オーケストラ部が主に使用する、講堂や音楽室の施錠は当番制だが、今週その担当になっているのは1年の水嶋悠人だった。
規則に従い、正面玄関の閉まる30分前に戸締りを確認しに音楽室に来た水嶋は、そこからヴァイオリンの音色が響いてくるのに気が付いた。
楽譜や譜面台を片付ける時間を考えると、そろそろ練習を切り上げなければ、正門が施錠される時刻に校外へ出ることが出来なくなる。練習に夢中になると時間の感覚が朧げになるのは分からなくはないので、注意を促すために水嶋は音楽室の中に踏み込んだ。
中にいたのはつい最近この星奏学院に編入し、そして紆余曲折の末、水嶋が所属するアンサンブルの一員になった小日向かなでだった。
「小日向先輩?」
水嶋の呼びかけに演奏を止め、きょとんとした表情で小日向が振り返る。「ハルくん」とその唇が小さな声を発した。
「あれ? どうかしたの?」
「それは僕の台詞です。もういい加減に帰る準備始めなければ、締め出されてしまいますよ」
「え?」
水嶋の言葉に一つ瞬きをし、小日向は音楽室の柱に掲げてある時計の文字盤に視線を上げる。長針と短針がそれぞれ指し示す位置に、目を丸くした。
「うわ、ホントだ。もうこんな時間なんだね」
「もしよろしければ、これから僕は部室の施錠に向かいますので、使用された譜面台と楽譜を返却しておきますが。そうすれば、先輩がヴァイオリンを片付ける時間は充分にあるでしょう?」
オケ部の所属期間は数か月水嶋の方が長いが、年功序列で考えれば水嶋は後輩であり、何より片付ける場所へ出向く理由もあるのだから、効率を考えても片付け作業に手を割き、楽譜と譜面台を水嶋が引き受けるのが筋だと思える。
仮に小日向が悪いからと固辞するようならば、そうしなければ施錠担当の自分が帰れないのだと論破する道筋を脳内で組み立てる水嶋に、小日向が返したのは水嶋が予想もしていなかった言葉だった。
「でも、今せっかく何か掴みかけて来たから。私、最終下校ギリギリまで練習していくよ」
と、小日向は屈託なく水嶋に笑いかける。
……水嶋が準備していた言葉を発するきっかけが、少しも掴めなかった。
「貴方に帰っていただかないと、当番の僕がここや部室を施錠することが出来ないんですが」
ようやくそれだけの言葉を告げると、またもや小日向は大きな瞳を邪気なく瞬かせた。
「あ、そうなんだ?そっか、施錠係って持ち回りだったっけ。じゃあ、最後は私が鍵かけておくよ。鍵は最後に音楽準備室の先生に戻せばよかったよね?」
はい、と鍵を受け取るための手を差し出されて、水嶋はその場に膝を付きそうなほどに脱力する。
この学院が最終下校時刻を通常とは少し早目の時間に設定しているのは、学内の防犯のみが目的ではない。学院の広大な敷地は住宅街から少し離れた坂の上にあり、また辺りは豊富な緑に囲まれて、穏やかで心地いい空間が作られている。それは音楽を学ぶために必要だと考えられる環境が整備されているためであるのだが、その反面、人の目の行き届かない場所だということでもある。
学校案内のパンフレットには詳細を記されてはいないが、それなりに部活動の盛んな学校であるにも関わらず、最終下校の時間が妙に早く設定されているのは、そういうことが理由なのではないかと水嶋は考えている。
……要するに、女生徒の一人下校は、それなりに身の危険が付きまとうのである。
それが分かっているのに、このままはいそうですかと鍵を預け、小日向一人を残して下校できるほど、水嶋の情は浅くはなかった。
「……どのくらい、練習をするつもりなんですか?」
「えっと……そうだね、鍵かけて最終下校の鐘が鳴るまでに校舎を出るとしたら……あと20分くらいかな?」
部室と隣接している用具室までは歩いて5分くらい。最悪楽譜は持ち帰ることにして(もう校内にはほとんど部員がいないので、持ち帰っても明日きちんと書棚に戻しておけば気付く者はいない)、ヴァイオリンのメンテナンスなどは寮に戻ってからやるとすれば、確かにヴァイオリンを片付け、譜面台を用具室に戻して各所の施錠を済ませ、校門を出るのに残り10分あれば何とかなるだろう。
はあ、と深く溜息を付き、水嶋はすぐ側にあるグランドピアノに歩み寄り、その蓋を開け、軽く鍵盤を押さえてみる。
「……ハルくん?」
不思議そうな顔で自分を見ている小日向から視線を反らしたまま、水嶋は淡々と言った。
「何かを掴みかけているんでしょう? でしたら、実際のアンサンブルと同様に別の音を重ねてみたらそれが分かるかもしれません。本来ならチェロで合わせるべきですし、あまりピアノは上手くはないのですが、僕はもう自分のチェロを片付けてしまいましたので」
暗に練習に付き合うということを告げると、小日向は嬉しそうに破顔し、「うん」と頷いた。
(……そういえば、小日向先輩のヴァイオリンを単独で聴くのは初めてかもしれないな……)
本来の自分の楽器ではないピアノの音を、それでも可も不可もなく繋げながら、水嶋はふとそんなことを思う。
コンクール参加者を決める学内選抜の試験に水嶋は立ち合っていないので、小日向の音色を聴いたのは、水嶋と部長の如月律が組んだアンサンブルと対峙する形で演奏された、既に完成されたアンサンブルとしての音色だった。
ちょうど、今の自分の奏でるピアノのように、可も不可もなく、自己主張をしない真面目なヴァイオリンだと思った。幼い頃からヴァイオリンを弾いていて、しかも水嶋が憧れるあの如月部長と同じ環境でヴァイオリンを学んできただけあって、確かに技術面ではそれなりのものがある。だが、コンクールを勝ち抜くための演奏としては、今一つ物足りない……それが、同じアンサンブルで音を重ねるようになって抱いた、水嶋の小日向かなでというヴァイオリニストが奏でる音への印象だ。
もちろんそれでは足りないということは、水嶋が分かっているのだから、当然アンサンブルをまとめる部長の如月も理解している。だからこそ、アンサンブル練習の時には部長からの容赦ない叱責が彼女には与えられる。
如月の言うことはもっともだと水嶋も納得しているが、その反面、彼が要求することはいささか難易度が高すぎるのではないかと思うこともある。
その証拠に、水嶋と同期の新入部員は既に三分の一程度が退部してしまっているが、彼らの退部の理由が、練習の厳しさにあったのだということを水嶋は知っている。勿論、全国大会を勝ち抜くためにはその厳しさが必要だということは重々承知しているが。
だが意外にも、小日向は如月の厳しさについては不平不満を述べることはない。どちらかといえば部長の実弟である如月響也の方が余程愚痴を吐いているが、それでも二人とも耐えかねて練習を投げ出すということはなかった。
「律くんって、昔から変わらないよね」
「実の弟や幼馴染みに対しても容赦ねえよな」
そうあっさりと言ってしまえる辺り、二人にとっては如月の厳しさはむしろ当たり前のものなのかもしれなかった。
(……?)
小日向のヴァイオリンにつかず離れずの位置からピアノの音を重ねて。
そして水嶋は、彼女の音がいつもアンサンブルの練習で奏でるものとは少し違うことに気付く。
アンサンブルで演奏する時には、どちらかと言えば小さく小さく、綺麗にまとまろうとして萎縮する小日向のヴァイオリンは。
緩やかに。
穏やかに。
……それでも、圧倒的な熱量を持って。
いつしか、水嶋の拙いピアノの音色を呑み込んでいく。
(ああ、そうか)
(部長が言っていたのは、もしかしたらこういうことだったのかもしれない)
弾けていないわけじゃない。
どちらかと言えば、他のオケ部のメンバーに比べれば、技術面では小日向は響也と共に頭一つ抜きん出ていたといえる。
それでも如月部長は、決して小日向の音をそれで良しとはしなかった。
まだ上があるはずだ、これが限界じゃないはずだと彼女のことを厳しく鼓舞して、彼女が奏でる音色のその更に奥に、別の音色を見つけようとしていた。
(貴方は……本当はこんなふうに弾きたかったんですか?)
ふわふわと、のんびりとしていて。
いまいち掴みどころのなかった小日向かなでという女性の心に、音を重ねることでほんの少しだけ水嶋は近付く。
他のアンサンブルメンバーの音に遠慮して、萎縮して。
彼女が無意識のうちに隠してしまっていた本当の音を、水嶋はその時初めて覗いたような気がした。
「……うん!」
ひとしきり弾き終えて、小日向は満足したように弦から弓を上げ、大きく頷いた。
「何か、掴んだ。……かも?」
ぐ、と小さな拳を握りしめ、小日向は水嶋を振り返る。
「ありがとう、ハルくん。私一人で練習してたら、まだ分かんないまんまだったと思う」
「……いえ」
お役に立てたのなら、何よりです。
当たり障りなく、そう答えた水嶋の視線の先で。
小日向は、ただ嬉しそうに輝くような笑顔を見せた。
……重ねた音が、チェロではなくてよかったと水嶋は思った。
本来の水嶋の音色だったならば、小日向はまた無意識のうちに自分の感情を押し殺して、合格ラインぎりぎりの、味気ない優等生の音を奏でていたかもしれない。
また、逆に小日向一人で演奏をしていたら、それはそれで内にこもったままの小ぢんまりとした演奏で終わっていたのだろう。
水嶋のピアノが伴奏に徹していたからこそ、小日向は自分の解釈を前面に押し出さざるをえなくなり。
そうして、あの瞬間。
『あの』音色を生み出したのだ。
「付き合わせちゃって、ごめんね。ハルくん」
正門を施錠する担当教師に渋い顔をされながら、水嶋と小日向は何とか時間内に校内を脱出することに成功する。
全く悪びれない態度で、小日向は片手を挙げて拝む形で、水嶋に詫びた。
いえ、と短く応じる水嶋は、真っ直ぐに前方を向いて歩く、あまり身長差のない小日向の横顔をそっと盗み見る。
ふわふわと甘い砂糖菓子みたいな、可愛らしくどこか頼りない少女。
だが、真正面から音と音を重ね合わせてみれば、意外な芯の強さが垣間見える。
そうして偶然二人で作り上げたあの瞬間の音楽が。
……何故かとても水嶋の心に響くので。
出来ることならもう一度、あの時のように。
……今度は、自分のチェロの音色を重ねることで。
彼女の心に近付いて、その深淵を覗き込んでみたいと。
ふと、水嶋は思うのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:2015.9.20 加筆修正:2018.8.18】
ハルがピアノが弾けるかどうかは分かりませんが、音楽科には多分副科があるはずなので、上手くはなくても多少は出来るんじゃないかと。つまりはねつ造です(笑)
最初は普通にチェロで合わせるつもりだったんですけど、ここでわざわざチェロを引っ張り出して演奏となると逆に時間を取られてかなでの邪魔になるんじゃないかと……ええまあ、話の都合上(笑)
うちのかなでちゃんに「自分のことは基本おざなり」という裏設定がありまして、話の序盤での、特に演奏面では自己主張をしない子になってますので、こんなお話。


