新しい学期が始まって、新しい教室で、新しい友達が出来て……そんなふうに、これからすべてのことが動き出すイメージで、いつだって心は浮足立っていた。
それなのに、人生にはこんなに淋しい桜吹雪もあるのだということを、かなでは17年生きてきた中で初めて知ることになった。
そう……これまでかなでは知らなかった。
神戸では自分が暮らしていた故郷よりも、随分と早く桜の花が咲くのだということを。
そして、現在かなでが在籍する神南高校では、桜が満開になるのは卒業の時期であるということを。
「……いつまで泣いてんだ、かなで」
神南高校の敷地内にある程よく花弁が散り始めた桜並木の下で、声もなくさめざめと涙を流すかなでと、卒業証書を片手にした千秋は二人で取り残されている。
卒業式が滞りなく終了し、管弦学部一同で集まってお決まりの別れの挨拶を交わした後、これから場所を変え、豪華なホテルのワンフロアを貸し切って神南高校管弦学部卒業祝賀会なるものが催される予定なのだが、泣きやまないかなでを泣き顔のままで連行するわけにはいかず、ある程度落ち着いてから祝賀会に来るようにと苦笑する土岐に諭されて今に至る。
千秋自身には、高校を卒業するということに対して、特別な感慨はない。
最高学府へ進学してもただ己の周りの環境が変わるだけで、千秋自身の何が変わるわけでもないからだ。
幼い頃から抱き続けた夢は今も変わらずに千秋の中にあり、その夢にたどり着くために、これまでの、そしてこれからの千秋の全てがある。
だから千秋には、かなでの涙があまり良く理解できない。
この学び舎を巣立つというだけで、どうしてこうも無暗に泣き続けられるのか。
そう考えた時、親友と後輩とが遠慮なく、溜息交じりに吐いた一言がふと千秋の脳裏を過った。
(だから昔っから、千秋はデリカシーの欠片もないって言うんよ)
(部長が卒業されることを淋しいと仰って泣いてくださるんですから、喜ばしいことじゃないですか)
それはお前「俺はむしろ清々しますけどね」と続くパターンだろ。
掘り起こされた一言に付随して、数十分前に実際にこの場で交わされた会話が千秋の脳内でリピートした。記憶の中の後輩の愛想のない一言に千秋は反射的に毒づく。
そんな千秋の物思いが中断したのは、隣にいる泣き通しのかなでがぐずっと小さく鼻を鳴らしたからだ。
「……ごめんなさい」
鼻にかかった泣き声が告げた謝罪が、先ほど自分が彼女に吐いた、叱責に似た言葉への返答だと気付くのに、記憶の中に浸っていた千秋は少し猶予が必要だった。
泣いても意味がないって、ちゃんと分かってるんです。
このままじゃ、ただ千秋先輩を困らせるだけだってことも。
でも、千秋先輩が今日でこの学校を卒業していくんだなって改めて思ったら、寂しくて。
もう、明日から管弦学部の部室に当たり前に千秋先輩と土岐先輩がいてくれることはないんだなって想像したら、涙が止まらなくて。
……ごめんなさい。
かなでの謝罪は、先ほどから変わりなく同じ言葉を繰り返すだけ。
泣かれてしまうとどうしていいのかが分からない千秋が、何も対応できずにかなでを放置しているせいだ。
本当はただ泣きやんで欲しいだけなのに、それをかなでに上手く言ってやれなくて、先ほどのようについ責めるような口調になる。
千秋だって、別にかなでに謝って欲しいわけじゃない。
……そうじゃないのに。
ふわりと穏やかな風にあおられ、はらはらと辺りに桜の花弁が舞う。
とても幻想的な美しい景色なのに、止め処ない涙をこらえるのに懸命で、かなでの瞳はまともにこの目の前の光景を映していない。それが勿体ないと千秋は思う。
「……綺麗だな」
ぽつりと呟いてみる。
根本的な解決になってはいないが、先程までと方向性の違う一言は、無意味な繰り返しを止める一手にはなったようで、涙に頬を濡らしたかなでがゆるゆると顔を上げ、千秋の横顔をじっと見つめた。
千秋の視線を追い、潤んだ瞳を桜吹雪に向けたかなでが、千秋の言葉を繰り返した。
「……綺麗ですね」
彼女が謝罪のループを抜け出したところで、ようやく千秋は彼女に言える言葉を己の中に見つけ出す。
普段なら、遠慮なくぶつけている言葉だ。かなでの反応がどうであれ、千秋は概ね自分の言いたいことを言いたいように彼女に伝える。
だが今は、伝えることに躊躇していた。……かなでが泣き、自分はそれを上手く止めてやる手段を持たないからだ。
これが蓬生ならば、惚れた女が自分のために泣くのもまた一興と、案外この状況を楽しんでしまうかもしれないが、千秋はどうにも居心地が悪い。
それが、この自分の存在を惜しんで流される涙であっても。
「笑え、かなで」
いつもと同じ、強い命令口調の千秋の言葉。
でもそれが、いつになく優しい声で作られていることにかなでは気付く。
「お前は、いつも笑ってろ。……不安になる必要はねえ。俺はお前をここに置いていくんじゃない。俺はただ、俺の夢を叶えるためにこれまで通り前に進むだけだ。だからお前は笑って俺を送り出せ。俺がこの旅立ちの日を振り返る時に、お前の泣き顔なんてキツいもんを思い出させるな」
かなでがはっと目を見開く。
そうだ、かなではただ自分の寂しさのために泣いていただけだ。
千秋が新しい世界に一歩踏み出すことを、たった一年生まれるのが遅かっただけで、見送らなければならないこの現状に……置いて行かれる不安に、押しつぶされそうな自分自身のために、嘆いているだけだ。
「心配しなくても、今お前が抱いてる不安は全部杞憂に終わる。お前が嫌だっつっても、俺はお前をこの先へ一緒に連れて行くぜ。……ここまで来て、今更俺がお前のことを手放すわけがねえだろ」
淋しけりゃちゃんと俺を追って来い、と千秋が告げる。
ここが終わりじゃない。ここからまた新しく始まるんだ。
千秋と出逢ったあの夏、一つの出来事が終わる時に千秋が宣言した言葉。
……その通りだった。
全国制覇という称号を手にしても。忘れられない夏が終わっても。
今まで千秋の歩みが止まることはなかった。
だから、この瞬間も同じだ。
ただ一つ、区切りがつくだけ。
千秋の夢は……それに巻き込まれたかなでや蓬生たちの音楽は、千秋が夢を捨てない限り、未来永劫続いていく。
故郷で桜吹雪を見るたびに、いつもかなでの心の中にふつふつと浮かんでいた、未来への期待感が今年は少し早めにやってきて、かなではその変化に戸惑っている。
けれど、舞う桜は同じものだ。
新しい季節が、やって来るのだ。
「……笑え、かなで」
乱暴にかなでの涙に濡れた頬を掌で拭い、千秋がそう促す。
頬を包んだ大きな手の甲にそっと触れ、かなでは懸命に笑う。
……自分は、千秋が望む通りに上手く笑えているんだろうか。自分では見えないから、よく分からない。
それでも千秋の言うように、笑顔の自分が千秋の網膜に焼き付いてくれればと祈る。
千秋がいつか、この旅立ちの日を振り返るときに、自分の一番の笑顔が彼の脳裏を過るのなら、それはかなでにとってとても幸せなことだ。
「……いい子だ」
安堵の息をついた千秋が微笑み、そっとかなでの頭を撫でて。
唇に、ご褒美の優しいキスをくれた。
数十分前の寂寥と不安がないまぜになった重い心に光が射して。
桜、舞う。この風景に、希望と期待とが映し出されていく。
それは懐かしい故郷でかなでが見ていた始まりの風景と同じ、とても心逸る美しい景色だった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.10.26 加筆修正:2018.8.12】
普通卒業式の頃にはまだ桜なんぞ咲いてないってのは分かってますよ!(笑)
でも、このお題でなら卒業か始まりの話が書きたかったので、強行しました。話としては好きなものが書けましたので、満足です。
千秋、めっちゃ好きなんですけど、書くのはものすごく難しかったりします。俺様感が上手く出てこない……


