そのただならぬ様子に、書類の整理をするためにデスクに向かっていた冥加は、眉間に皺を寄せつつ立ち上がり、大きなストライドで広い自室を横切ると、ドアを開いて廊下の様子を伺う。
冥加の視線の先で、実妹の枝織が慌てた様子でリビングから客間の方へ駆けていくのが見えた。いったい何事かと見守っていると、冥加が部屋から出てきたことに気付いたのか、一旦冥加の視界から消えた枝織が、もう一度戻ってくる。
「……兄様! お仕事はもうよろしいのですか?」
「ああ、一段落付いた」
本当は、今日中に片づけなければいけない作業はまだ残っていたのだが、それは枝織の就寝後に手を付けても充分に事足りる。それよりも、普段しとやかな妹の珍しく狼狽した様子が気にかかった。
「どうした、何かあったのか?」
尋ねると、枝織がどこか安堵したように息を付き、険しかった表情を緩ませた。
「急にすとんと眠ってしまわれて」
枝織に誘われて冥加がリビングに足を踏み入れると、そこには一人掛けのソファの上に器用に手足を丸めて寝入っている小日向かなでの姿があった。
夕方キッチンで枝織と共に、何か賑やかに談笑しながら料理をしているのには気が付いていた。その過程を経て出来上がった冥加の好物であるグリーンピースのスープも、冥加が仕事のために引きこもっていた自室に、枝織の手で届けられた。
かなでが枝織の元に遊びに来ることは、ここ最近では頻繁だった。だからこそいつも通りに、寮の門限に合わせて帰宅したものだと思っていた。
「夕食の後、紅茶を淹れてお菓子を食べながら、ただおしゃべりをしていただけなんです。でも突然静かになったと思ったら、もうこの状態で……」
困ったように俯き、枝織が説明する。
かなでが暮らす星奏学院の寮、菩提樹寮の門限が21時であることは、枝織も以前に聞いていたので、せめて門限ギリギリの時間まで眠らせておこうと考えたのだが。
「何度か起こしてみたのですが、とても深く寝入っていらっしゃるみたいで……秋の文化祭に向けて、ずっと根を詰めて練習をしていらっしゃったみたいですし、かなでさん、きっとお疲れなのですわ」
それならば、いっそ自ら目を覚ますまで寝かせておいた方がいいのかもしれないと、枝織は客間にブランケットを取りに向かうところだったのだ。空調は適温に設定しているが、そのままでは風邪を引かせてしまうし、いくらかなでが小柄な方であっても、枝織が彼女を客間に運ぶことはできない。
「ならば、さっさと俺を呼べばいいだろう」
「兄様はお仕事がありますもの。かなでさんも、兄様のお邪魔をしないようにと気を使っていらっしゃいましたし……。それに、そもそも兄様がこちらが言わずともきちんとかなでさんに会いにリビングにいらして下されば、きっとこんな事態には」
「……分かった、もういい」
どうやら地雷を踏んだらしい。自分にとって不味い方向へと向かいそうな話の矛先を、冥加は片手を上げて制した。
視線を上げて時計の文字盤を確認すると、あと数十分で菩提樹寮の門限だという21時を回るところだった。
「枝織、星奏の寮の連絡先は分かるな?」
「ええ。一度かなでさんからお聞きしたことがあります」
「ならば寮長の如月に、今夜は小日向が戻れないことを伝えておけ。……俺は、小日向を客間へ運んでおく」
「分かりました」
枝織が頷き、玄関の傍に設置している固定電話に向かう。枝織が部屋からいなくなったのを見計らい、再度冥加は眠り込んでいるかなでを覗き込む。
……成程、根を詰めているというのはあながち嘘ではないのだろう。寝息は規則正しく落ち着いているが、眉間に軽く皺が寄り、その柔らかそうな頬は仄かに赤く染まっている。傍らに身を屈め、片手でそっと額に触れてみると、幾分熱っぽいような気がした。
もしかしたら、眠りに落ちたというよりもむしろ、体調不良で気を失ってしまったのかもしれない。
「……小日向」
念のため呼びかけて身体を軽く揺すってみるが、かなでの反応はない。もう一度背後を振り返ると、開いたドアの向こうで、枝織が菩提樹寮の如月律に電話をかけている声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「……世話が焼ける」
一人ごちて、冥加は両腕に軽々とかなでの身体を抱え上げた。
……冥加からではなく、枝織に菩提樹寮への連絡をさせた理由は二つある。
一つは、枝織からの連絡を受けるのが如月律であるならば、如月は余計な詮索をせず、枝織の説明を鵜呑みにするということだ。
枝織はかなでが寝入ってしまったので、今日はうちに泊まらせるという事実を伝え、如月はかなでが『枝織の家』に泊まることになったと寮生に伝える。この二人間のやり取りであれば、『冥加玲士』という存在は、あってないようなものだ。
これが弟の如月響也相手なら、おそらく彼は真っ先に冥加の存在を思い出すであろうし、もう一つのルート……一応は冥加の従兄妹という間柄になる支倉仁亜を使えば、女子寮のみに話が伝わるという点では手っ取り早いが、次に支倉と顔を合わせた時に面倒な事態になることは目に見えている。
そしてもう一つは、……かなでを抱きかかえる自分の姿を枝織の目に映さないためだった。
大切な妹がかなでを慕い、冥加の幸せを願っているからこそ、事あるごとに冥加とかなでの仲を進展させようと画策していることを知っている。もちろん年相応の微笑ましい策略なので、冥加がそれに引っかかることはないが、かなでを抱き上げる冥加の姿を目にして、はしゃぎ回る妹の反応は容易に想像がつく。妹に付け入る隙を簡単に与えないことは冥加にとって重要なことだ。
枝織が電話を終えて戻って来る前に、冥加はかなでを抱えてリビングを後にした。
華奢な身体は、冥加の胸に抵抗なく預けられている。
普段あまり使用することがない客間へと難なくかなでの身体を運ぶと、冥加はベッドにかなでの身体をそっと横たえた。
細い四肢が真っ白なシーツの上に、無防備に投げ出される。
(……この細い腕が『あの』ヴァイオリンを弾く……)
白く細い、この頼りないかなでの腕が、冥加を心を圧倒するあの音色を生み出すというのは、にわかには信じがたい。だが、確かに目の前にいるこの存在が7年という長い間、冥加を捕らえ続けて離さなかった存在だった。
あの出逢いの日から7年間。冥加にとってかなでは、ただ憎悪の対象でしかなかった。だが、今になって思い返せば、あの焼け付くような想いは、本当に憎悪だけで形作られていたものだったのだろうかと疑問になる。
(結局あの時から、俺の貴様への執着は変わっていない……)
この執着心に何という名が付くのかは、分からないが。憎しみなのか、……それとも。
ただ一つ言えることは、冥加が音楽という道を志す時、いつでもかなでの存在が根底にあったということだ。
かなでに与えられた屈辱を、そのままかなでに突き返してやりたい。その思いがこれまで冥加を突き動かしてきた。
そしてその復讐心がなくなり、別の想いに変化した今でも、変わらずに冥加はかなでに捕われたままだ。それだけが、今も変わることのない冥加の想いだ。
……そして、おそらくはかなでも。
冥加ほどに複雑に絡み合い、濁ったものではないのだろうが、それでも確かにかなでは今、冥加に対峙するためにヴァイオリンを弾いている。
冥加に負けないために、対等であるために。
そのためだけに、かなでは体調を崩すほどの、周りが無理・無茶と言ってしまえるような過酷な練習を続けている。
……そして、それは冥加にとって、言葉では言い尽くせない幸福でもある。
(無理をするなと言っても、大人しく聞く貴様ではあるまい)
冥加も、面と向かってそんな優しい言葉をかけてやるつもりは毛頭なかった。
冥加の執着と同じ強さで、かなでは未来永劫、冥加を求め続けなければならない。
冥加玲士を捕らえ続けるのが小日向かなでであるならば、小日向かなでを突き動かすのは、冥加玲士ただ一人でなければならないのだから。
(俺が貴様を求め続けるように、貴様も俺を乞い続けるがいい)
愛だとか、恋だとか。そんな感情は分からない。
ただ、偽りのないこの想いも、確かに一つの『情』であることは間違いがないのだ。
……だからこそ。
「……おやすみ」
小さく、小さく。
かなで以外に届くことがないよう、低く小さな声で。
冥加はかなでの額にそっと掌を乗せ、その耳元に囁いてやる。
労わるように触れた掌の隙間から、柔らかな曲線を描く額に口づけた。
無理をするなと言っても、簡単に聞き入れることはないのであろうし。
万が一素直に聞き入れて、自分と共に競い合う手を緩められても困る。
だからこそ、不意に訪れたほんのわずかな休息は。
余すことなく、味わい尽くせばいい。
そしてそれは、願わくば。
この自分の手の届く場所で。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.10.11 加筆修正:2018.10.3】
冥加を思い浮かべるとギャグ要素しかないのに、結構恋愛ベタベタなお題が回ってきて、ひとり「……orz」となってました(笑・書くのは自分だけだと分かっていたもので)
開き直って書いてみれば、結構冥加はどれもこれもがベタ甘になってしまった気がします。
でも、実は冥加ファーストでは?と疑わしい友人にそれなりに気に入ってもらえたみたいだから、成功だと思ってます(笑)
冥加さんは言葉はデレないけど、態度がデレればいいんだと実感した。


