この先も、同じ景色を

律×かなで【Another sky 神南Ver.】

 律は、病院というものが苦手だ。
 ……そもそも、得意な人間なんていないのかもしれないと、律は思い直す。現に、病院が楽しいと思ったことなんて、過去を振り返ってみても、ただの一度もない。
 どちらかと言えば律は昔から病気とは無縁な方で、何か病院を訪れることになる時は、むしろ実弟の響也か幼馴染みのかなでのどちらかが原因であることがほとんどだった。
 二人は、活動的で出たがりで、そして物事の加減というものを知らない。響也が遊んでいて怪我をしたかと思えば、かなでが出先で流感をいち早く拾ってくる。……病院に来る時にはいつも不安と恐怖がないまぜの、重い感情ばかりが律の胸に巣食っていた。
(……ならば今のお前も、あの頃の俺と同じ気持ちなのだろうか)
 律が病院のドアを開けると、植込みの縁に腰かけるようにして待っていたかなでがこちらを振り返った。
……きっとあの頃、病院の外でかなでや響也の診察を待っていた律も、こんなふうに不安と心配が入り混じったような、哀しい顔をしていたのだろう。


 もう自分の手が思うようにヴァイオリンを弾くことが出来ないという事実を呑み込むのに、律はそれなりの長い時間を要した。
 医者から伝えられた診断結果はきちんと理解できたはずなのに、律はしばらくの間、それが自分自身の事なのだとは実感できずにいた。頭では分かっていても、心がどうしてもそれを受け入れなかった。
 自暴自棄になって、周囲に随分と心配をかけた。
 何をどうすればいいのか分からなかった律を救ってくれたのは、かなでだった。
 手が思うように動かず、自分のヴァイオリンも壊れてしまった……そんな絶望の淵にいた律に、かなでが希望を与えてくれた。
 修繕した律のヴァイオリンで、かなではコンクールのファイナルに臨み、見事に優勝を掴み取った。かなでが律の想いを汲み、音にして返してくれることで、律は自分自身の音楽が生き延びる道を示された。
 失ったものがある。それは、もう二度と元には戻らない。
 だが、得たものがある。……失ったからこそ、見つけられるものもある。
 そのことを律はかなでに教えられたのだ。

 ……律は、病院が嫌いだ。
 病院という場所は、律が失ってしまったものを律の目の前に明確に突き付ける。
 かなでにも心配や不安を与え、利点なんて何もないように思える。
 だが、こんなふうにかなでが自分のことを待っていてくれることを実感できる、この瞬間は悪くないと律は思っている。
 ……やっと、そう思えるようになった。


 診察の帰り道、律とかなでは近くの海を見に来ることが定番になっていた。
 今、かなでは、律が暮らす横浜からは遠く離れた、神戸の神南高校でヴァイオリンを学んでいる。
 元のように動かせないと分かっていながらも、それでもこれ以上悪くなることはないようにと定期的に手の治療に通う律のことを心配して、都合のつく時には、かなでは神戸からはるばる律の様子を見にやって来る。菩提樹寮の空き部屋は豊富であるし、この夏のコンクールにまつわるあれこれを知っている寮生たちは、かなでが泊まることを快く受け入れてくれているため、宿泊場所は確保されていて、日帰りという強硬手段は取らずに済んでいる。だがそれでも、長期休暇は終わってしまっているから、夏の間のように神戸から横浜まで頻繁に行き来できるわけではない。金銭的にも時間的にも、二人で逢える時間を捻出することは容易ではないのだ。
 だからこそこうして二人で過ごせる機会が出来れば、それを無駄にしないように心がけている。
 ……この海は、律がかなでに救われた場所だ。
 絶望に押しつぶされそうになっていた律を抱き留めてくれたかなでの両腕の温もりが、癒してくれた。
 季節が進むごとにその色を変えていく同じ景色を、律とかなでは二人でなぞっていく。
 それは、あの時お互いが抱いた決心を、繰り返し確認する行為だ。

「やっぱり、この季節になるとちょっと寒いかな」
 秋の海風に身を震わせたかなでに、律は自分が着ていた上着を脱ぐと、そっとその華奢な身体に羽織らせてやる。驚いたように目を丸くして振り返ったかなでが、律くんは寒くないの?と尋ねた。
「ああ、大丈夫だ」
 ここを訪れる時、何故か律の心は温もりに満たされている。
 あの時、律を抱き締めたかなでの温もりが、ずっと律の心の中に宿っているせいかもしれなかった。
羽織らされた律の上着を、返そうかどうしようか、かなでは迷っているようだった。上着の肩に視線をやり、律を見上げ、そして周囲に視線を巡らせて。
 それからかなでは、思い切ったように手を伸ばし、掴まえた律の右手を自分の胸にぎゅっと抱き締めた。

 かなでは、昔から律の手が好きだった。
 かなでが憧れるヴァイオリンを弾く手。それと同時に、律の手はかなで自身をずっと護ってくれる手だった。
 道に迷った時には、手を引いてくれて。
 上手にヴァイオリンが弾けたときには、優しく頭を撫でてくれて。
 辛くて泣いてしまう時には、かなでの涙を拭ってくれる、大切で大好きな手だった。

 この手が壊れてしまったことを聞いたあの時、かなでは同時に律の弱さを知った。
 いつもかなでを導いてくれたはずの律も躓くことがあるのだと教えられた。
 だから、今度はかなでが律を守ろうと思った。
 律が迷うなら、今度はかなでが律の手を引こう。律が頑張ったならその頭を撫でて、泣きたい時があったら、かなでが律の涙を拭おう。
 あの時この海で、そんなふうにかなでは誓った。

「……かなで」
 夕焼けの色に頬を染めて、律が何故か困ったようにかなでの名前を呼ぶ。胸元に律の手を抱き締めたまま、上目遣いに律を見つめると、律は困惑の表情のまま小さな咳ばらいをした。
「その……そろそろ離してくれ。触れてしまうんだ、……いろいろと」
 何の事だろうと一瞬かなでは首を傾げる。
 答えはすぐに分かった。ぎこちなく動いた律の指先が、あろうことか自分の胸のふくらみに触れることに気が付いたからだ。
「ご! ごごご、ごめんね!」
 真っ赤になったかなでが、慌てて律の手を放り投げるようにして解放する。
 動きを確かめるように軽く指先を動かした律は、呆れたように息をついて微笑んだ。
「あの……深く考えてたわけじゃなかったの。ただ、律くんの手が寒くないかなって思って、暖めようとしただけで……」
「ああ、分かっている」
 首肯した律は、それでも「ただし、絶対に他の男にはやるな」ときちんと釘を刺した。

 まだ痛むはずの右手を、律はかなでに差しのべた。
 恐る恐るかなでがその手を取ると、ぎゅっと繋いで、ゆっくりと律が波打ち際を歩き始める。
 さく、さくと二人分の砂を踏むかすかな足音の合間に、律がぽつりと呟いた。
「……かなで。俺は、病院が嫌いだ」
 先を行く律の表情は窺い知れない。かなではただ、律が痛くないようにと気を使いながら、ぎゅっと彼の手を握り返す手に力を込める。
「……うん」
 これ以上治療を続けても、もう元のようには戻らない。だが痛みがあるうちは、病院に通わざるを得ない。律は病院を訪れるたびに、何度でも自分の置かれている現状を突き付けられる。
「だが、この先も病院に来るたびに、こうしてお前と同じ景色を見ることは、実は俺にとって幸福な事なんじゃないかと思っている……」
 季節の移ろいを映しながら、この海はいつでも変わらずにここに在る。
 色合いは季節ごとに違っていても、この風景そのものは変化することはないから、律も繰り返しあの時の絶望と幸福を噛み締める。

 ……そうして、かなでと律は二人でずっと同じ風景を見ている。
 今までも、この先も。

 その幸福をもまた、律は繰り返し実感することになるのだ。

「お前には心配をかけてしまうが、また時間が合えば、こんなふうに俺の通院に付き合ってもらえるだろうか」
「……うん、もちろんだよ」
 律の要求に、かなではしっかりと頷く。
 強い意志を持って、真っ直ぐに律を見つめ返す眼差しが、とても愛おしかった。



 あの日知った優しい温もりを。
 この先も同じ景色の中で、二人は互いに与え合う。

 それは、強く繋いだ指先と。
 深く重ね合った唇と。

 今、触れ合うことのできる。
 自分たちの存在の全てで。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.10.25 加筆修正:2016.7.9】

ネタバレに全く考慮しなかったなと書き上がった後に思ったんですが……。まあ、大丈夫だろうと。(根拠のない自信)
甘さと縁のないように思える律ですが、書き上がってみれば全部甘い系の創作になったとか言う。多分これはアナザスカイの特典CDの律に原因があるのではないかと。びっくりしたよ、アレ(笑)

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