その沈黙が満たすもの

律×かなで

(あ、もうこんな時間だ)
 曲想を練るために追い続けていた楽譜上のおたまじゃくしの行動が読みづらく感じ、ふと壁に掛けられた時計の文字盤を見上げたかなでは、一人納得する。
 時計の針が指し示しているのは、既に夕暮れの時刻。明かりが灯っていない室内には、いつの間にか静かに夜の気配が忍び寄っていた。
 座り込んでいた床から立ち上がり、かなではドアの横にある照明のスイッチを入れる。小さく瞬いて、室内が一瞬にして明るく彩られるが、おそらくこの部屋の主は部屋の明度の変化に気付いていないだろう。
(律くん、手元見づらくなかったのかな?)
 心配になったかなでだが、よく考えればかなで自身、この部屋が薄暗いと気付いたのはたった今だ。ことヴァイオリンに関してはかなで以上の集中力を発揮する彼が、かなでが気付かないことに気付くはずがなかった。
 かなでは邪魔にならぬよう、足音を立てないように気遣いながら、そうっと机に向かう彼の背後に近づき、その手元周辺を覗き込む。相変わらず、熱心に自作のヴァイオリンの調整に取り組んでいる律の傍には、三時間前にかなでが淹れた紅茶のカップが、手つかずの状態で置かれたままだった。

(よかったら、このヴァイオリンを弾いてみて欲しい)
 律が初めて自分の手で作り上げたヴァイオリン。その音を確かめて欲しいと律に誘われ、男子棟にある律の部屋を、人目を忍んでこっそり訪れたのは、午前中のこと。
 かなでがいくつか基礎音を鳴らしてみたところ、律が想像していた音とは違っていたものが混ざっていたらしく、硬い表情で律は「調整してみよう」とかなでの手からヴァイオリンを取り上げ、ヴァイオリン制作に必要な資材が並んだ雑多な自分の机に向かった。
 時折自分で音を確認しながら調整を試みていたが、なかなか納得のいく音にならないらしく、かなでがいることも忘れて作業に没頭すること数時間。
 途中、休憩を入れた方がいいんじゃないかと、かなでは共同キッチンで紅茶を淹れてきて、声をかけつつ律の視界に入る位置に律専用のマグカップを置いてみたけれど、もしかしたら律はかなでがここにカップを置いたことすら気が付いていないのかもしれない。
 結果として、オケ部の練習予定もなかった貴重な休日を、急な律の呼び出しにあい、更に放っておかれたまま潰してしまったことになるのだが、かなではそれについては特に気にはならなかった。
 故郷にいた頃から律は自分の世界に埋没することが多く、一緒に過ごしている途中でうっかりヴァイオリンを手に取ってしまうと、かなでそっちのけで練習に夢中になることは当たり前で、かなでも律のそういう行動パターンに慣れていたからだ。
 律の部屋は音楽関連の書物に溢れていて、かなでの興味を引くものも多いので、それらに目を通していればかなでは退屈はしない。
 ……かなでの親友の支倉仁亜辺りが聞けば、「甲斐性なしにもほどがある恋人だな」と呆れられそうではあるが。
(でも、律くんが楽しく過ごせるのが一番だし)
 もちろん、放っておかれる寂しさは少しくらいあるが、律がかなでのためにやりたいことを我慢したり、無理をしたりすることの方が、かなでにはずっと辛い。
 ……律が自分のペースを崩してまで、他人との付き合いを優先することがあるのかと問われると答えに困るが、少なくとも今更それくらいのことで、かなでの律への想いが変わることはないのは事実だった。

「ねえ、律くん。私、もう部屋に戻るね」
 聞こえているのかどうかは分からないが、黙って戻るのも悪いと思い、かなでは律の背中に声をかけた。ぴくりと肩を震わせ、緩慢な動きで律が身を起こす。自分の周囲が照明で明るいことに気付いたのか、先程のかなでと同じように律は壁の時計の針の位置を確認し、かなでの方を振り返った。
「……ああ、すまない。もうこんな時間になっていたんだな」
「どう? 調整、上手くいきそう?」
「ああ。ちょっとした弦の角度や板の厚さの問題だとは思うんだが、まだ『どこ』という確証が持てないから、もうしばらく時間はかかりそうだ」
 マニュアル通りにきちんと出来ているものを、自分の理想に合わせて更に調整していくことは難しい。それなりの経験と実績を持っていればまた違うのだろうが、ヴァイオリンとの付き合いは長いとはいえ、職人としての律はまだまだ素人なのだから。
「じゃあ、律くんがまたいいと思える時に声をかけてね。いつでも手伝うから」
 じゃあねと笑ったかなでに、律は困惑する。
「……部屋に戻るのか?」
「うん。……時間も時間だし」
 そもそも戻ると言って声をかけたはずだが、律はそのことに気付いていない。やっぱり律くんだなあとかなでは苦笑した。それから別のことを思い出し、かなでは律の机に歩み寄って手付かずのままのマグカップを手に取った。
「もう冷えちゃってるし、これも片づけるね」
 そう言われて、律は作業途中のどこかで、かなでに「一息つきたくなったら、これでも飲んでゆっくりしてね」と声をかけられたことを思い出す。「ああ」と生返事をしたものの、これまた作業に夢中になるうちに、いつの間にかすっかり頭から消え去っていた。
 律はかなでの手からマグカップを取り上げる。驚いたように律を見上げるかなでの視線を受けながら、冷えた紅茶を飲み干した。
 かなでの紅茶は、熱くもないしアイスティーと呼べるほど冷え切ってもいない。だが律のことを思って丁寧に淹れられたそれは、ちゃんと美味しかった。
 それでも、このタイミングで飲んで欲しいと思ってかなでが淹れてくれた紅茶を、きちんと彼女の望むタイミングで飲んでやれなかったことが申し訳なく思われた。
「……美味しかった、ありがとう。それと……俺から呼び出したのに、放っておいてしまって、すまなかった」
 律から返された空のマグカップを受け取り、かなではにっこりと嬉しそうに笑う。
 確かに律はマイペースで、あまりかなでの『オンナゴコロ』というやつを理解してくれなくて……仁亜が呆れるように、彼氏という立場での甲斐性は、全く期待できない人かもしれない。
 それでもこんなふうに、律はかなでが嬉しいと思う、大切な言葉をちゃんと伝えてくれる。
 マイペースなのも、少し鈍いのも、律らしいと言って笑い飛ばせるくらい、かなではそんな律のことが昔から大好きなのだ。


 幼い頃から律と一緒に過ごす時は、必ずそこに沈黙があった。
 元々、律は饒舌な方ではなく、音楽の事以外ではどちらかと言えば寡黙な性質だった。
 いつもかなでが勝手に喋り、かなでの話題が尽きればそこにはただ、沈黙だけが残される。だが、その沈黙は決してかなでにとって嫌なものではなかった。
 自分から話すことはなくても、かなでの話を真摯に律が聞いてくれる。律の存在がいつも自分の傍にある。ただそれだけで、かなではいつも安心できたのだ。
 だからこそ。
「あのね、律くん。……律くんが、私が傍にいることを邪魔だって思わないで好きなことしてくれるの、私は嬉しいよ」
 放っておかれたなんて、思ったことはない。
 律は自分が没頭する世界の片隅に、かなでの存在があることをちゃんと許してくれているのだから。
 もちろん律とゆっくり話したいとか、時々は自分の方を見てて欲しいとか。彼のことを好きだからこそ、そういう我儘も少しは心のどこかをかすめていくけれど。
 それでも、自分という存在が律の世界の一部に溶け込む、その幸福を思えば、その寂しさは取るに足らない、些細な事だった。

 そう言ったかなでが、本当に嬉しそうに笑うから。
 律も何だか、幸せな気持ちになる。

 今ではもう遠くなってしまった、幼かった頃のこと。
 律の世界の中には、いつも当たり前のようにかなでがいた。
 律が自分の世界に没頭して周りのことがおろそかになることに、実弟の響也ですら呆れ果てていたのに、かなでだけはそんな律のことを許してくれていた。
 自分ではない人と関わるとき、時折そこに現れる沈黙が律は苦手だった。
 正確に言えば、現れた沈黙を打開することを、相手が無意識に自分に対して強要することを苦手に感じていた。
 喧騒も沈黙も、そこに在っていいと律は思う。
 無理に取り除こうとしたり、埋めてしまわなくても。そのコントラストがあるからこそ、音楽というものは活きる。そんなふうに律は思っていた。
 それなのに、誰かが発した言葉に対し、何かを返すことを要求される。何を言えば正解になるのか掴めないまま、とりあえず脳裏に浮かんだ言葉を発してみると、それはいつも微妙に相手が望む位置から外れてしまっているようで、必ず相手を落胆させた。
 そんな中、かなでだけはいつも律が沈黙したままであることを気にしなかった。かなでが言いたいことを律に伝え、律がそれに対して上手に返事をしてやれなくても、伝えたことに満足したかなでは、その後は気にしていないようだった。そんな彼女の反応は、律の気持ちを楽にした。
 諦めているのでも呆れているのでもなく、かなでは律がそういう人間だと理解した上で律のことを許してくれていた。
 そのことがどれだけ嬉しくて、幼い律のことを救ってくれていたのか、かなではきっと知らない。

 ……そう、思い返してみれば、律にとってかなではずっと変わらず、いつもそんな存在だった。

 隣にいることが苦にならなくて。
 嬉しくて、幸せで。
 可愛らしくて、誰よりも愛おしい。
 いつだって律の心を満たしてくれる、そんな大切な存在だった。

「……律くん?」
 今日という一日、ずっと二人の間を満たし続けた沈黙。
 今、再び目の前に満ちたそれが、先ほどまでと種類の違うものだとかなでが気が付いたのは、瞬きする程度の時間を要してから。

 唇を塞がれてしまうともう何も話せないから。
 そこにはただ、沈黙が満ちる。


「……もう少しだけ、ここにいてくれないか」
 菩提樹寮の食堂に夕飯のために寮生が集まってくるまでには、もう少しだけ猶予がある。せめて、その少しの猶予の間だけでも、かなでに向き合う時間を作りたい。
 そう願い、律が至近距離からかなでの目を覗き込むと、頬を真っ赤に染めて、じいっと律を見つめ返すかなでが、小さく頷いた。
 ほう、と安堵の息をつき、柔らかく笑んだ律が、もう一度かなでに口付ける。


 いつも、律と過ごす時に二人の間に満ちていく沈黙。
 その沈黙には、さまざまな種類があって。

 ただ、心地良く、優しいだけではなくて。
 こんなふうに、ただひたすらに甘いだけの沈黙もあるのだということを。

 かなではその日、生まれて初めて律に教えてもらったのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.10.25 加筆修正:2016.7.9】

書いていて思ったのは、律には躊躇いというものが欠如しているので、やるときはやるんだなあって……(笑)沈黙が満たすもの……とするとまた違う気もするんですが、まあこれはこれでいいかな、なんて。
ニア曰くの熟年夫婦感が出せてればいいかなと思ってます。律書くのは楽しいですね。3キャラでは書きやすいタイプ。

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