練習の後で

新→かなで

「でさー、かなでちゃん。このガイドブックのお店なんだけどー」
 脳天気な新の大声が、早朝のキッチンに響いている。
 昼食用にと、熱々のご飯を三角形に手際よく握るかなでがその声に振り返ると、テーブルにぺたりと貼りつくように身を乗り出しながらかなでに向かってガイドブックを広げる新の隣に、剣道の早朝稽古帰りに菩提樹寮に立ち寄った悠人がこれ以上にないくらいの渋面で座っている。
「俺、このイチゴフラッペ食べてみたいんだよねー。だからさ、練習の後で行ってみよーよ。暑いから冷たいもの食べるのにちょうどいいしー」
「……新」
 握った拳をふるふると震わせる悠人の前に、慌ててかなでは昼食用とは別に握った三角おにぎりと、焼き魚や玉子焼きなどの簡単なおかずを盛り付けた皿とを差し出した。
 朝稽古帰りの悠人が菩提樹寮の前を通りかかるのを知ったかなでが、昨日の部活帰りに「よかったら、早朝稽古の後に朝食食べて行って」と悠人を誘ったのだから、この行為は別に悠人の怒りを新から反らすためだけのものじゃない。
「ハルくん、どうぞ、おにぎり食べて! お味噌汁も温めるから待っててね」
「ありがとうございます。いただきます、小日向先輩」
 生真面目に会釈してかなでに礼を述べ、それから徐に悠人は同い年の従兄弟に向き直る。自分の隣の椅子を指差し、テーブルに身を乗り出す新に「そこに直れ」と促すと、新は大人しく姿勢を正し、行儀よく膝を揃えて椅子の上に座り直す。
 両膝にしっかりと両手を置いて身構える新と、腕組みをしてそんな新を見つめる悠人。それはまるで……
(叱られるおっきな小学生と、ちっちゃい頑固なお父さん……)
 体格的には本来逆になる方が正しいはずなのだが、自分で思いついた目の前の構図を表現する言葉が笑いのツボを付いてくる。かなでは浮かんでくる発作的な笑いを、軽く咳払いをして誤魔化した。
「いいか、新。今は小日向先輩も僕も、コンクールのファイナルを控えた大事な時期なんだ」
「知ってるよー、そんなこと。だから、いっぱい応援してるじゃーん。かなでちゃんの練習にもちゃーんと付き合ってるしぃ」
 むーっと唇を尖らせて新が反論する。
 アンサンブルで1stヴァイオリンを任されている以上、どんな楽器と合わせても埋もれてしまわないしっかりとした個性を持ちたい……そう考えるかなでは、すでにコンクールには敗退しているものの、夏休みを利用して菩提樹寮に滞在している他校のメンバーたちの好意に甘え、よく音を合わせてもらっていた。それぞれに全く個性の違う演奏者や楽器と音を重ねることは、かなでの演奏の幅を広げるために、とてもプラスになっている。
「うん。新くんにもいっぱい練習付き合ってもらって、すごく助かってるよ」
「でっしょー!」
「調子に乗るな、新! ……小日向先輩も、こいつをあまり甘やかさないでください!」
 とうとう悠人の堪忍袋の緒が切れる。
 朝も早いのに、よく通る芯のある声で悠人が新に説教を始めた。
「練習に付き合うのは別にいい!でもその練習を始める前から遊ぶことを考えてるなんて、不真面目以外の何ものでもないじゃないか! お前が小日向先輩を練習後に遊びに連れ出すのは、ここのところ毎日だろ!」
「ええ~~っ、だってぇ~」
 新の正しい姿勢は長くは持たなかった。片脚を抱え上げ、椅子の背もたれに体重を預けて、反動で前へ。
 かたん、かたんと前後に椅子を揺らし、新は不満げに頬を膨らませる。
「そりゃ、ファイナルのために練習するのも大事だけどさー、根詰め過ぎちゃったらストレス溜まっちゃうしぃ、息抜きだって大事なことじゃん? ハルちゃんがそんなに目くじら立てなくったって、別に練習サボるってわけじゃないんだからヘイキだよー」
 ホントに頭カッターイんだからぁー、と新は容赦なく火に油を注ぐ。
「……息抜きというのは、たまにやるから息抜きと言うんだ! 毎日やるなら、それはただの日課にしかならない!!」
 反省しない新と、妥協しない悠人。
 結局、混ざり合うことなくただ平行線をたどるだけの会話に、弁当を作り終わったかなでが慌てて仲裁に入る羽目になった。



 悠人が帰宅して数十分後、準備を終え弁当とヴァイオリンケースとを抱えたかなでと、かなでと落ち合う約束をした夕方まで一人で横浜観光を満喫するつもりの新は、並んで菩提樹寮を後にする。
 かなでは日が高くなるまでは近くの公園で練習をするつもりだったので、駅前通りへ向かう新とは、途中まで歩く方向が同じだったので、肩を並べて歩くのは自然な事だった。
「ねえねえ、かなでちゃん。やっぱり、俺がこうやって遊びに誘うのって、迷惑だったりする?」
 先ほどまでとは打って変わって、どこかしょげたように新が尋ねる。……暖簾に腕押しのように見えていた悠人のお説教は、それなりに功を奏していたらしい。
 かなでは小さく笑って首を横に振った。
「迷惑なんかじゃないよ。新くんと遊びに行くの、楽しいし。私も横浜に来てまだ日が浅いから、新くんと一緒に新しい発見ができること、嬉しいの」
「ホント!?」
 がばっと顔を上げ、新が表情を輝かせる。
 何か、大型の人懐こい犬が嬉しそうに尻尾を振っているイメージだ。
「そっかあ、よかった~! 俺ひとり楽しくったって、かなでちゃんが楽しんでないんだったら、全然意味ないじゃーんって感じだもんね!」
 屈託のない新の言葉に、かなでは思わず苦笑する。

 ……実際のところ、新に頻繁に誘われるようになってすぐの頃は、新と行動することにかなでは不安を感じていた。
 律の深刻な怪我が分かり、響也に代わって何故か自分が1stを任されてしまい、自分の演奏にまったく自信がなかったかなでは、どうしていいのか分からず途方に暮れていた。
 かなでのそんな不安を知る由もなく、ただ無邪気に遊びに行こうよと誘ってくる新を、無神経だと思ったこともある。
 そんなことをしている場合じゃない。
 遊んでる暇なんてない。
 もっともっと、練習をしなければならない。
 もっと、もっと、もっと……!
 だがある時、そんなふうに焦燥していたかなでを半ば強引に連れ出した新が、ひどく落ち着いた口調で、ぽつりと言ったのだ。
『かなでちゃん。楽しい曲を弾くためには、かなでちゃんが楽しい気持ちでいなくちゃ駄目なんだよ』
 楽譜通りに音を辿り、たとえ技術的には完璧な演奏が出来たとしても、そこに気持ちが込められていないのなら、それはとてもつまらない演奏になる。
『楽しい気持ち。演奏するかなでちゃんが忘れちゃダメだよ』
 かなでの葛藤なんか知らないはずなのに。
 その時の新の言葉は、確かに演奏に行き詰っていたかなでの心を救ったのだ。


「……ありがとう、新くん」
「へっ!?」
 突然思いがけなく礼をを言われて、新が面食らったように声を上げた。
「いつも、誘ってくれてありがとう。新くんのおかげで、あんまり煮詰まらずに、上手に気持ちをリセットできてるの」
「……そうなの?」
 半信半疑で尋ねてみると、かなでが笑って頷く。
「うん」
 かなでは、こんなふうに可愛らしく笑って平気で嘘をつくような子じゃない。だからこの言葉は、新が素直に受け入れていい真実だ。
「そっかあ、……よかったあ」
 心の底から安堵して、新はほっと胸を撫で下ろす。

 一時期、かなでの気持ちが目に見えてマイナスに傾いていたことがあった。
 地方予選で闘った時にはあんなに輝いていたかなでの音色が、いつの間にか自信を失くして、小さく萎縮していた。
(楽しい気持ちを忘れちゃダメだよ)
 トロンボーンを吹く時に、新が唯一変わらずに胸に持っている気持ち。
 それは、八木沢率いる至誠館吹奏楽部部員全員が、いつも演奏の芯に置くもの。

 『音を楽しむ』ということ。
 一番原点にあるはずのその気持ちを失くしてしまったら、それはもはや心地のいい音楽にはならない。


 かなでを励まそう、元気づけようと、新は強引にかなでをいろんな場所に連れ出した。
 もちろん練習が大事なことは新にも分かっている。それでも、その時のかなでは、もっと広い世界に目を向けることが必要だと新は感じていた。
 そして、陰りがちだったかなでの表情には、いつしか以前と変わりない無邪気な笑顔が浮かぶようになり。
 その頃から新の気持ちも、少しだけ変化を見せ始めた。

(かなでちゃんに、楽しい気持ちでいて欲しいっていうのは嘘じゃないけど)
 今、新がかなでを連れ出す、その動機はただ、新がかなでと一緒にいたいからだ。
 夏は何度だってやって来るけれど、かなでに出逢えた夏は目の前のこの一度きりしかない。
 この先、自分の中に淡く生まれているこの胸の想いが、どんなふうに育つかなんて新にも分からない。
 かなでと自分との関係が、自分が願うとおりに変わるのかどうか、想像がつかない。
 それなら……もし、このまま彼女との関係が終わる。そんな未来もあるのだというなら。
 尚更、かなでとの楽しく幸せな思い出を記憶の中に強く焼き付けたい。
 今はただ、そんな想いが新を動かしている。



「じゃあ新くん、また。練習の後でね」
 公園に向かう交差点で、かなでは笑って新に片手を振る。
「うん、後でね、かなでちゃん!」
 長い両腕を挙げて、大きく空に円を描いて振り返しながら、新はヴァイオリンケースとお弁当の入ったトートバックを抱えて颯爽と歩いていくかなでの背中を、少しだけ淋しい気持ちで見送る。

 あと何回、こんな他愛ないやりとりはできるんだろう。
 練習の後にまたねって、小さな約束をあと何回交わせるんだろう。
 この幸せな日々の終わりは、そんなに遠い未来の出来事じゃない。
 充実した毎日を繰り返していくうちに、おそらく一足飛びに、新の目の前にその瞬間がやって来る。
 そんな逃れようのない真実を、新もちゃんと分かっている。
 ……それでももう少しだけ、目を反らして。
 出来るだけ見ない振りをして。

 練習の後でかなでと過ごす、楽しい時間の事だけを考えて、新は賑やかな街の喧騒に向かって、勢いよく一歩を踏み出した。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.11.29 加筆修正:2018.8.12】

新は他のキャラを絡めると途端に楽しくなるから不思議(笑)
星奏と天音以外のキャラは皆遠距離恋愛になるんですけど、一番その辛さが表に出て来るのは、実は新なんですよね。かなでと一緒にいることを一番満喫するからこそ、離れた後が辛いというのか。
新の楽しい部分、ほのぼのした部分、そして切ない部分がきちんと出てればいいんですけど、難しい。

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