003.淋しいときには

東金×かなで/コンクール後・夏休み中

 普段はあまり日付を気にする方ではないけれど、さすがに今年の夏はスケジュールが濃密過ぎて、きちんと日付を追いながらこなさなければならない予定が多く、かなでは壁に貼ったカレンダーの数字一つ一つを、その日付が通り過ぎるたびにマジックの斜線で消してきた。幼い頃を振り返ってみても、こんなに日付を気にしながら生活したのは初めてのことだ。
 そして8月のカレンダーの斜線が未記入な数字も、残りはあと両手で数えられる程度だ。
 それはつまり、夏休みの残り日数があとわずかしかないという現実をかなでに突き付ける。
 もちろん、毎年夏休みの終わりというのはどことなく寂しい気持ちになる。それは単純にのんびりとした休暇が終わりを告げ、また慌ただしい喧騒に彩られた学生生活が戻ってくることへの不安だったり、まだ手つかずの課題に思いを馳せた焦りだったり理由は様々だが、今年の課題はすべて終わらせていたし、ちょっと不安が残るとすれば、休み明けの実力考査の出来栄えくらい。
 夏休みに一つ大きなことをやり遂げた達成感もあって、逆に清々しい気持ちで新学期を迎えられると思っていた。
 ……ほんの半月ほど前までは。
(夏休みが終わる……)
 キュ、と音を立ててなめらかなカレンダーの表面をマジックのペン先が滑る。
 斜線で消された今日の日付を見つめ、マジックのキャップを嵌めながら、かなでは小さな溜息をついた。

 今年の夏、かなでを含めほんの数人しか住んでいない菩提樹寮がとても賑やかに、華やかに彩られていたのは、夏のアンサンブルコンクールで競い合った至誠館と神南のメンバーが滞在していてくれたからだ。
 コンクールが終われば、皆はそれぞれ本来自分が過ごすべき場所へ帰り、ここにはまた限られた数人の住人たちだけが残される。人数が減れば寂しくなるのは必然だろうが、かなでの心を寂寥感で埋める原因は別にあった。
 彼らが帰郷するということは、つまりかなでが初めて好きになった相手も簡単には逢えない遠い場所に帰ってしまうということを意味しているのだ。

「電話とか、メールとか……」
 携帯を片手にベッドの上に座り込んで、かなでは彼が故郷に戻ってしまってからのことを考える。全く連絡を取らないと文句を言われそうな気がするが、あまり頻繁に他愛ない連絡をしていると、それはそれで「邪魔」だとか「面倒」だとか思われてしまいそうな気がする。
 我ながら面倒な相手を好きになったものだ。
 例えば相手が至誠館の八木沢や新なら、案外気軽に電話やメールや、手紙のやり取りが出来たのかもしれない。八木沢なら、かなでからの連絡が度を過ぎるようなら遠回しに上手く諭してくれそうな気がするし、新ならそもそもどんな他愛ない内容であろうと、かなでからの連絡を嫌がらないだろう。逆に新の方が嬉々としてくだらないメールや写真を送ってきそうだ。
 ところが、かなでが好きになった相手には、とにかくかなでが持っている常識が通用しない。巡り巡ればそれこそが、かなでが彼を好きになった原因になるのかもしれないが、普通ならこれで大丈夫だろうという判断基準がまるで役に立たないのだから、やっぱり面倒としか言いようがない。
 ……それでも、どれだけ面倒だと思っても、今更この恋を辞める気にならないのだから、その方が余程厄介なのかもしれないが。
「……お水でも飲んでこよ」
 もう一度溜息をついて、かなではベッドから降りる。
 コンクールが終わって数日、実に楽しそうに横浜観光を満喫しているように見える彼には、こんな淋しさや不安なんて全然ないんだろうなと、ぼんやりと思った。


 もう明かりの落ちていた廊下や階段の灯りをつけることは躊躇われて、かなではそろそろと掌で壁の位置を探りながら、暗がりの寮内をリビングまで下りていく。足元を見つめながら最下段の床を踏んで、ふと顔を上げると、リビングにはまだ明かりが残っていた。
 恐る恐るリビングを覗き込んで、ソファに行儀悪く寝転がっていた人物が、他でもない東金千秋だということにかなでは気づく。
「……東金さん?」
 転寝でもしていたのか、反射的にかなでの唇から洩れた声にすぐに東金は反応し、両目の上に載せていた腕をわずかに持ち上げた。
「小日向か」
 ちらりと視線を向けて、かなでに気付いた東金は、低い声で呟いて身を起こす。腕時計の文字盤を確認して小さな溜息をついた。
「……少し寝ていたか。もういい時間だな」
「毎日毎日出かけてるから、やっぱり少し疲れてるんじゃないですか?」
 苦笑しながらかなでが言った。
 どう穿って見ても、東金はのんびりと屋内に引きこもって満足できるような性質ではない。自分が興味のある場所を毎日忙しなく巡っていることを、真っ先に付き合わされるかなでが一番よく知っている。
 もちろん、普段の態度には微塵も見せることはないが、それなりに疲労が蓄積しているのではないかと思う。
「は? 俺がか?」
 かなでの言葉に、東金は呆れたように息を付いて笑う。
 体勢を立て直してソファの背もたれにどっかりともたれかかり、斜めにかなでを見上げた。
「俺が体力配分せずに、無計画に遊び回っているとでも思ってんのか?」
「……ええと」
 別にそんな大げさなことが言いたかったわけでもないので、かなでは反射的に口ごもる。しばらく答えに迷った挙句、「……疲れてるんじゃないなら、別にいいです」と俯いた。
「心配すんな。さっきまで次のライブの打合せだったからな。少しだけ休むつもりが、うっかり部屋に帰り損ねただけだ」
 かなでの気遣いは、ちゃんと伝わってはいたらしい。
「あの、何か飲みますか?」
 キッチンへ入りながら、かなでが尋ねると、「じゃあ、紅茶」とかなでの予想通りの答えが返ってきた。苦笑しながら、かなでは冷蔵庫の中から牛乳のパックを取り出す。
「こんな時間に紅茶なんてカフェイン多いの飲むと、眠れなくなっちゃいますよ。……確か前にも、芹沢くんに怒られてたじゃないですか」
 ホットミルクでいいですか?とかなでは尋ねる。正直、何と言われようとそれしか入れないつもりだったのだが、会話の流れから押し切られることを分かっていたのか、東金は意外にあっさりと承諾した。「子どもじゃねえのに」と愚痴も付け加えられはしたが。
 本当はちゃんと火にかけて温めた方がいいのだろうが、手軽さ・手早さを優先させて、かなでは二つのマグカップの中のミルクを、レンジで温めた。東金のものには適量の、自分の分には心持ち多めの砂糖を加えてリビングへ戻ると、ソファに座る東金がじっとかなでを見つめていた。
「……何、ですか?」
 元々東金は正面から真っ直ぐに人を見る性質だけれど、通常以上に、何か視線に強い意志を感じる。東金の前のテーブルに、ホットミルクのカップをそっと置きながら、かなでは東金の正面にそろそろと腰かけた。
「小日向……やっぱり、お前は神戸に来る気はないのか?」
 そのタイミングを待っていたかのように、東金は口を開く。かなではわずかに目を見開いた。
 確かにこれまでに何度も、東金からも土岐からも……実はこっそりと芹沢からも「神南に来い」と誘われてはいたのだが、半分冗談のように受け止めていた。
 だから改めて、こんなふうに真剣に意思を問われるとは思っていなかったのだ。
「……はい」
 少しだけ間をおいて、熟考して。
 それから、かなでははっきりと頷いて答えた。
 もし、今かなでの中に東金たちの目に留まるほどの実力があるのだとしたら、それは全て星奏学院で培ったものだ。至誠館の面々や東金たちとの関わりで成長できた部分も否定はしないが、律たちアンサンブルメンバーがかなでを信じて、かなでの演奏を自由にしてくれなかったら、きっと今のかなではなかった。
「星奏学院に来たからこそ、今の私があるんだと思ってます。だから私は、『ここ』でもっと成長していきたいと思ってます」
「……そうか」
 ある程度、答えは予想していたのだろう。それ以上食い下がることはせず、東金はしばらくの沈黙の後、かなでが目の前に置いたホットミルクのカップを手に取った。
「……これだけ俺たちが真剣に勧誘してるのに、あっさりと無下にするのははお前くらいだ」
 苦笑しながら、東金が言った。
 東金たちを蔑にしたつもりはないのだけれど、勧誘をきっぱりと断ってしまった手前、申し訳がなくて、かなでは身を縮めて甘いホットミルクを一口含む。そんなかなでを眺め、同じように口元にカップを運んだ東金が、ぽつりと呟いた。
「ということは、俺たちもしばらくは遠距離恋愛ってことだな」
 がちゃ、とかなでのマグカップがテーブルに触れる寸前に大きな音を立てた。
 思わず東金を見上げてしまったかなでを、驚いたように東金が見ている。
「小日向?」
「……え? あの、えっと……」
「何だ、今更。……まさか、気付いてなかったわけじゃないだろ?」
 かなでが神戸行きを断れば、数日後にはかなでは横浜、東金は神戸でそれぞれの生活を始めなければならない。ここに降りてくるまでにかなでの頭を占めていた考え事も正にそれで、もちろん気付いていなかったわけじゃない。
 だが、東金の口からはっきりとそう言われることが、かなでには意外だった。
 ここ数日、東金はかなでに別れの気配を感じさせることはなかったからだ。
 ただ東金の望みどおりに夏休みのわずかな残りを満喫して。そんなふうに、東金と過ごす何気ない日々が楽しくて。
 かなでの勝手な希望でしかないけれど、東金には思い至って欲しくなかった。もうすぐ終わってしまう期限付きの幸せの事なんて。
 東金には、目の前の今の事しか見ていて欲しくなかった。
 ……東金が、未来を見ることが怖かった。
(全く連絡しないと、それはそれで、文句を言われそうだし)
(でも無暗に連絡を取ってたら、ただでさえ忙しい東金に「うっとおしい」と思われそうだし)
 先ほどまでかなでの中に浮かんでいたマイナス思考。
 それを東金自身も自覚してしまったら……この恋そのものが、東金に面倒がられてしまう気がして。
「おい、小日向。……かなで」
 身を固くするかなでを、東金が呼ぶ。
 答えられずに俯いたままでいると、小さな溜息と共に東金の気配が動き、ソファが軋む音がした。訝しむ間もなく、かなでの座っているソファが急に右に傾く。はっとして顔を上げると、かなでのすぐ隣に東金の姿があった。斜めにかなでを覗き込むようにして、東金は低い声で尋ねる。
「……離れ離れの恋は嫌か?」
 嫌じゃない、とは言えなかった。かなでは小さく頷く。
「だが、それでも神戸に来る気はないんだろ?」
 この問いにも、かなでは頷く。
 東金を引き留めるためだけに、自分の心に嘘はつけない。
「我儘な女だ。ちっとも思い通りに動きやしない。……俺はどうしてこんな面倒な女がいいんだろうな?」
 かなでが不安げにじいっと東金を見つめる。一瞬息を呑む東金が、ふと解けるように甘く笑った。
「だが、そんな女に惚れちまったもんは仕方がない。いちいち心配する必要はねえ。俺はお前が思うよりもずっと、お前と付き合うことに対して腹くくってんだぜ」
「え……」
 意外な言葉に、かなでが目を丸くする。東金の腕が伸びて、するりとかなでの腰辺りに回る。柔らかく抱き寄せられた。
「もし淋しいときには遠慮なく連絡よこせ。その日のうちに逢いに来てやるよ」
「え。……えええっ! だって、神戸―横浜間ですよ!?」
「新幹線でたった2時間半じゃねえか。俺にとっちゃ庭みたいな距離だ」
 いつか言っていた言葉を、何でもなさそうに東金が繰り返す。
 本気だったのか、とかなでは思う。
「……まあ、そう言っても平日はさすがに長居は出来ないがな。上手く週末に合わせられれば、ライブの1本でも企画してやれるが」
 東金ならやりかねない、とかなで思う。
 ……嬉しい感情は少し遅れてやってきた。
「……もし淋しいって我儘言ったら、すぐに逢いに来てくれるんですか?」
「何疑ってんだ。俺を誰だと思ってる?」
 不本意だと言わんばかりに、顔をしかめて東金が尋ねる。「……東金千秋様?」とかなでが真面目に答えると、分かってるじゃねえか、と満足そうに笑って東金はかなでの髪を指先でくしゃっと混ぜ返した。
「この俺が、好きな女の小さな我儘くらい、聞いてやれないわけがないだろ?」
 逢いたいと言った時に神戸―横浜、新幹線で2時間半の距離を飛んできてくれることが小さな我儘だとはかなでには思えなかったけれど、東金が本気でそう考えていてくれていることは、ちゃんと伝わった。
「逆にお前が、そういう我儘をちゃんと言えるかどうかが分からないがな」
「……ぎりぎりまで我慢します。でも、どうしても逢いたくなっちゃったら、やっぱり電話はくらいしちゃうかも……」
 尻すぼみに口ごもりながら言ったかなでに、東金は笑ってかなでの額を指先で弾いた。
「アホ。……だから、そうやって余計な我慢をするなって言ってんだ」

 そして、これからの離れ離れの日々へ向けるかなでの不安を癒すように。
 東金は、ホットミルクみたいに甘くて暖かい。
 どこまでも優しいキスを、かなでの唇にそっと落としてくれた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2011.10.23 加筆修正:2018.8.11】

初めてのコルダ3創作です。……いえ、書いたのは初めてではないですが、本サイトで掲載するのは初めての作品です。
コルダ3、まだまだ書き馴れなくてキャラが固まってなくて手探り状態なんですが、月日を書き始めた頃のことを思い出して、何だか懐かしい感じです(笑)
コルダ3のキャラは良くも悪くも個性的(笑)なので、いろいろ書いてみるのが楽しみでもあります。

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