあの二人に見つからないようにと反射的にかなでを自分で覆い隠してしまったので……彼女の額が自分の胸元に触れるほど、自分たちの距離は近い。
「す、すみません! 二人に見つかってしまわないようにと、つい……」
「あの、謝ってもらうことではないので……」
顔を真っ赤に染めたかなでが、慌てて顔を上げる。更にかなでと八木沢の顔の距離が近づき、互いの視線が絡み合い……八木沢は、小さく息を呑む。
そんなつもりじゃなかった。
彼女を人目につかないこんな場所に引き入れたのは、あくまで親友と後輩の好奇心から逃れるためで。滅多に逢うことの出来ない愛しい恋人との時間を大切にしたかっただけで。
ああ、だけど。
いざ、こんなふうな状況に陥ってみたならば。
自分は本当は、彼女とこうなれる時間をずっと望んでいたような気さえしてくる。
繋いだ片手はそのままに。
拒まれないよう、逃げられないようにもう片方の手で、彼女の細い肩を壁に押し付けて。
……それでも怖がられたくはないから、いざとなれば彼女が振り払えるくらいに、力加減を調整して。
そして、身を屈めた八木沢の唇が。
突然かなでの唇に優しく触れた。
最初は躊躇いがちに触れた唇は、かなでが緊張はしても拒まないことを知ると、更に深く合わせられる。
思わず零れてしまう自分の吐息の欠片と、甘ったるい声が恥ずかしくて、かなではただ、八木沢と繋いだ片手を、ぎゅうっと強く握り返した。
やがて、長いような短いような、感覚がよく分からなくなる突然のキスが終わり、身を起こした八木沢が目尻を染めながら、かなでの肩を掴んでいた手で口元を覆い、目を反らす。
「……すみません、こんな、突然。でも、貴方が手の届く位置にいると実感したら、……何だか、我慢が効かなくて」
「……いいえ」
かなではふるふると首を横に振る。困ったように視線を向けた八木沢に、頬を染めたまま、かなではふわりと微笑んだ。
「多分、私もずっと、ユキ先輩に触れて欲しかったから」
遠い場所で、違う日常を過ごす日々。
もう、お互いにこの人しかいないのだと選んだ道だから、二人を隔てる距離を後悔したことなんてないけれど。
それでもやはり、手が届く距離に互いの存在があるのなら、その時にしか出来ないことをちゃんとしたい。
その気持ちはきっと、かなでも八木沢と同じものであるはずだった。
「……あの、かなでさん」
「はい」
「あの……あまり僕のことを、甘やかさないで下さい……」
先ほどの強引なキスが嘘のように。
耳まで赤くなって照れる八木沢を久しぶりに目にして、そんな彼が何だかとても可愛らしく思えるので。
今度はこちらからキスしてみたら、いったいどんな反応をするんだろうと。
かなではちょっとだけ試してみたい気持ちになるのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:16.5.22】
改装に合わせてweb拍手を撤廃しましたので、御礼創作を引き上げてまいりました。
後になって、我ながら何でこれ裏の方に置かなかったのかなあとか思ったんですけどね(笑)まあ、取り急ぎ6本書いて、裏っぽいものを3本抜いて、残りを表に持ってきたというだけなので…
ちなみに、ここのやぎかなは当サイト設定で書いてますので、かなでの八木沢の呼び方が独特です。


