君の笑顔が守れるのなら…

八木沢×かなで

 自分の演奏が、思ったよりもあまり上手くいっていないことにかなでは気が付いていた。
 弓の運びはスムーズだ。旋律を途切らせることもない。暗譜も出来ているし、出来上がりとしては、どちらかと言えば上々だろう。
 だが、その演奏に上手く感情が乗せられない。
 もっと楽しい気持ちでヴァイオリンは奏でられるべきはずなのに、どうしても気持ちが沈む。
 それはおそらく、ここ一週間ほど遠く仙台に離れて暮らす、恋人の八木沢雪広と連絡を取っていないからだ。
 別に喧嘩をしたわけじゃない。メールも電話も、好きな時にして来ていいとのお墨付きも貰っている。だが、八木沢からの連絡は、元々かなでよりも少なめだった。
 八木沢は受験生であるのに加え、実家が老舗の和菓子屋のため、よく手伝いに駆り出されるという。要するに、かなでが想像するよりもずっと多忙であるはずなのだ。そのため、かなでは彼からの連絡をあまり期待しないようにしていた。
 そんな状況の中でも、八木沢は時間があればきちんと連絡をくれていた。それで充分だとかなでは思う。そんな彼に合わせて、こちらから連絡をする時も、まずメールを送って、その返信を待ち八木沢の状況を伺って……電話の応対が出来るようなら、電話をする。無理そうなら用件はメールで済ませる。そんなふうに段取りを取っていたけれど、それもまた本当は八木沢の負担になるのかもしれないと思うと、頻繁には出来なくなった。
 受験勉強も家のお仕事の手伝いもある、そんな八木沢の邪魔をしてはいけないから。
 自分にそう言い聞かせて連絡を控えるようになったが、もしかしたらメールの送信が減ったことを心配した八木沢の方から連絡をくれるんじゃないかと、ほんの少しだけ期待をしてみたりして過ごすこと一週間。
 八木沢からの連絡はまだ来ない。
 そしてかなでも、今更何事もなかったかのように連絡することは出来なくなっていた。
 向こうからの連絡がないということは、きっと、まだ忙しいんだろうから……そんなふうに良いように解釈をしてみながら、心のどこかでは不安になる。
 遠距離恋愛の終わりというものは、もしかしたらこんなふうに、緩やかにやって来るんじゃないかって。


「小日向?……練習には行かないのか?」
 休日の菩提樹寮。こんこんと形ばかりのノックをして、こちらの返事も聞かずに自由すぎる隣人の支倉仁亜は、容赦なくかなでの部屋のドアを開く。
 朝の身支度を整えて、ヴァイオリンの準備をして。それでも何となく出かける気持ちにはなれないかなでは、ベッドの側面に背を預けて、床のラグマットの上に直に座り込んでいた。
 今日も、八木沢からの着信はない。それでも窓の外は綺麗な秋晴れのお出かけ日和。これ以上にない晴天に、余計に気持ちが落ち込んでしまう。
「……もう少ししたら行こうとは思ってるけど」
「やれやれ、まだ落ち込んでいるのか? そんなに悶々とするくらいなら、さっさと至誠館の部長にメールなりなんなり、連絡すればいいものを」
 ここしばらくのかなでの気落ちっぷりを知っている仁亜は、呆れたように溜息をつく。それが出来れば、こんなに苦労しないもん、とかなでが唇を尖らせた。
「……まあいい。そんなことより小日向。君に客人だ」
「え?」
 休日の菩提樹寮にクラスメイトやオケ部の友人が遊びに来ることはある。だが、今日は誰とも約束をしていないし、不意に思いついて遊びに来るのなら、事前に連絡があるはずだ。アポイントメントもなしにやってくるのはいったい誰だろうと、かなでが訝しんでいると、
「君が出かける気がないのなら、客人の相手をするのにちょうどいいんじゃないか? 私は私用もあることだし、外すとしよう。二人でゆっくりするといい」
 そう仁亜が言い置いて、猫のように音もなく、ドアの向こうへとするりと消えていく。
 代わりに、仁亜に促され恐る恐るかなでの部屋へ足を踏み入れたのは……
「……八木沢さん?」
「突然、すみません。ちょうどこちらの方に来る用事があって、せめて顔だけでも見れればと思って菩提樹寮をお訪ねしたのですが」
 まさか、あなたの部屋に直接通されるとは思いませんでした。
 そう恐縮したような小さな声で呟いて、八木沢雪広はその頬を赤く染めた。


「しばらく連絡が途絶えてしまって、申し訳ありませんでした」
 仁亜にはゆっくりしろと言われたものの、かなでの自室に二人きりというのはお互いにどうにも気が落ち着かず、かなでと八木沢は菩提樹寮を離れ、夏の間に二人でよく練習をした公園まで出かけることにした。
 そこに辿り着くまでの道々で、八木沢はこの一週間の出来事を教えてくれた。
「元々、こちらの大学で開かれるオープンキャンパスに参加するつもりで、準備をしていたんです。あなたにも連絡をしなければと思っていたんですが、どうせなら突然逢いに来て、あなたを驚かせてみたいと、つい思ってしまったもので」
 せっかくのサプライズを計画しても、うっかり電話やメールで連絡を取ってしまえば、どこかでボロが出そうな気がして、連絡そのものが出来なくなったのだと、申し訳なさそうに八木沢は言った。
「……オープンキャンパス、ですか?」
「ええ。……実は、横浜の大学を受けてみようと思っていて」
 かなでは驚いて目を見開く。……夏にここに滞在していたころは、そんな素振りはなかったはずだ。将来は、実家の和菓子屋を継ぐことになる。それを見据えた上で、進路先を選ぶ……そう言っていたことを覚えている。だからこそ、八木沢は地元で進学するのだろうと思い、そのことを疑っていなかった。
 物言いたげなかなでの視線を受けて、八木沢は少しだけ困ったような表情で笑う。
「そうですね。おそらくは、あなたの予想通りです。……あなたがここにいるから、こちらへの進学を考えてみようと思いました」
「それは……」
「ああ、勘違いしないで下さいね。確かにあなたがいるから、神奈川の大学の選択肢を増やしたのは本当です。ですが、そもそも僕の進路というものは、別に地元にこだわらなくていいんですよ。日本全国どこででも、僕が家を継ぐために必要な勉強はできますから。その無数にある選択肢の中で、どうせ選ぶのならあなたがいらっしゃる場所に近いところがいい……ただ、それだけのことです」
 いつもと変わらない、穏やかな優しい笑みで、噛んで含めるように八木沢は言う。あまりにもきっぱりと躊躇わずに言われてしまい、続く言葉をなくしてしまったかなでの両手を取って、八木沢は少し表情を陰らせた。
「実は……支倉さんからもご連絡をいただいていたんです。僕がなかなか連絡をしないせいで、かなでさんがとても落ち込んでいると」
「え。……ええっ!」
 いつの間に!という思いと、余計な事を!という思いとが、同時に頭の中に浮かんでくる。
 それでも仁亜に対して、八木沢からの連絡が来ないことで練習に身が入らないと延々愚痴ってしまったのは自分だから、彼女のことばかりを責められない。
「今回の件はイレギュラーですが、あなたからのメールや電話は僕もいただくのが嬉しくて……つい時間を忘れて話し込んでしまって。あなたがいつも『時間は大丈夫ですか?』と心配して下さるので、僕の方で何か結果が出せるまでは、控えた方がいいのではないかとも思っていました。ですが」
 あなたを淋しがらせるのであれば、意味がありません、と。
 八木沢はかなでの額にそっと自分の額を触れさせる。
「かなでさん」
 視線を上げれば、八木沢の端正な顔がすぐ傍にある。かなでは自分の頬に一気に熱が集まって来るのを感じた。
「……仙台に帰る時、僕があなたに言った言葉を覚えていますか?」
 かなでは小さく頷いた。あんな強烈な言葉は、忘れようにも忘れられない。
 一生大切にすると約束します。……まるで、プロポーズのような言葉だと思った。
「僕の気持ちは、あの時のままです。……もし僕が傍にいることで、あなたが笑っていて下さるのなら……あなたの笑顔が守れるのなら。僕は来年の春、必ずあなたの傍に戻ってきます」

 だから、もう少しだけ。
 離れ離れであることを、許してください。

「……そんなの、別に八木沢さんが悪いんじゃないのに」
 お互いに、離れた場所で暮らすことなど分かりきって始めた恋だ。相手の日常を尊重しようと思えば、他愛ない連絡すらもままならなくなる。そんなこと、少し考えれば予測が付いたはずなのに、思い通りにならなくて勝手に拗ねているのは、単なるかなでの我儘だ。
「それをあなたの我儘だと思わせてしまう程度には、僕もあなたに甘えてしまっていたということですよ」
「でも……」
「……もうこの辺りで、お互いさまということで手を打ちませんか。このままではキリがありませんし、僕はあなたにあなた自身を責めさせるために逢いに来たわけじゃない」
 身を起こして、八木沢はにっこりと笑う。

「かなでさん、今日これからお時間があるのなら、僕と一緒に出掛けませんか?」

 逢えない時間が積み重なった分。
 ……来年の春まで、また逢えない時間が重なる分。
 少しでも、かなでの笑顔が続くよう。
 二人だけの想い出を、その心の中に増やせるように。

「……はい、喜んで!」

 満面の笑みで、かなでが答える。
 その曇りのない笑顔に、八木沢も穏やかに微笑んだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.11.24 加筆修正:2018.10.3】

そういえば拙宅では付き合い始めてからは「ユキ先輩」呼びさせたっけ……と後から思い出しましたが、マイナーな呼び方だと思うんで、普通に「八木沢さん」と呼ばせてます(笑)
友人知人にしても、一旦連絡しなくなってしまうとどういうタイミングで次の連絡したらいいのか分からなくなりますよね(笑)そんなことを考えながら書いてました。

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