僕が君にできること

火積×かなで

 長いような短いような、充実した夏休みが終わりに近づき、明日はもう火積が仙台へと帰郷する日だ。
 かなでも火積も、お互いが生まれて初めての『恋人』だ。しかも初っ端から遠距離恋愛と、ハードルも高い。そのため周囲(主に至誠館の吹奏楽部員)が「離れ離れになる前に二人きりの時間を作るように」と、気を使ってくれたため、特に予定があったわけでもないのに、二人は朝早くから菩提樹寮を追い出された。
 最後の日だからと特別変わったことをするわけではなく、火積とかなではいつものように近くの公園へと出かけ、トランペットとヴァイオリンの二重奏を奏で、お昼には木陰でかなでお手製のお弁当を食べて、公園に住み着いている猫の家族と戯れて……そんなふうに、これといった劇的な出来事もなく、二人で過ごす最後の休日はいつも通りあっという間に過ぎて行った。
 それでも慣れ親しんだ菩提樹寮へ続く夕暮れの帰り道を、普段よりゆっくりとした歩調で、少しだけ遠回りをして帰るのは、おそらくは二人の脳裏にもう間近に迫っている別れの瞬間がチラついているからで。
 ずっとこのまま、穏やかな二人の時間が続けばいいのにな、とかなでは願う。
 もちろんそれが叶わぬ希望であることも、ちゃんと分かってはいるけれど。

「……向? ……小日向!」
「……えっ」
 急に強い力で後方に腕を引っ張られ、かなでがはっと我に返った。
 そんなかなでの目と鼻の先を、クラクションを鳴らしながら大型バスの車体が横切っていく。火積が咄嗟に腕を引いてくれなければ、轢かれているところだった。
「あ、ご、ごめんね、火積くん。ありがとう」
「……本当に、危なっかしいな。あんた」
 斜めに後方を振り返り、かなでがお礼を言うと、険しい表情のまましみじみと呟いた火積は、かなでの腕を掴んでいた手を放す。
 『危なっかしい』って、今年の夏何回火積くんに言われたかなあ。
 耳慣れたフレーズに、かなではふとそんなことを考える。
 練習に夢中になり過ぎて熱中症になりかけたり、花火大会で皆とはぐれて、強引なナンパにそのまま連れて行かれそうになったり。
 そんなふうにいつもかなでが困っている時に火積は現れて、かなでのことを助けてくれていたような気がする。
「……あのね、火積くん」
 おそらく、かなでの歩調に合わせてくれているのだろう。仏頂面でゆっくりゆっくり、足元を一歩ずつ確かめるように歩いている火積が、かなでの声に顔を上げた。
「あの、火積くんが仙台に帰っちゃっても、火積くんが心配しなくていいように、私、しっかりするからね。さっきの今で信用ならないだろうけど、でもホントに」
 ぐ、と片手で拳を握って、かなでは背の高い火積を見上げて懸命に笑う。
「だから、火積くんも仙台で頑張ってね。部長になって大変だと思うけど、でも火積くんなら絶対に大丈夫だから」
 明日、皆と一緒に見送る時には、きっとちゃんと伝えられない。
 二人だけの今だから言える、電話やメールではなく、直接顔を見て伝えたかったことを、かなでは火積に告げた。

「…………小日向」
 どちらからともなく、歩く足が止まった。
 そのまま、今伝えられたかなでの言葉を噛みしめるように一瞬目を閉じ、それから考えをまとめるためだろうか、周囲に視線を巡らせていた火積は、長い長い沈黙の後、身を屈めるようにしてかなでの顔を覗き込んだ。
「……あんたのために、俺が何かしてやれることはあるか?」

 告白したその時から、離れ離れになることを知っていた。
 気持ちが届けば、それはそれで彼女に淋しい思いをさせることになる。それが分かっていても、彼女がこの夏惜しみなく火積に与えてくれていた、あの屈託のない笑顔をどうしても失いたくなくて、火積は一世一代の愛の告白というやつを強行した。
 受け入れてくれた彼女も、決して仙台と横浜という遠い距離を考えないことはなかっただろうが、告白したあの日から今まで、彼女がそれを憂いたことはない。
 ……離れるのに。
 簡単には逢えなくなるのに、どうして想いを告げたのか。
 そんなふうに、彼女が火積を責めることはない。

 二人の間の遠い距離が、これからどんなふうに自分たちの関係に影響を及ぼしていくのかは分からない。
 だがきっと、彼女には何か望みがあるはずだ。
 離れるからこそ、彼女が火積に願いたいことが。

「……じゃあ、一つだけ」
 うーんとしばらく首をひねって考え込んだかなでが、晴れやかな顔で火積を見上げて人差し指をぴんと立てる。
 どんな無理難題を言われても、鋭意努力しようと身構える火積に、かなでは思いがけない一言を告げた。

「火積くんは仙台に帰ったら、昔のことは忘れて、至誠館吹奏楽部新部長として、来年の全国音楽アンサンブルコンクールのために、吹奏楽部の皆と楽しく活動すること!」
「……あ?」
 暗がりで暴漢に対峙するために身構えていたら、背後から襲撃されたような気持ちだった。
 訝しげな顔をする火積に、かなでは小さく首を傾げ、「もう大丈夫だろうけど」と前置きをして真意を述べる。
「だって、せっかく八木沢さんが部長にって推薦してくれたんだから。迷惑かけたからとか自分のせいでとか、そういうふうに自分を責めるのをやめて、新部長として、火積くんの思うとおりに頑張ってくれたらいいと思うの。だって今年のコンクール、絶対優勝しなきゃって、火積くんがものすごく責任感じて頑張ってたの知ってるから。至誠館の人たちも皆、ちゃんと分かってくれてると思う。もちろんそういう責任感も大事だと思うけど、火積くんはただトランペットが大好きなだけでしょう? その気持ち、もっと大事にして、楽しくトランペット吹いてて欲しい」
 私が望むのは、それくらい。そう言って、かなでは屈託なく笑う。
 それじゃ、あんたのための願いごとなんかじゃなくて、俺のための願いごとだ。
 そう反論したいのに。
 もし、自分自身に置き換えてみたら。
 そう考えて、火積は言葉を呑む。

 離れ離れで、簡単に顔を見ることすらできない遠い場所で生きるかなでに、もし自分が何かを願うなら。
 何も不安がらず、これまでと同じように幸せに笑っていて欲しいと火積は思う。
 時々は自分のことを思い出して、寂しい気持ちを持っていて欲しいとも、少しだけ思うけれど……それでもかなでには、いつも変わらずに笑っていて欲しい。
 泣いたり、哀しんだりせずに、嬉しく楽しいことだけに目を向けて、明るく日々を過ごしていて欲しい。
 だからかなでが火積に願うことは、きっと火積がかなでに願うことと同じだ。

「……来年」
 ぽつり、と低い声で火積が呟く。
「俺は至誠館吹奏楽部の新部長として、今年以上のアンサンブルを作り上げて、また全国アンサンブルコンクールに挑戦する。そんときゃ、俺達はあんたら星奏にも、絶対に負けねえ」
「そうだね!……もちろん、私たちだって簡単には負けないよ!」
 来年の約束を交わし、お互いに微笑み合う。すると、かなでが意外なことを火積に言った。
「じゃあ、今度は火積くんの番。……私が、火積くんのためにできること。何か、ない?」
「……俺が、あんたに?」
「だって、火積くんは私の願いを叶えてくれるんだもん。私も火積くんのために出来ること何か一つ叶えないと、フェアじゃないでしょう?」
 かなでが願ってくれるのは火積のための願いだ。
 同じように、火積が願うものはかなでのためのものでしかない。そう言い返そうとして……ふと、火積の脳裏を過ぎったことは。
「……小日向。あんたは俺のことを気遣っていろいろ考えてくれたってのに、俺の方からの願い事がこんなに不躾で、あんたにゃ悪いとは思うんだが」
 ぼそぼそ、耳まで真っ赤に染めた火積が、回りくどく願望を切り出す。
 いくつも頭に浮かんでくる選択肢の中で、ギリギリ自分でも何とかなりそうなものを選んだ。
 側にいる今しか出来ない。……だが、口に出すことが躊躇われる、そんな邪な願い事を。
「うん、……何?」
 小さく首を傾げるかなでが、可愛らしい。
 胸に溢れる愛しさに背中を押されるように、火積はようやく願いごとを口にした。
「その……できればあんたのこと、抱きしめてさせて欲しいんだが……構わねえか?」
「ええ!?」
 それ、私に直接聞くの!? とかなでが脊髄反射的に心の中で突っ込んだ。
 否応なく火積と同じように頬が真っ赤に染まって熱くなるのが分かる。
「ああ、いや。いいんだ。無理強いはしねえ。あんたが嫌なら別に……」
 かなでの反応にあっさりと引き下がろうとした火積のシャツの裾を、慌ててかなでが掴まえる。
「嫌じゃないよ! いきなり言われたから、ただびっくりしただけ! さあ、どうぞ! 遠慮なく抱きしめてください!」
 と、かなでも勢いで随分なことを言った。
 いつでも来いとばかりに目を閉じたかなでが、火積の抱擁を待つ。
 改めて準備されるとそれはそれで躊躇いが生じるが、自分から言い出したことを今更やっぱりやめたと言うわけにもいかず、火積は大きく深呼吸して、それから恐る恐るかなでの小さな背に両腕を回してみる。
 ……知っていたつもりだけれど、火積の腕の中にすっぽりとおさまってしまうほど、かなでは小柄で華奢だった。そこまで進むと自然に、火積はかなでの身体を強く抱き締めることが出来た。
 力を込める両腕の中に、暖かく柔らかな存在があった。
「……来年とは言わねえ。出来るだけ早く、俺はあんたに逢いに来る」
 それは、火積が火積らしく生きることとは別に、火積がかなでのために出来ること。
「電話やメールも……出来るだけ、ちゃんとする。だから」
「……うん」
 火積の腕の中で、かなでは小さく頷く。
「ちゃんと待ってる。……また逢おうね、火積くん」

 腕の中から火積を見上げ、「大好きだよ」とおまけのようにかなでが火積に与えてくれた言葉は。
 真夏の向日葵のように明るい、火積が大好きな笑顔に彩られていた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.11.27 加筆修正:2018.8.19】

火積の一人称に合わせれば「俺があんたにできること」になるんですが……うん、まあ、ピンポイント過ぎてどうかと思いまして(笑)
ちゅーに到らずハグで終わっちゃうのは火積らしいとか思いつつ、火積にしては頑張ってるよね!うん!とか、もうこのカップリング書く時には母親の心意気でございます(笑)

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