この腕の中で

千秋→←かなで
【Another sky 神南 Ver.】

 夏の午後に夕立が降ることは別に珍しいことではないけれど、つい30分ほど前には確かに青空が広がっていたはずなのに、スーパーで夕食用の買い物を終え、建物から出てみると一転、土砂降りの雨というのはもはや一種の詐欺行為に近いとかなでは思う。
 かなでが暮らすマンションは歩いて10分くらいのところだ。空一面重く立ち込めたグレーの雨雲には途切れる隙間がなく、片手に握ったエコバックの中身は、野菜などの食料品ばかりで、特に濡れてしまって困るものもない。
 強いて言えば、困るのはそのエコバッグが乾かないと次回に使用できないというくらいで、後はかなでの決断次第だ。
 そう思い至ってみると、いつまでもスーパーの軒先で雨の行く末を眺めていること自体が無駄に思えてくる。
 かなでは思い切って大きな水たまりの中に一歩を踏み出した。ぱしゃんと水が跳ねて、素足にひっかけたサンダルは水浸しになってしまったけれど、すぐに強い雨に打たれて全身が濡れてしまったので、特に気にはならなかった。
 慰め程度に薄手のパーカーを傘代わりにして頭から被り、家路を駆け抜けながらかなでは雨にけぶる街並みを見るともなく見る。
 先程のかなでのように、軒先で雨の様子を伺う人、現在のかなでのように土砂降りの中を駆け抜けていく人。突然の雨に人々の反応は様々だが、ふとその人々の中にかなでは見覚えのある人影を見つけた。
 すらりと背が高く、明るい髪色。似た風貌の若者はその辺りにたくさんいるけれど、存在感がまるで違う。ただ雨宿りをしているだけだろうに、そこまで人の目を惹きつける人間を、かなでは彼以外に知らなかった。
「東金部長!」
 かなでは彼のいる軒先に駆け込む。ぱらぱら、とかなでから降り落ちた水滴がかろうじて乾いている段差の上に、黒い水玉模様を作った。
「……小日向。お前、こんなところで何やってる?」
 ずぶ濡れのかなでを足のてっぺんからつま先まで無遠慮に見つめ、東金は不快そうに顔を歪めた。
「私は、家がこの辺りだから……。ぶ、部長こそ。何で、こんなとこに、いらっしゃるんですか……!」
 スーパーからここまで走り通しだったため、かなでは息も絶え絶えだった。身を屈めて片手で胸を押さえ、呼吸を整える時間を要して。……ようやく少し落ち着いたかなでが顔を上げた。
 東金もこの突然の夕立に、雨を避ける場所を求めてここに駆け込んだ口なのだろう。よくよくみればかなでほど絶望的ではないが、身につけたものがしっとりと湿り気を帯びていた。
「もしかして、どこか行くところだったんですか?」
 確かにこの辺りは神南高校の敷地からそう離れた場所ではないが、そもそも今日は休日で、東金の自宅はこの近辺ではない。
 学校に行く用事もないはずの東金が、こんなところで雨宿りをしている方が、余程不思議だった。
「……ああ。まあな」
 しばらく間をおいて、視線を反らした東金が曖昧な返事をする。その東金に似つかわしくない歯切れの悪さに、かなではふと、あることを思い出した。
 そういえばここは、東金が家に帰りたくないときに利用する、彼の叔父のアパートに近いはずだ。そう考えながら東金を見ると案の定、足元に小さなボストンバッグが置いてあった。
(もしかして、またお父さんと何かあったのかな)
 気にはなるが、理由を尋ねてみても東金は素直に答えはしないだろう。
 だからといって、それじゃあと何事もなかったかのように彼をこのままここに放置して、かなでだけが家に帰るわけにはいかない。
 かなでもそうだが、彼は全国アンサンブルコンクールのファイナルに臨む、大事な立場なのだから。
「東金部長、よろしければ私のマンションに来ませんか?」
「あ?」
 突然のかなでの申し出に、呆気にとられた東金が目を丸くする。かなでは構わずに、東金の腕を掴んで引いた。
「そのままじゃ、風邪ひきますから。うちまでそんなに離れてませんし、雨が止むまでゆっくりしていってください。もし帰るまでにどうしても雨が止まなければ、ちゃんと傘もお貸ししますから。花柄ですけど」
「お、おい、小日向」
 さあさあ、と半ば強引にかなでは東金を土砂降りの空の下に引っ張り出す。
 普段強引でマイペースな部長は、自分自身が振り回されることには意外に慣れていないらしい。
 かなでに導かれるままに東金は土砂降りのアスファルトの上をゆっくりと歩き出した。
 本来ならかなでの力くらいでどうこうできる人ではないので、渋々ながらかなでの言うとおりに動き出した東金は、どうやらかなでの提案の有益性を認めたようだった。


「ここ、バスルームです。置いてあるものは自由に使ってくださって構いませんので、シャワー浴びて暖まってください。その間に私は紅茶でも入れてますから」
 マンションに辿り着き、自分の部屋へ東金を案内したかなでは、部屋に踏み込むなりバスルームと隣接した洗面所へと東金を促した。
「……小日向、お前なあ」
「小言は後から聞きますから、とにかく無茶して体調崩すのだけはやめてください。それでもしファイナルに支障があったりすれば、困るのは部長じゃなくて、土岐先輩や芹沢くんや、私なんです」
 タオルはここです、と洗面台の上の棚を開け、かなでは自分用にバスタオルを一枚取り出した。
 かなでの方も濡れ鼠の自分自身の処置をきちんとしておかないと、東金にもっともらしい説教をしておきながら、万が一自分が風邪を引いていては洒落にならない。
 不満そうにしながらも、かなでの言に分があることを分かっているのか、東金は大人しく側にあった脱衣籠の上に自分のボストンバッグを乗せる。雨の中、東金は胸に荷物を抱え込むようにしてここまで来たから、バッグの外側はともかくとして、中に入っているものは本人ほどに致命的には濡れていないだろう。そして、かなでの予測通りに叔父のアパートへ行くつもりだったのなら、おそらくそこには着替え一式が入っているはずだ。
「では、ごゆっくり」
 言って、かなではバスルームの扉を閉める。しばらくそのままで様子を伺っていると、やがて中からシャワーの水音が聞こえてきた。
「部長はこれでよしっと」
 今度は、実は東金よりも状態が悪い自分の番だ。
 身内でもない男性がシャワーを浴びているところで……とそれなりの一般常識が頭の中を過ったが、東金に言った通り、無茶をして体調を崩したりすれば、かなで一人の問題ではなくなる。シャワーの音が続いていることを確認し、かなでは思い切ってその場で着ていたものを全て脱ぎ捨てた。
 乾いた衣類に着替えて、濡れた髪を先程引っ張り出してきたバスタオルで拭い、そのバスタオルで脱ぎ捨てたものをくるんでキッチンの隅の目立たないところに重ねておく。買い出してきた食料を冷蔵庫や戸棚へ片付け終え、紅茶を入れるためにお湯を沸かし始めたところで、東金がシャワーを終えてバスルームから出てきた。
「今、お茶入れますね。その辺りに座っていて下さい」
 肩からタオルをひっかけ、ラフなTシャツとGパン姿で、東金はかなでの部屋を見渡す。広さは叔父のアパートとさほど変わらないが、あのアパートと決定的に異なるのは、女子高生が一人暮らしをするのにふさわしく小奇麗な内装のオートロックであるというところで、防犯面に関しては、あの鍵がなくても簡単にドアを破壊して中に入ってしまえそうなボロアパートとは比較にならない。こじんまりとしているが、それなりに丁寧に整頓された彼女の部屋は、実にかなでらしいと思えた。
 地味で、これといった特徴もない。だが、妙に居心地がいい空間だ。おそらくかなでが少しでも過ごしやすいよう、懸命に工夫を重ねているのだろう。
 かなでが二人分の紅茶を入れてリビング兼寝室の部屋に戻ると、東金は小さなテーブルの脇ではなく、堂々とかなでのベッドに腰掛けていた。人の部屋でも遠慮のないその態度は、普段の東金と何も変わらない。
「……何だよ、お前がその辺りに座っていろと言ったんだろ。何か不満か?」
 ベッドの上にふんぞり返っている東金に見てつい唖然としたかなでに、不敵に笑って東金が言った。苦笑しながら、かなではテーブルの上に湯気の上がるティーカップを置く。所望される前に、お茶請けのクッキーの皿も置いておいた。
「東金部長だから、もう何でもありです。もちろん、不満なんてありません」
 そうあっさりと言えてしまうあたり、かなでも相当にこの目の前の人物に毒されてきているのかもしれない。

 東金はクッキーには手を付けず、紅茶だけを手に取った。
 そこに東金がいて優雅に紅茶を飲んでいる。ただそれだけの変化なのに、これと言った特徴もない部屋が途端に豪奢に見えてくるから不思議だ。見慣れた自分の部屋のはずなのに、何故か気持ちが落ち着かない。
 ちょこんと床に直に座り込んだかなでが小さく身じろぎをする。そんなかなでを見て、東金が笑った。
「落ち着かなさそうだな、小日向。今更ながら、一人暮らしの女の部屋に堂々と男を入れたことを後悔してんのか?」
「後悔はしてません、けど」
 あのまま、東金を放っておくわけにはいかなかった。それだけは間違いがない。
 今ここに東金が落ち着いていてくれることには安堵している。
 だが自分の領域内に、本来いるはずのない人間が存在ことは、確かにかなでの気持ちをざわつかせている。
「……全く、危なっかしい奴だな」
 ことんとテーブルの上にカップを置き、溜息交じりに東金が吐き出した。
「俺だからよかったようなものの、これが蓬生辺りだったらただじゃ済まねえぞ。人並みに危機感ってものを持ってるなら、無暗矢鱈に男を部屋ん中に連れ込むな」
 人聞きが悪い。
 もちろんかなでもそこまで致命的に危機感がないわけじゃないのだ。事態は緊急で……そして、やはり東金が相手だったから、この選択をしただけで。
(東金部長なら、大丈夫だって思えたから)
 尊大で傲慢で。何においても規格外な男ではあるが、その反面決して卑怯者ではない。200人強の管弦学部員を見事に率いる手腕からしても、破天荒なように見えてその実、自制心はしっかりしている。そうでなければ、管弦学部はまとまらない。
 そう確信が持てるくらいは、かなではこの目の前の男に信頼を置いていた。
 だからこそ……どちらかといえば堅実な東金らしくないこの状況に、言葉は悪いが興味が湧いたのだ。
「……あのアパートに行くところだったんでしょう。部長」
 聞くつもりはなかったのに、つるりと言葉が唇から滑り落ちた。
 表情を動かさず、東金がかなでの方に視線をやり、一つ瞬きをした。
「お父さんと、また何かあったんですか……?」
 それは、東金の迂闊に踏み込んではいけない領域だと知っている。
 かなでにも、決して東金に踏み込まれたくないボーダーラインがあるように。
 だが、どうしても放ってはおけない。……自らのペースを崩すことがない東金が唯一心を乱されるのが、厳格で頑固なあの父親であることを知っている以上。
「……まあ、いつものことだから、『何』ってこともないけどな」
 音楽性の違いから、父親と些細なことで衝突するのは、東金にとっては日常茶飯事だ。
 別に父親に認められたいから音楽をやっているわけじゃない。そう自分に言い聞かせながら、東金は父親の存在から目を背けようとしている。
 だが、どうしても認められたいという願いは胸の奥に燻り続ける。
 東金が抱く夢。その根源を辿った場所に、父の面影がある限り。
 自分の音楽性は曲げられない。それが父親の持つものと相いれないことも充分に理解している。
 だが、自分の中から父親の存在を完全に消去してしまうことも、やはり出来ない。
 その現実が揺らがないからこそ、時折どうしてもそこから目を反らして、逃げ出してしまいたくなる。
「……親父とのことをお前に知られたのは、失敗だったな」
 情けない、と前髪をかき上げて苦く笑う東金に、かなでは胸が締め付けられるような何とも言えない気持ちになる。

 自信家で尊大で傲慢で。
 人の都合なんて、お構いなしで。
 そんなふうにいつもは勝手にかなでを振り回す人が、今、かなでの前で弱音を吐いている。
 それは。
 そのことは。
 ……かなでにとって、確かな幸福だった。

「小日向……?」
 すっと立ち上がり、かなでは東金の正面に歩み寄る。そこに両膝をついて、少し低い位置から東金の整った顔を見上げる。
 突然のかなでの行動の意味が分からず、訝しげに東金がかなでの名を呼んだ。
 かなでは、細い両腕をゆっくりと伸ばし。
 その中に、そっと東金を抱き締める。

 小柄なかなでの腕の中に、東金という大きな存在は包み込めたりはしないけど。
 それでも、少しだけでも。
 この腕の中で、東金が弱い心を癒してくれたらと願う。


 柔らかな腕と甘い香りが東金を包み、目が眩む。
 この女……!と東金は、苛立たしいようなもどかしいような、そんな怒鳴り散らしたい気持ちになる。
 二人だけの部屋で。
 お互いに薄着の無防備な姿で。
 そして、ベッドの上で。
 惚れた女に抱きしめられて、それでいったい自分に何をどうしろというのか。
 それでも、かなでが弱っている自分を励ますためにこうしてくれたことはきちんと伝わっていたので。
 東金はただ、そんな彼女を抱きしめ返すしかなかった。


「……全く、お前ときたら」
 しばらくの後、呆れたような笑い混じりの東金の声が、触れ合った腕から響いて伝わってきた。
「さっきの言葉を訂正だ。俺の『自制心』にせいぜい感謝しろ、小日向。言っておくが、幾ら俺でも我慢の限界ってもんがある。次にこれをやりやがったら、今度は容赦しねえぞ」
 言われたかなでは、慌てて東金から飛び退く。
 面白そうに笑った東金が、自分の膝に頬杖をついて、かなでを見おろした。
「わ、私、そういうつもりじゃなくて……!」
 真っ赤になったかなでが慌てて弁明する。
 顧みれば、確かに大胆すぎる行動ではあったけれど、そこには純粋に東金を心配する思いがあってこそなのだ。
「……ああ、分かってるよ」
 穏やかに微笑む東金が、片手を伸ばしてかなでの頭に触れる。
 そこで軽く、大きな掌を二、三度、労わるように弾ませた。
「ありがとな……小日向」


 どこまでも強くあろうとする東金を心配すること自体が、本当は不要なものなのかもしれない。
 だがそれでも、もし東金が躓いたりへこんだりする、そんな時には。
 弱音を吐ける場所に、自分という存在を選んでくれたらいいと、かなでは願う。


 もどかしい時、泣きたい時。
 貴方が他の誰にも見せたくない弱さを。
 その涙を、必ず隠し通して見せるから。

 どうか弱音を吐きたくなった時は。
 他のどの場所でもなく、『ここ』でその弱さを曝け出して欲しい。

 頼りなく柔らかな。
 この暖かい腕の中で。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.11.30 加筆修正:2019.3.10】

このお題で千秋となると「この腕の中で咲き誇れ!」となる気がしたので、あえて裏切ってみました(笑)
掘り下げ方が全然違うので当然かもしれませんが、ノーマルコルダ3よりはアナザスカイ神南の方が千秋の話は好きですね。
セレブが通う神南に学生寮はないだろうと、かなでちゃんは一人暮らし設定です。いろいろと使い勝手がありますね!(ヲイ)

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