With you

冥加×かなで

 通常より幾分か早い時刻に自宅のマンションへとたどり着きタクシーから降りると、冥加玲士は徐に携帯を取り出した。先ほどから何度かマナーモードの携帯が震えているのに気が付いていたが、おおよその発信源が分かっていたのでそのまま放置していたためだ。
 仕事関係の連絡であれば、冥加本人の前にまず秘書的な立場にいる御影に連絡が入ることが多く、また私的な用件で冥加に連絡を取ろうとする人間はおそらく片手で数えられる程度しかいない。室内楽部の部員でも、天宮と七海、前・チェリストの氷渡以外は、冥加の連絡先すら知らないはずだった。
 ならば、冥加個人の携帯に連絡をする相手は限られてくる。
「じゃあ玲士くん、また明日ね」
「ああ」
 決まり文句を告げた御影の乗ったタクシーが走り去っていくのを気にも留めず、冥加は己の携帯の画面を確認する。電話の着信はないが、メールの着信が数件。冥加の予想通り、それはすべて妹の枝織からのものだった。
(雨か……)
 最初のメールは、学校の委員会で会議が長引き、いつもの帰宅時間より帰りが遅れるというもの。その後は急な夕立のため帰宅が出来ず、しばらく学校で雨宿りをし、様子を見てから帰宅するというものだった。
 確かに先ほどから重い色の雲が立ち込め、雷鳴と共に激しい雨が降り出していた。タクシーはきちんとマンション玄関ポーチまで乗り入れていたので、冥加に何ら被害はない。あまりに長く降り続けるようならば、枝織には迎えの車を手配しなければならないと思考を巡らせつつ、入口の自動扉をくぐろうとすると、傍らから不意に声が上がる。
「……あ」
 聞き覚えのあるその声に冥加が視線を上げると、記憶通りのその声の持ち主が、嬉しそうに表情を輝かせた。
「冥加さん、こんにちは!」
 今お帰りですか?と尋ねる小日向かなでの制服は、豪雨の被害を受けてはいなかったが、わずかに湿っているように見えた。
 降り始めは数分前だったから、本降りになる前に何とか建物内に逃げ込めたのだろう。
「……何故、お前がここにいる」
 一般の形通りの挨拶を返すことはなく、かなでの存在を認めた途端、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた冥加が尋ねる。そんな冥加の不遜な態度を一向に気にした様子はなく、かなでは屈託なく笑って答えた。
「枝織ちゃんに借りてた本を返しに来たんです。ちゃんと約束してたんですけど、枝織ちゃん、部屋にいないみたいで。インターホン鳴らしても応答がなくて、困ってたところだったんです」
 冥加と関わり合いのないところで、妹とこの目の前の少女が親しく付き合っていることは知っていた。必要最小限の連絡しかしない冥加とは違い、枝織はそういう連絡事項には細かく気を配る方なので、先ほど冥加に届いたようなメールが、かなでの携帯にもおそらく届いているはずだ。
「……枝織は夕立に遭って、雨がやむまで校舎を出られないと俺に連絡してきている。約束があったのならば、お前にも連絡をしているはずだが」
「えっ」
 ホントですか?と慌てたかなでが、自分の荷物から携帯電話を引っ張り出す。冥加の予想通り枝織からのメールが届いていたのだろう。「本当だ」と小さく呟き、自分の携帯に届いた枝織のメールの文面を確認し始めた。
 その時。
「きゃっ!?」
 小さく悲鳴を上げたかなでが、その場にうずくまった。
 突然のかなでの反応の意味が分からず、冥加は小さく瞬いて足元のかなでを見下ろした。
 すると、かなではまた悲鳴を上げて身をすくめる。
 冥加はふと自分たちの周囲を見渡して……そして、どこか愕然とした口調で呟いた。
「小日向……まさかお前」
 雷が怖いのか?と冥加が尋ねる。
「冥加さんは、雷怖くないんですかぁ?」
 情けない声で答えながら、うっすらと涙を浮かべたかなでは、上目遣いに冥加のことを見た。


「すみません。ご迷惑をおかけします……」
 恐縮したかなでが、玄関先で小さくぺこんと頭を下げる。冥加はどこか不機嫌そうな態度のまま、かなでの方を見ずに自宅のリビングへと踏み込んだ。
「フン、あの状態のお前をそのまま帰しては、後で枝織に何を言われるか分からん。……だが、雷が止んだら、早々に立ち去れ。いいな」
「はい」
 心なしか、嬉しそうなかなでが大きく頷く。
 それを一瞥した冥加は、そのまま自室へ戻ろうとするが、ふと何事かを思いついて、かなでを振り返った。
「……枝織の客にもてなしの一つもなしでは格好がつかん。だが、俺がお前に直々に茶を入れる義理もない。喉を潤したければ、勝手にキッチンを使え」
 それは冥加なりの最大限のもてなしのつもりだが、対してかなでが放った一言は冥加の想定外のものだった。
「え、でも、おうちの方がいらっしゃるの差し置いて、私だけお茶するわけにはいかないです。冥加さんの分もご用意しますから、一緒にお茶しましょう?」
 小日向かなでという少女は、普段はどこかのほほんとした印象だが、変なところで芯の強さを発揮する。冥加は思いつく限りの言い訳を並べて、かなでとのティータイムを回避しようと努力するが、最後にはかなでの
「お仕事忙しいのは分かりますけど、お茶一杯飲むくらいの時間休憩したって、冥加さんなら取り戻せると思います。それとも、ほんの数十分も休めないくらいお仕事の量、多いんですか?」
 という一言で、折れた。
 かなでとしては、休憩も取れないくらいに忙しいのかという心配からだったのだが、冥加にしてみればそれは、数十分の休憩時間も捻出できないくらいに仕事の能率が悪いのかという、ある種の挑戦状のような一言だったのだ。

「冥加さんはブラックコーヒーで、私は……あ、このゆず茶いただいちゃっていいですか?」
 冥加に好きなように使っていいと言われたキッチンで、かなでは迷いなく戸棚や冷蔵庫を開き、必要なものを取り出していく。枝織と何度かお菓子作りや料理をするうちに、物の配置を覚えてしまっているのだ。
 かなでが自分用に取り出したゆず茶も、実は冥加兄妹の健康対策用にこっそり自作して、枝織公認の元、冷蔵庫の一角に配置したものである。中身の減り具合から言って、おそらくは消費しているのは枝織だけなのだろうけど。
(冥加さん、放っておくと無茶しそうだしなあ……)
 かなでは枝織に会いに割に頻繁にこの家を訪れているが、冥加と遭遇することはあまりない。それだけ多忙に過ごしているのだろうが、不調という名の弱みを絶対に外には見せないであろうことが容易に想像できるだけに、冥加の体調が気にかかる。枝織もその辺りのことは承知の上で、かなでの冥加への小さな差し入れを許してくれているのだ。
「どうぞ」
 憮然とした表情でソファにふんぞり返る冥加の前に、かなでが湯気の上がるコーヒーカップを置く。自分はどこに座ろうかと逡巡して、おそるおそる冥加が座っている場所から人二人分くらいの距離を置いたソファの端っこに、ちょこんと浅く腰かけた。
 冥加の向かい側に、きちんと一人掛けのソファがあるのだが、窓越しに明滅する雷鳴が恐ろしく、対面でいるより少しでも人の気配を感じ取ることが出来る距離にいたかった。距離としては遠いように見えても、同じソファに腰かけていれば、ソファの素材を通じて冥加の動きが微かにかなでに伝わる。その方が、確実に冥加がここにいるという現実を感じ取れて、安心できた。
 窓の外の雷の様子が気になりながらも、かなでは自分用のゆず茶を一口含む。甘酸っぱいゆずの風味が広がって、美味しかった。かなではようやく、ほうっと小さく息をついた。
 ちらりと横目で冥加の様子を伺うと、相変わらずの仏頂面の冥加が、それでもかなでが淹れたブラックのコーヒーを飲んでいる。本当はもう少し体に優しい……それこそ自分の飲んでいるゆず茶や、野菜ジュース……ホットミルクのようなものを選んで飲んで欲しかったのだが、冥加が固辞することは目に見えていたので、無駄な努力はしなかった。
 落ち着いてお茶を飲むという休息時間を取ってくれたので、この場はとりあえず良しとする。


 冥加は何も話さない。
 かなでも、何も言わない。
 ただ、お互いが身動きするたびにソファの軋む音と、カップとテーブルが鳴らし合う音色。
 遠くに、雷鳴の音。
 そんなわずかな音だけが、今二人が知覚する音楽だった。
 それでも先ほどとは違い、雷鳴をあまり恐ろしくは思っていない自分にかなでは気が付いた。
 確かに防音の施されたこの部屋では、外界の音はとても遠くて、小さな雷鳴が届くのみ。それでも外界は絶え間なく明滅しており、この場に落ち着くまでは確かにそれが怖かったはずなのに。
(……もしかしたら冥加さんのおかげ、かな)
 会話はない。
 触れ合うことも。
 それでも何故か、冥加がそこに。……かなでの傍にいてくれるだけで、とても安心できる。
「……小日向」
 ふと、冥加がかなでの方に視線を向ける。
 その眼差は、……気のせいかもしれないが、少しだけいつもより優しい気がした。
「雷は恐ろしくなくなったのか?」
 玄関先であれほど怯え、キッチンに立っている時も、窓から差し込む雷光にびくびくする気配を見せていたかなでが、ソファに座った途端、落ち着いたことに冥加は気が付いていた。
 ……つまり、それほどまでに自分がかなでを気に掛けていたという事実に、冥加自身は気が付いていない。
「えっ!あの、怖くなくなったわけじゃない、んですけど」
 「大丈夫です」と答えて「ならば出て行け」と言われてはたまらない。
 かなでは慌てて否定しながら、それからふと、頭の隅で考える。
(でも本当のこと言っても、大丈夫なんじゃないかな)
 冥加が、本当はきちんと誰かを労わる優しさを持っているということを、あの出逢いの日からずっと、かなではちゃんと知っている。
「冥加さん、あの。……もうちょっと、近付いてもいいですか?」
 かなでの一言に、反射的に冥加はコーヒーを噴き出しそうになる。そんな冥加に構わず、かなでは先程よりも人ひとり分の距離を縮めて、改めて冥加の隣に座り直す。
「こ、小日向。お前、いったい何を……!」
 手の甲で口元を拭い、何か抗議めいたことを言いかけた冥加に、真っ直ぐに向き直ったかなでは、にっこりと笑いかけた。

「私、冥加さんが近くにいてくれるなら。きっと雷も怖くないんです」

 何かを語るでもなく。
 触れ合うでもなく。
 視界に収まる位置に。
 呼吸を感じる位置に。
 ただ一緒に、いてくれるだけで。

「……勝手にしろ」
 しばしの沈黙のあと、ぽつりと冥加が呟いてかなでから視線を反らす。

 その後、何気ない雰囲気を装い、人ひとり分の距離の縮めるようにソファの上に投げ出された冥加の手に。
 かなでは、同じように手を伸ばし。
 その骨ばった大きな手の甲に、そっと指先で触れてみた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.10.11 加筆修正:2016.7.3】

冥加って素直じゃないなあ……(溜息)
掲載時は冥加はかなでのことを「貴様」と呼んでいたんですが、エンディング後ならもう少し優しくなっているかなあと「お前」呼びに修正しています。
あ、一応当サイトではエンディング後の冥かなは普通に恋人設定ですよ。まったくそういう雰囲気じゃないにしても。
最初は吉羅みたいに恋人になるまでの猶予期間があるのかと思ってたら、どっかのおまけイベントで冥加本人が「お前とこんな関係になるとは」とか言っちゃってたんで(苦笑)

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