君の声が聞こえる

土岐→かなで
【Another sky 神南 Ver.】

 幼い頃、眠ることが怖かった。
 体が弱かった土岐にとっては、死というものが大げさではなくいつも身近に在ったせいだ。
 体調を崩して横になるたび、もう明日目覚めることはないのかもしれないという、漠然とした不安がいつも胸の中に存在していた。
 年を重ねるごとに身体も精神も成熟し、あの頃よりはそれなりに強くなったはずの今でも、その不安は時折思い出したようにふと浮かび上がり、土岐の心を脅かす。
 例えば気分が優れないときに眠りにつくと、体が暗闇に深く沈んでいくような感覚がある。
 たどり着いた地底深くは思いのほか心地よく、痛みも恐怖もない。
 そうすると、もうこのままでいいと、幾分投げやりな思いを抱く。

 現実に立ち戻り、また改めて死の恐怖と向かい合うのは辛いから。
 もう、誰も自分のことを呼ばないで。
 ……このまま、永遠に眠らせて欲しい。


「……先輩、土岐先輩!」
 急激に、深い眠りから呼び起こされる。
 はっと目を開くと、無邪気な眼差しが土岐の顔を覗き込んでいた。
「……小日向ちゃん」
 起き抜けながら、思考ははっきりとしている。
 覗き込んでいる人物の名を間違えることなく読み上げ、土岐は気だるげに上げた片手で、額にかかる前髪をかき上げた。
「……何やの、せっかくええ気持ちで寝てたのに」
「ていうか、部室のソファで本気で寝ちゃったら駄目ですよ。居心地いいのは認めますけど、そのうちホントに風邪ひいちゃいます」
 まだ編入後数週間しか経過していないはずの新入部員は、副部長である土岐に対しても物怖じせずにずけずけと物を言うようになった。部長の東金と副部長の土岐から、毎度面倒を押し付けられている彼女と同学年の芹沢の教育の賜物かと思いきや、当の芹沢は「俺が指示したわけでなく、あなた方にはある程度強気で対応しないと、振り回されるだけなので、おそらく小日向さんの自己防衛本能が働くんですよ」と涼しい顔だ。
 仕方なくゆっくりと土岐がソファに体を起こすと、ようやく安堵したように息をつき、かなでが笑った。
「それに、起こさなかったらまた土岐先輩怒るでしょう?」
「『また』?」
 目の前の後輩に不用意に怒りをぶつけた覚えはない。『怒る』という感情の起伏すら面倒に思うのだから、彼女相手じゃなくても土岐は怒った記憶がない。別の誰かの話ではないかと他人事のように考えていると、両手を腰に当てたかなでが、拗ねたように唇を尖らせた。
「ほら、前に寝てる先輩起こさずに私がお茶してたら、自分ばっかりお茶してずるいわって言ってたじゃないですか。だから、今度はちゃんと起こしたんですよ」
 ……それは、他愛ない日常の戯れだ。
 確かにそんなことを言ったことがあったかもしれない。そんな会話を交わしたのが、はっきりいつだと言えるわけではないが、そんなこともあったかと思えるくらいには心当たりのある、日常的な些細なこと。
 彼女は、そんな些末事をいちいち丁寧に拾い上げて、大事に胸の中に抱いている。
 どちらかと言えば刹那的に生きている土岐にとって、小日向かなでという少女のそんな生き方は、可笑しくもあり……そして、眩しくもあるのだ。
「俺とお茶したいから、わざわざ起こしてくれたん? 小日向ちゃん、かわええなあ」
 わざとからかうような言葉を告げてみれば、かなでは分かり易く真っ赤に頬を染める。
 そういうんじゃありません!とムキになって真っ向から否定するのも、今まで土岐の周りにはいなかったタイプで、新鮮だった。

(……物珍しい、だけで済ませてしまわんとなあ)
 心の中で、そんなことを土岐は思う。
 漠然とした予感がそこにはある。
 小日向かなでという存在は、これまで土岐が息づいていた世界の中に存在しなかった異分子だ。
 いざ切り捨てる時に惜しまずに済むよう、世間にどこか一歩引いた形で対峙していた土岐に、世界にきちんと足をつけて生きるかなでは、全く違う風景を見せる。
 ただ、傍にいてくれるだけで心地良い。そんな存在をこれまで土岐は知らなかった。


 眠りの奥底、深い闇の中。
 もう、このままでもいいと諦めそうになる心に、土岐の名を呼ぶ声が光を射す。
 今まで出逢った誰の声も、土岐を目覚めさせることは出来なかった。
 それは、幼い頃から行動を共にしてきた、東金でさえ。
 でもこの心地よい存在の少女の声が耳に届けば、土岐の意識は光を求めてしまう。
 彼女の生きる場所に、……本来ならば土岐も生きるべきその場所に、『還りたい』と思える。


「あの、お茶請け焼き菓子なんですけど食べられます? 一応男の人でも食べやすいように、甘さは控えめにしたつもりなんですけど」
「……小日向ちゃんが作ったん?」
 テーブルの上にいれたてのダージリンティーと、手作りのフィナンシェを並べ、かなでがはにかんで俯いた。
「あの……芹沢くんが『部長と副部長は名の通った洋菓子店のお菓子は、あらかた食べ尽くしていて、舌が肥えているからお茶菓子探すのに困る』ってよく話してたから……当然、そういうところの味に敵うわけじゃないですけど、ちょっとは目新しいかなって」
「へえ……どれ」
 ひょいとフィナンシェを指先で摘み上げ、一口サイズにちぎったものを口の中に入れてみる。バターの風味が口の中に広がり、謙遜するほどに不味いものではない。……むしろ、有名店に引けを取らないくらいに充分に美味しくできている。
「謙遜せんでもええやん。めっちゃ美味いで」
 そう褒めてやると、不安そうに土岐を伺っていたかなでの表情が、目に見えて嬉しそうに明るく輝く。
 ……その、素直な可愛らしさが。
 土岐の頑なな心を震わせる。

 今まで、絶望しか見えていなかった深い眠りの底の闇に。
 まるで光のように、彼女の声が届く。

 その声が聞こえるたびに、目覚めて彼女の傍で共に生きていきたいと。
 ……このまとわりつくような闇から抜け出したいと。
 生まれて初めて土岐は心から願うようになった。

 そんなふうに、彼女が土岐に希望を与えてくれる存在だからこそ。
 彼女のことを想うなら、ただ物珍しいという気持ちのままで、終わらせてやらなければならないと土岐は思う。


 物珍しさが、いつか本当に愛おしさに変わってしまったら。
 きっと土岐は、かなでをこれ以上にないほどに。
 ……自分の元に束縛せずにはいられなくなってしまうだろうから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.11.27 加筆修正:2016.7.9】

内容自体は早い時期に出来上がっていたんですが、落としどころというか……結論をどういう形に持って行くかで悩んで、なかなか掲載に持って行けなかった話です。
とりあえず書けるところまで書こうと書いてみて、逆にこれ以上付け加えていくと蛇足になるなあと、思い切ってわざと中途半端に終わらせてみました。
土岐のこういう感情はもうちょっと練って書いてみたい気はします。

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