神南高校管弦楽部部室。指定のソファにしどけなく横たわる土岐は、先ほどから熱心に部室内の清掃に勤しんでいる華奢な背中に声をかけた。
土岐の予想通り、顔を赤く染めたかなでは拗ねた表情で土岐を振り返る。
「……初めて、ですけど。それ、何か問題があるんですか?」
拗ねた表情も可愛いと思うのは、惚れた欲目というヤツだろうか。
想いが通じ合ったばかりの真新しい恋人は、これまでどこか空虚だった土岐の心を埋めてくれる大切な存在だ。だからこそ、これまでなら気にも留めなかったような些細なことが心のどこかに引っかかってしまう。
「別に、問題なんてあらへんよ。小日向ちゃんの真っ新な恋愛の辞書に、最初に痕をつけるんが俺やっていうのは、光栄なことやな~って思っただけや」
告げてみて、土岐はこれがまるで終わりを予感しているような発言であることに気が付く。
最初に痕をつけるのが自分であるならば、この先に別の痕を残す存在が現れるとでも言うのか。
そもそも手放す気もないくせに、いつか終わりを迎えるかもしれないという恐怖はしっかりと抱いている、自分の本心に土岐は苦笑した。
(まあ、それもこれも、小日向ちゃんが悪いんやけどな)
心の中で、土岐は勝手にかなでへと責任を転嫁する。
かなでは異性と付き合うのは初めてだと言う。
土岐が仕掛ける見え透いた罠にあっさりとかかる辺りから恋愛の手練れとは言い切れないし、そこで嘘が付けるような子でもないから、その言葉は真実だろう。
だがその割には、異性に対して全く警戒心を持っていないことが気にかかる。
もしかして、全部計算して振り回してるんのと違う? ……そんなことを言えば、またかなでの機嫌を損ねてしまうことは目に見えていたから、土岐は少しだけ変化をつけた問いを投げてみる。
「でも小日向ちゃん、俺ら男ばかりの部室の中に一人おっても、特別意識もせえへんみたいやし。もしかしたらそれなりに男の扱いを心得とるんやないかって思うやん?」
土岐の問いに、かなではしばしの間沈黙した。
かなでの出方を待つ土岐の視線の先で、黙って背を向けたまま、かなでは丁寧に楽譜を並べ、本棚へと戻し、そんな作業を何度か繰り返して、やがて土岐がその沈黙に不安を感じ始めた頃に、ぽつりと呟いた。
「……それ、響也たちのせいです」
「は?」
「多分、私が男の人をあんまり意識しないのって、響也と律くんのせいだと思います。ちっちゃい頃からずっと、あの二人と一緒だったから」
どうやらかなでは土岐の問いに対して怒っていたのでも無視していたのでもなく、至極真面目に返答を考えていたらしい。ほっとするのと同時に、土岐はかなでの答えに納得した。
恋愛経験がないという割に異性を意識しないのは、如月兄弟の影響があるのだ。土岐もあの二人をそこまで深く知っているわけではないが、確かにあの兄弟にもかなでと似たような雰囲気を感じる。
裏表がなく、真っ直ぐだ。弟の方には年相応のひねくれ具合が見えるが、それでも土岐のように関わる相手すべてに警戒心を持って一線を引くようなタイプではない。
当然のことながら、気心の知れた幼馴染みに恋の駆け引きを仕掛けるような人物像でもなかった。
「そう……よかったわ」
溜息と共に滑り出た呟きは、土岐の本心だった。
訝しげに首を傾げ、自分を見つめているかなでに、笑って「おいでおいで」と手招きしてみる。
かなでは眉間に皺を寄せ、警戒心を露わにする。
夏の間、こんなふうに土岐に呼ばれて近寄ってみて、ロクな目にあった試しがない。異性への警戒心は未発達でも、土岐への警戒心はきちんと備わっているらしい。
反射的に数歩後ずさってしまったかなでに、土岐は苦笑した。
「別にそんなに警戒することないやん。取って食うわけじゃあるまいし。ただ、あんたともう少し近くで話したいだけや。……小日向ちゃん、朝からずっとここの片づけし通しで、休憩してへんやん。俺と話しがてら、一息つきぃ」
改めて言われてみると、確かに全身に微かな疲労を感じる。
朝一番、「この山積みの楽譜とCD類をきちんと50音に並べて整頓しておけ」と部長命令を下されて今に至るわけだが、そもそもこの書棚の中身を一番利用している部長と副部長が、きちんと出したものを自分で元に戻してくれればかなでのこの苦労はなかったわけで。
さらに言えば、目の前にいるその副部長が片づけを手伝ってくれれば、もっと作業は早く終わるわけで。
そう思ってソファに寝そべる土岐を眺めるが、どう見てもかなでの疲労を気遣ってはくれても、その手の労力を自ら使う気はなさそうだ。ならば、お言葉に甘えて休息だけでもさせてもらおうと、かなでは土岐に導かれるまま彼のいるソファの傍に歩み寄った。
身を起こした土岐が、自分の隣の空きスペースを掌で叩いて促す。頷いて、かなでがそこにちょこんと腰かけると、するりと滑るように動いた土岐の両腕が、かなでの身体を当たり前のようにその中に捉えてしまった。
「土岐先輩!」
「ほんま、隙だらけやなあ、小日向ちゃんは。危のうて他の男の前には迂闊に置いとかれへんわ」
「そもそも! 近づいただけで触ったり抱き締めたりして来るのは先輩だけで、他の人がそれをやったら痴漢行為ですから! 心配しなくても、土岐先輩以外に私にこんなことする人いません!」
「何言うてんの。俺が出来るってことは、他の男も出来るってことやで。要はその気があるかないかだけや。……電車で隣に座る男にその気があったら、小日向ちゃん、どないするん?」
反論できずに言葉を呑み、かなでは黙り込む。
しゅんと項垂れるその様子に、土岐は内心で「ごめんな」と詫びる。
(ごめんな。悪いのは多分、小日向ちゃんやない)
(ただ、俺が上手くあんたの事離されへんねん)
もちろん土岐は、恋愛経験が皆無なわけではない。
一通り『恋愛』というカテゴリで括られるものは、浅くも深くも経験しているはずだ。
だが、おそらく本気の恋愛はしたことがない。
上辺だけ楽しく、心地よく。
後腐れのない遍歴しか必要でなく、それ以外のものは重ねてこなかった。
本気になって我を忘れたり、傷ついたりするのが怖くて、どうしてもそこに足を踏み込めなかった。不思議と自分に近づいてくる女性は自分とよく似ていて、始める時も終わる時も、波風が立つことはなく、ただ静かに凪いで通り過ぎて行った。
かなでは、そんな土岐が生まれて初めて自分から手に入れたいと願って、失いたくないと足掻いて手にした希少な存在だ。
だからこそ、今まで蓄積してきた豊富な経験は何一つ役に立たない。
土岐は、かなでをどんなふうに扱えば、失わずに済むのかが分からない。
(教えてもらうんは、どっちなんやろ)
かなでの真っ新な恋愛の辞書に、土岐は初めて痕を記す。
これまでに培った経験を踏まえ、かなでにその手順を教えていく。
だが、本当は。
恋によるかけがえのない幸福と、それに伴う喪失の恐怖とを。
真実の意味で土岐に教えるのは、かなでの方なのかもしれない。
「……ええと」
腕の中のかなでが身じろいで、土岐はふと我に返る。見下ろすと、土岐にされるがままで抱き締められていたかなでが、斜めに振り返り、上目遣いに土岐の目の中を覗き込んだ。
「……じゃあ、土岐先輩に隣にいてもらえばいいんじゃないかと思います」
「え?」
意図が掴めずに土岐が問い返す。
少しだけ怒ったような表情で……でも頬をほんのりと暖かなピンク色に染めたかなでが、きっぱりと言った。
「私が他の男の人に土岐先輩みたいなことされないように、先輩が私の隣にいて見張っててくれればいいと思います」
素直で裏表のない、土岐の真新しい恋人は。
時折、それなりの恋愛遍歴を重ねた土岐の常識を凌駕して。
思ってもみないことを教えてくれる。
「……成程、それはええね」
思わず笑い出しながら、土岐は答える。
笑われることが心外なようで、かなでが増々不満げな顔をした。
「ええね、小日向ちゃん。あんたが構わんのなら、そうしようか」
他の男が入り込む隙間もないくらいに、彼女の傍で土岐が永遠に息づいてみる。
……彼女の持つ危うい隙を、土岐という存在で埋めてみる。
きっとそれは、土岐にとって他の何にも変えることのできない幸福だ。
「……そうやね。小日向ちゃんは俺がつけ込む隙くらい、持っててくれんと」
そうでなければ、何一つ。
この少女に勝るものを、土岐は持てないだろうから。
「ええアイディアをくれたお礼に、俺も一つ教えとこか」
土岐は長い指先で、柔らかな曲線を描くかなでの頬を撫でる。そっと掌でその頬を包み込むと、かなでが不安げな顔で小さく瞬いた。
本気の恋というものは、かなでと共に一つずつ、二人で一緒にその本質を学んでいく。
でもだからと言って、土岐がここまで重ねてきた経験を、敢えて無駄にすることはない。
「……小日向ちゃん。キスするときは、ちゃんと目ぇ閉じてな」
呼吸が触れそうな位置でそう囁くと、かなでが慌てたようにぎゅっと目を瞑る。
楽しげに笑いながら、土岐はそんな彼女の震える瞼に、労わるように口づけて。
そうして、ゆっくりとその唇に、触れるだけのキスをする。
その可愛らしい口づけが。
かなでの真っ新な恋愛経験の一ページ目に、土岐が最初に刻む痕。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.10.26 加筆修正:2016.7.9】
掲載時にかなでの土岐の呼称を「土岐さん」にしてたんですが、アナザの時は先輩呼びするんだったー!(自分内設定)っと、みみっちく修正しました。
土岐って、リクエストもらうことも何故か多くて、書いてみたいキャラではあったんですけど、あの方言がですね……難しくて。脳内で土岐の中の人に喋ってもらいつつ、何とか書いてみました。もし地元の方で「この使い方はおかしい!」と気付くところがあったら、突っ込んでいただけたら幸いです。
話の内容としては、「あ、土岐っぽい気がする」という自己満足(笑)


