001.恋に落ちたのは一瞬

東金×かなで/セミファイナル前

(……えーっとぉ)

 人間、突発的な出来事には咄嗟の行動がなかなか出来ないものなのだということを、かなでは妙に実感した。
 夏休み中でほとんど人気のない、セミだけが異様に元気な夏真っ盛りの森の広場の、多少は涼しく感じられる木陰を選び、来る全国アンサンブルコンクール・セミファイナルに向けて、個人練習をしていたことまでは何も問題はなく、むしろ練習熱心だと感心されてもいいところだと思う。
 だが譜面台を運ぶ手間を惜しんで、ベンチの上に無造作に楽譜を広げていたことが『怠惰』だと罰が当たったのだろうか。

(こういう漫画みたいなことって、本当にあるの?)

 傍から見れば、ただ茫然と立ち尽くしていただけなのかもしれないが、内心かなでは憤慨していた。
 少し強めの風が吹いて、心地いいなと呑気に思った次の瞬間、その風はベンチ上の楽譜を煽り、辺り一面に容赦なく、盛大にばら撒いてくれた。それだけならともかく、ふわりと風に浮いたその中の一枚が、傍らに伸びる夏の日差しに生い茂った樹木の中途半端な高さに、それこそ狙いすましたように引っかかってしまったのだ。
 小柄なかなでが手を伸ばしてみたところで到底届く高さではなく、太い幹を思い切り揺すってみたり、人の目がないことをいいことに、こっそり蹴飛ばしてみたりしたけれど、目に鮮やかな濃い緑色の葉がひらひらと無情に散るばかりで、楽譜はかなでの手元へ落ちてくる気配すらなかった。
 こんなことなら面倒がらずに、ちゃんと音楽室から譜面台を持参するんだった。
 そもそも譜面台がなくても、楽譜をちゃんと固定していたら。
 今更悔やんでみても、全て後の祭りだった。
「しょうがない、脚立借りてくるっきゃないか……」
 背伸びしようが、助走をつけてジャンプしてみようが、少々の頑張りでは到底届かない高さだし、ここで唯一足場になりうるベンチは、楽譜が引っかかった位置からは離れているため、やはり使えない。
 強いて使えそうな道具といえばヴァイオリンと弓、それからヴァイオリンケースくらいだが、さすがにかなでの商売道具と言うべきものを、自分のミスの挽回のために使用するのは抵抗がある。
 校舎に戻り、休日出勤中の教員を掴まえれば、脚立の一つくらい使わせてくれるだろうし、もし背の高い誰かがいてくれたら楽譜を取るのに協力してくれるかもしれない。そう考えて、校舎へと踵を返したかなでの視界に、一人の人物が入ってきた。
「よう、地味子」
 何の気負いもなくそう声を掛けてきたのは、コンクールのセミファイナルでかなでの所属する星奏学院と競うことになる、神南高校の部長・東金千秋だった。
 反射的にかなでは顔をしかめる。別に東金個人がどうというわけではなかったが、東金が自分のことを出会った当初から「地味子」と呼ぶのが嫌いなのだ。
 何だか、小馬鹿にされているようで。
「地味子じゃないです」
 挨拶代わりのように呼ばれる不本意な呼び方に、かなでもテンプレートのように同じ言葉で否定する。
 もしかしたら、東金はそんなやり取りそのものを面白がっているのかもしれない。何度地味子と呼ぶのを辞めてくれと懇願してみても、「地味子なんだからしょうがないだろ」とまともに取り合ってくれなかった。
「つまらねえヴァイオリンの音が聴こえてきたと思ったら、やっぱりお前か。念のため敵情視察に来てみたが、俺の顔を見た途端、尻尾撒いて逃げる気か?」
 かなでの反発もまるで聞こえていないかのように東金は強気な口調で不敵に笑う。
 諦め半分の小さな溜息を付いたかなでが、指先で自分の頭上を指し示した。
「敵前逃亡する気はさらさらないですけど!……あれをどうにかしないと練習にならないので」
 かなでの指先を追い、東金の視線が傍らの樹木の上部に向けられる。葉の間から差し込む陽光に目を細め、そこにあるものを見つけ……「成程」と、半ば感心したように呟いた。
「風にでも飛ばされたのか。予想に違わずどんくさいな、地味子」
「うううう」
 反射的に文句を言いたくなったが、自分でもどんくさいと思ってしまうので、かなでは何も言えずに悔しげに小さく唸った。
「しかし、また絶妙な位置に攫われたもんだな。……俺でもこのままではちょっと無理か」
 東金が片腕を伸ばし、軽く地面を蹴って楽譜に届くかどうか試みるが、あと十数センチ距離が足りない。
 実はこっそり心の中で、東金に取ってもらえないだろうかと期待していたかなでは、がっくりと肩を落とした。
「……あのう、東金さん。申し訳ないんですけど、私、脚立か踏み台借りてきますから、私のヴァイオリン見ててもらってもいいですか?」
 東金は確かに尊大で容赦がない人だが、卑怯者ではない(と、かなでは思っている)ので、自分のヴァイオリンを預けること自体に不安はなかった。……だが。
「脚立? 別に必要ねえだろ。やりようで充分届くぜ」
 驚いたような表情で東金が言う。
 え、でもどうやって?とかなでが尋ね返そうとした時、大きなストライドでかなで歩み寄った東金が身を屈め、かなでの膝裏辺りに腕を回し、「よいしょ」と掛け声をかけつつ、まるで荷物のようにかなでの身体を持ち上げた。
「ととととととと東金さんっ!?」
「危ねえからジタバタすんなよ。……ほら、手伸ばしてみろ。この高さなら届くだろ」
 焦るかなでを余所に、涼しい声で東金がかなでを促す。
 確かにここからかなでが少し手を伸ばせば、楽譜に届く。……届くのだが。
「あの、でも、これって!」
「つべこべ言わずにさっさと取れよ。脚立なんざいちいち取りに行ってたら、返しに行くのも面倒だろ。時間がもったいねえじゃねえか」
 ほれほれ、と軽く体を揺すられて、かなでは怖いやら恥ずかしいやら。
 とにかくこの状況を早々に打開するには東金の言うとおりにするしかないと悟り、懸命に腕を伸ばして葉上の楽譜を何とか自分の手元に取り返した。
「よし、取ったな」
 それを確認した東金が、かなでの体を地面に降ろしてくれる。
 ぎゅっと楽譜を胸元に抱きしめ、かなでが上目遣いに東金を見ると、不敵に笑う彼が、軽く首を傾げた。……わざわざ言葉にされなくても、その仕草で礼を要求されたのが分かった。
「……ありがとうございました!」
 半ばやけくそ気味に大声で礼を言い、深く頭を下げると、頭上で東金が「礼は、お前の手作りスイーツで構わないぜ」といけしゃあしゃあとのたまった。
「それにしても、お前……」
 ふと思いついたように東金が口を開く。
 どんな嫌味を叩きつけられるのかと楽譜を抱き締めたまま思わず身構えたかなでに、東金の穏やかな声がぽつりと告げた。
「……軽いな」
「えっ」
 真逆のことを言われることを予想していたかなでは、ついつい反射的に驚きの声を上げる。
 意外そうに東金が片眉を上げる。
「何だ? 驚くようなことじゃないだろ」
「や、あの……てっきり重いって言われると思ったので」
 馬鹿正直にかなでが白状すると、東金が小さく笑った。
「馬ー鹿。お前ごときを抱えきれないようじゃ、むしろ男としての名折れってもんだろ。お前は逆にもうちょっと食って肉付けろ」
「だ、駄目です、ダメダメ! これ以上ぷにぷにになりたくないし!」
「ぷにぷに?」
 ぶんぶん、とかなでが首を横に振ると、面白そうな表情で東金がかなでを見下ろす。
 じいっと間近に見つめられて、かなではふと息を呑んだ。
 東金の指先がゆっくりと持ち上がり、かなでの頬に優しく触れ……。
 そして、思い切り東金の人差し指と親指が、かなでの柔らかな頬をぐいっとつねり上げた。
「いひゃい、いひゃい!」
「ははっ! 確かに柔いな」
 かなでが思わず悲鳴を上げると、東金は面白そうに笑った。
 かなでが頬を押さえながら、「ひどい」と恨めし気に東金を睨む。
「……まあ、肉付き云々を気に掛ける前に、お前はもっと先に身に付けなきゃいけないものがあるはずだぜ、地味子」
 東金の視線が鋭くなり、微かにかなでが息を呑む。
 わずかに目を細めた東金が、指先で自分の顎のラインをなぞった。
「今のお前が相手じゃ俺達もセミファイナルを楽しめねえ。悔しけりゃせいぜい足掻いて、そして見事ステージ上で化けてみろ。楽しみにしてるぜ」
「……の、臨むところです!!」
 ぐ、と拳を握りしめてかなでが強気に言い返す。
 東金はどこか楽しそうに笑うと、ひらりと片手を振り、踵を返した。


(すごい、軽々だったな)
 東金が去り、また練習を再開しながら、ふとかなでの脳裏に先程の出来事が蘇る。
 かなでがこれまで彼に持っていた印象は、ただ、会うなり人を「地味子」呼ばわりする、傍若無人で失礼な人というものだったけれど。
「やっぱり男の人、なんだなあ……」
 軽々とかなでを抱え上げた腕や、かなでを見つめてくる意志の強い眼差。
 それはかなでが持つことのない、異性の持ち物だ。
(……東金さんに、認められたい)
 「地味子」と呼ばれるたび、何かと馬鹿にされるたび、何度も何度も繰り返し胸に湧きあがった感情に、はっきりとした言葉という形が出来る。そう、かなでは東金に自分の事を認めさせたいのだ。
(『地味子』じゃなくて、ちゃんと『小日向かなで』として認識してもらうために)

 人間として。
 演奏者として。
 ……そして、一人の女性として。

 ……きぃ、とヴァイオリンが妙な悲鳴を上げた。

「女性として? ……いや、それは関係ないし」
 言葉のあやだし、と、誰も聞いてはいない心の呟きに、かなでは一人ツッコミを入れる。

 暑いなあ、と夏の青空を見上げて掌で扇いだその頬が、ほんのりと赤く染まっていることをかなで自身は気づかない。



 不遜で礼儀知らずで尊大で。
 ただそんな印象しか持ちえなかった人間に、異性の優しさをほんの少しだけ垣間見た。

 その一瞬に、淡く儚く幼い恋に、既に一歩踏み出していたことを。

 かなではもっと、ずっと後に知ることになる。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2013.9.8 加筆修正:2018.8.11】

ネタは2013年7月のイベント時に降って来たものです。神南メインの回で、神南の中の人たち(笑)がマイクスタンド軽々振り回してるの見て、「東金がかなでを軽々持ち上げてたら萌え」みたいなことを考えて(笑)
この時点ではもちろんかなでも東金を好きと想うには至ってないんですが、まずは「相手は自分とは違う性別なんだ!」と認識しないと恋が始まらないとか勝手に考えたりして(笑)

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