他の家族の土産は無難に名の知れたお菓子でも買えばいいかと考えているが、以前もそんな風に家族一緒くたに土産を持ち帰った際「●●に行ったんなら、○○買ってきてくれればいいのに!」と妹に散々叱られてしまったことがある。どうせなら妹が喜んでくれるよう鋭意努力は惜しまないつもりの火積だが、その時指摘された妹希望の土産の名称は、どうしても記憶に留めることが出来なかった。
妹が最も欲しがっているものを希望通りに持ち帰れるかは自信がないが、それでも同じ女性であるかなでが選んでくれるものであれば、そんなに大きな失敗はしないのではないかと思われた。かなではそんな火積の依頼に、「火積くんが選んでくれたものなら、妹さん、何でも嬉しいんじゃないかなあ?」と笑いながらも、二つ返事で一緒に土産物を選ぶことを承諾してくれたのだった。
夏休み中とはいえ平日のため、電車に乗り込んでくる社会人は数多い。暑くなる前にと危惧しての早めの行動は、思い切り通勤ラッシュと重なってしまったようだ。
最近遠い田舎から横浜に出て来たばかりで、更に通学も徒歩圏内であるかなでは、当然のことながら通勤ラッシュにもそこまで縁がない。あまりの人の多さに今日は何かお祭りごとでもあるのだろうかと考えてしまう。
同じく地方在住の火積の方は、ラッシュの経験があるのかどうかよく分からない。いつものように表情の乏しいこわもての顔で、躊躇いなくぎゅうぎゅうの電車内へ踏み込んで行っただけだった。一瞬火積の周りだけ空間が出来たようにも思えたけれど、その隙間を保つことは難しく、すぐに人波のうねりが塞いでしまった。
一人ホームに取り残されるわけにはいかず、慌ててかなでも火積を追って飽和状態の車内に飛び込む。密集した人の壁に反発されてホームに押し戻されそうになったが、咄嗟に傍の金属製のポールを握り締め、両足を踏ん張って何とか踏みとどまることができた。
(火積くんと離れちゃった)
先に踏み込んだ火積は、かなでがいる位置から数メートルほど離れた所に立っている。目が回りそうなくらい人の頭が並んでいて、小柄なかなでは埋もれてしまって身動きが取れず、一方向しか見ることが出来なかった。それでも周囲の人たちより頭一つ分は背が高く、特徴的な赤い髪色をした火積は沢山の人の中に埋もれることがなく、すぐに見つけることが出来た。
(降りるときにはぐれないようにしないと)
あまりの密集度に方向転換もままならない。駅に停まるたび、この多数の人間たちがどういうふうに動くのかかなでには予想もつかなかったけれど、とりあえず翻弄されることは目に見えている。
せめて、火積の姿を見失うことがないよう、かなでは懸命に目を凝らした。
かたん、かたたん、と規則正しいリズムを刻み、電車はかなでたちを目的地へ運ぶ。乗ってすぐは誰もつり革や手すりを持たない状況に、転んだりしないのかと不安になったかなでだったが、その理由はすぐに分かった。ここまで人間が密集していれば、多少の揺れぐらいでは人の塊はびくともしないのだ。
そうして生まれて初めての『通勤ラッシュ』なるものが、物珍しさも手伝って何だか面白くなってきた頃、かなではふとあることに気が付いた。
かなでの制服のスカート。ちょうど太ももの裏側辺りに、先ほどから人の手が触れている。
最初はこれだけ人と人がひしめき合ってるのだからと、特に気にしてはいなかった。蟻の這い出る隙間もないとは正にこのことで、ここまで大勢の人が乗っている電車内で、周囲の人間に全く触れないで立っているというのがまず不可能だ。多少体同士が触れ合うのは仕方がない。
だが、それが偶然触れているのではないと気付いたのは、その見知らぬ誰かの触れる手が間違いなく掌側だったからだ。
偶然触れているだけなら、おそらく手は側面や甲が触れるはずだ。どうしても掌側が当たるとしても、かなでの太ももに自然に掌を触れさせようとすれば、身体が向く方角は自ずと決められてしまう。……少なくとも、かなでが可能な限り周囲を見渡したところでは、自然に掌を触れさせる体勢になっている人物はいない。
そしてその手は明確な意志を持って動いていた。掌ごと触れた指先の表面が、すり、とスカート越しに肌を撫でる。かなでの背中にぞわっと冷たい不快感が走った。
(こ、これって、まさか……)
『痴漢』という単語はテレビやニュースでよく見かける。
だがかなでは生まれてこの方、その本物にお目にかかったことがない。
故郷に住んでいたころに痴漢と呼ばれるものに遭遇する機会はなかったし、横浜に来てからも、登下校は徒歩圏内である上に、たまに電車に乗ることがあってもこんなに人が密集していたことはなく、更に傍には大抵幼馴染みの響也がいてくれた。
(こういう時って、いったいどうしたら……)
痴漢には冤罪も多いと聞く。本当に痴漢なんだろうか、自意識過剰すぎるのではないかと疑念が過るが、それでも触れられることがここまでに不快なら、抗議くらいはしても許されるような気がする。別に駅員に突き出して大事にしたい訳ではないし、願うことはこの不快感から逃げ出したい。ただそれだけだ。
テレビ番組でよく言われていた痴漢を撃退する解決法は、とにかく声を上げること。ただ「止めてください」と一言言えればいい。それは分かっているのに、喉の奥に声が貼りついたように、どう頑張っても拒絶や救済を求める言葉が出てこない。
かなでが反抗しないことで気が大きくなったのか、かなでに触れる相手の行動はどんどん大胆になっていく。指先の動きは大きくなり、やがて掌がかなでの太ももをゆっくりと撫で始めた。恐怖と不快感とで、かなでは泣きそうになった。
その時。
「……小日向」
電車の喧騒に紛れそうな低い声がかなでを呼んだ。慌てて顔を上げると、いつの間に近くまで来ていたのか、心配そうな表情で火積がかなでを見下ろしていた。
「具合でも悪ぃのか? あんた、顔真っ青だぞ」
周囲を気遣ってか、聞こえるか聞こえないかの小さな声で火積が尋ねる。かなでは目を潤ませたまま、ふるふると首を横に振った。
「どうし……」
聞きかけた火積の声が止まる。何かを察したのか、火積はかなでの背後へと鋭い眼光を向けた。かなでに触れる誰かの手の動きが、そのままぴたりと止まった。
「……てめえ」
火積のドスのきいた声が響く。かなでの背後でひっと息を呑む人の気配がした。かなでに触れていた手がどこかに引っこんでしまい、不快感から解放されたかなではほうっと安堵の息をついた。
安心した途端、別の心配がすぐに浮かんでくる。
「ほ、火積くん」
慌てて火積に縋り付いて、かなではそのまま相手を追いかけて締め上げかねない形相だった火積を止める。何故止めるのかと訝しる火積に、もう一度ふるふると首を横に振った。……今度は、火積を諌めるために。
火積の額の傷は、不良に絡まれた友人を助けるために負ったものだ。そして、そのために至誠館吹奏楽部に迷惑をかけたことを、火積は今もまだ後悔し続けている。
……本当の火積は、とても優しい人だ。だから自分のために誰かを傷つけることはなくても、他の誰かのためなら自分が手を汚すことをいとわない。
そんな火積に、かなでのためにまた騒動を起こさせるわけにはいかなかった。
「もう大丈夫、だから」
震える声で、かなではようやくそれだけ火積に伝えることが出来た。
かなでを気遣わしげに見つめ、火積はもう一度かなでからは見えない人物を睨み付ける。背後で、誰かがそそくさと別の場所へ移動していく気配がした。
「……ホントに、何ともねえのか」
火積に尋ねられ、かなでは頷く。
「大丈夫。ちょっと触られただけ。火積くんが追い払ってくれたから」
今度はきちんと伝えることが出来た。先ほどまでの生理的な恐怖に心臓は早鐘を打っていたけれど、それでも解放されたことで、かなでは少しずつ落ち着きを取り戻している。
火積がほっとしたように溜息を付いた。
「……こっちに来い」
辺りに視線を巡らせて、不意に火積がかなでの腕を掴み、ぐいっと引っ張る。まるで先ほどまでの硬直状態が嘘のように、火積が操るかなでの身体は、人と人の間を難なく泳いでいく。やがて火積は、扉と手すりとが作る角にかなでの位置を移動させ、庇うように自分の体を盾にした。
「……これでもう、あんたに触れるやつはいねえだろ」
「あ、ありがとう」
背中には手すり、身体の側面に扉。
目の前に、かなでを覆い隠すように大きな火積の身体がある。
(確かに、これなら他の誰も触れないと思うけど)
まだ誰も車外に吐きだしていないラッシュの中。
人の密集度は変わっていないので 当然のことながら、火積の腕の中にいる形になるかなでの頬には、火積のシャツが当たる。
(火積くんには触っちゃう……)
それは恐怖も不快感もなく、ある意味とても安心できる空間ではあったけれど。
(……心臓、うるさい)
密かに火積に想いを寄せるかなでには、心臓に悪い状況が継続することには変わりなかった。
一方、火積の方も自分の行動の迂闊さに改めて気付いていた。
火積の腕の中に、かなでという小さな存在はすっぽりと収まってしまう。密かに想いを寄せる彼女が、その気になれば抱きしめられるほど近い場所にいて。
しかも、彼女の頬は火積の胸辺りに、電車が軽く揺れるたびに触れている。
(もしかして、コイツに聞こえてんじゃねえか……)
先ほどから彼女の存在を意識して、うるさく鳴り響く自分の心臓の音。
二人の胸の早鐘は、自分自身の激しい鼓動と電車の喧騒にかき消され、お互いに届いてはいないのだけれど。
どちらもそれぞれに、壊れそうに打ち鳴らす心臓を抱え。
夏の横浜の風景の中を縫って行く。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.11.27 加筆修正:2016.6.26】
タイトルからして結構ベタなハプニング事を想像してました。火積の良さが活きるのはやっぱり外敵を追い払う(笑)ことかなと思い、こんな話に。
ちなみに、渡瀬は電車での痴漢経験はないので、ラッシュにしろ何にしろ、全て妄想もとい、空想です。


