共に朝を迎えたい

天宮×かなで

「……ねえ、小日向さん」

 まるで世間話の続きのような口調で、天宮は「今日は家に泊まっていかない?」とかなでに話しかけた。ほとんど使用している感じがしない小綺麗なキッチンで、二人分の紅茶を淹れていたかなでの手から、仄かな湯気を上げるティーポットが滑り落ちる。
 がちゃ、とポットとテーブルがぶつかり合う高い音が響き、かなでは「あわわわ」と声を上げて、慌てて持ち上げたポットとテーブルとが壊れていないかを確かめた。
 明らかに値が張るものであろうどちらにも、幸い傷は見受けられなかったので、かなではほっと安堵の息を付き、それからおもむろに背後を振り返る。かなでの動揺を誘った人物は、何食わぬ顔でピアノに向かったまま、先ほどからずっと音楽になりきれない細切れの音階を指先で紡いでいた。
「……今、何て言ったんですか?」
 聞き間違いかもと思い、かなではあえて天宮に尋ね返してみた。一つ瞬きをした天宮が涼やかな眼差しをかなでに向けて、小さく微笑んだ。
「あれ、もしかして聞こえていなかったのかな」
 聞こえるように言ったつもりなんだけど、と天宮が一人ごちる。
 ピアノの前から立ち上がり、わざわざかなでがいるキッチンにやって来た天宮が、笑みを浮かべてかなでの顔を覗き込み、あっさりと言った。
「今日、泊まっていかない?って聞いたんだけど」
 せっかく持ち直したティーポットを、再度かなでが取り落す。「……反応がさっきと同じだね」と天宮が感心したように呟いた。
「やっぱり、ちゃんと聞こえてたんじゃない。聞こえてない振りするなんて、酷いな」
「だ、だだ、だって!」
 紅茶を注ぐことは一旦諦めて、かなでは安定した場所にポットを置き、天宮を上目遣いに睨む。かなで本人は精一杯の威嚇のつもりなのだろうが、頬を真っ赤に染めてふくれっ面で天宮を見上げるかなでは、とても可愛い生き物としか天宮には映らない。
「……と、泊まるとか! そういう大事な事、どうでもいい世間話みたいに簡単に言わないで欲しいです」
「僕だって別に軽い気持ちで言ったわけじゃないよ。単純に、いいと思ったんだけどな。君と二人で一緒に朝を迎えるのって」
 確かに天宮にも過去には両親と呼べる存在も尊敬の念を抱く存在もあった。
 それなのに何故だろう。振り返ってみる自分の過去には、いつだって寄り添う誰かの影がない。
 かなでに出逢う前は、考えたこともなかった。
 独りで時を過ごすことは、天宮にとってごく当たり前のことで、ただ生活の中にピアノが、音楽があって。それだけが天宮が生きる世界の全てだった。
 そんな生活があまりにも当たり前過ぎていて、天宮はそれが『孤独』と呼ばれるものであることすら知らなかった。
 だが、かなでに恋をして。二人で過ごす時間が少しずつ増えていって。
 ピアノを弾く時、食事をする時、街を歩く時、この部屋で過ごす時。
 天宮の日常の中には、今、違和感なく『小日向かなで』という存在が溶け込んでいる。
 ならば、一日を終えて眠りにつく時にも。
 深い眠りの奥底から浮上して、新しい夜明けを迎える時も。
 もしそこに、かなでがいてくれたなら、どんなに幸せなのだろう、と。
「ただ、そんな幸せな気持ちを僕も知ってみたいと思っただけだよ」
「天宮さん……」
 困ったように眉をひそめ、かなでがじいっと天宮を見上げてくる。
 天宮はあえて何も返さず、そんなかなでの眼差を見返した。……素直で、純粋な彼女が導き出す答えを、天宮はもう知っている。
「……もし、私がここに泊まって、二人で一緒に眠って。それで天宮さんが幸せな気持ちになってくれるなら、私……」
 ぎゅ、と両手を握りしめ、重大な決意を語るように、かなでは一言一言をはっきりとした口調で紡いでいく。
 天宮を幸せにしたい一心で決断するその潔さは、愛すべきものだけれど、おそらく彼女は天宮が本当に望むことにはたどり着いていない。
「本当に、泊まっていってくれるの? 小日向さん」
「はい、あの。……要するに天宮さんと一緒に眠ったらいいんですよね?」
 伺うように首を傾げたかなでに、天宮は何だか笑い出したいような。
 ひどく、苛立たしいような。
 ……そんな、よく分からない複雑な気持ちになる。

(本当に、君という存在は、僕にいろんな感情を教えてくれる)

 それは、かなでに出逢う前の、他人に関心を抱かない、ただ自分のピアノの音だけが全てだった頃の天宮には、生まれることのなかった気持ち。
 一番認めて欲しい人に評価されない自分の音をどうにかして変えたくて、『恋』を教えて欲しいとこの目の前の少女に頼んでみたのは、確かにただの気まぐれだった。
 心の奥では、自分が本当の意味で『恋』を知ることはないだろうと高をくくっていたのに、その予想はかなでによって見事に裏切られた。
 そして未来永劫変わることがないと、いつしか天宮自身が諦めていた天宮の音色も、本当にかなでは変えてくれたのだ。
 これまで天宮が無造作に取りこぼしてきた、人が人として生きていくために必要な感情を、かなでがもう一度天宮に教えてくれる。
 今まで誰も与えてくれなかったその機会を、つい数か月前に出逢ったばかりのかなでが与えてくれるのだ。
 だから、この出逢いは『運命』だと天宮は思う。

(ねえ、小日向さん。知っていた?)
(人が当たり前に持っているはずの『劣情』すら)
(僕は生まれて初めて、君から教えられているんだよ)


 かなでが瞬きをする隙に、柔らかいものがふと唇に触れる。
 熱くて、少し乾いていて。かなでとは全く違う感触の、それでいて同じもの。
 ぱちぱちと、もう一度かなでが細かい瞬きをする。
 いつの間にか息がかかるほど近くに、天宮の端正な顔があった。
「『眠るだけ』……なわけないじゃない? 僕は聖人君子じゃないんだよ」
 人並みに、女性に触れたいという欲求だってあるんだよ、と。
 天宮は意地悪く笑った。


「も、物事には順序というものがあって!!」
 突然のキスの後、天宮はかなでが淹れてくれた紅茶を味わいながら、彼女の可愛いお説教を延々と聞かされる羽目になった。
「一足飛びで、そ、そういうことになったらダメなんです! ちゃんと段階を踏んでいかなきゃいけないんです!」
「……ふうん。じゃあちゃんと段階を踏んでいけば、小日向さんはそのうちここに泊まっていってくれるんだ」
「ハイ。……や、そうじゃなくて! 揚げ足取らないで下さい! そういうことを言ってるんじゃないんです!」
「いつか泊まっていってくれる気はないの? 僕と段階を踏んでいくのは嫌なんだ?」
「だから、そーじゃなくって!!」
 怒ったり、照れたり、拗ねたり、笑ったり。くるくると目まぐるしく変化するかなでの表情を眺めているのは実に楽しいのだけれど。
 それでも天宮が彼女へと抱く想いは、一時の気の迷いなどではないので。

「じゃあ、ちゃんと覚えていて。……僕は、誰かと共に朝を迎えるなら、他の誰でもなく、君と一緒がいいんだってことを」

 ただ、からかっているだけではなく。
 根本にはかなでへの恋心があることを、彼女にはちゃんと理解していて欲しい。


 天宮の言葉に、一瞬息を呑んだ後。
 かなでは、まだどこか拗ねた口調で。
 ……それでも柔らかな曲線を描く頬を桜色に染めて。
 「……わ、分かりました」と、小さく頷いた。


「じゃあ、今日は遅くならないうちに菩提樹寮まで送っていこうか。あまり遅くまで君がこの部屋にいると、本当に帰したくなくなってしまうしね」
「だから、そうやってからかうのは止めてくださいね!」


 玄関ポーチで帰り支度を整えるかなでを見つめながら、ふと天宮はあることに気が付いた。
「そうか、君に早くこの部屋に泊まっていってもらうためには、まず段階を踏まないといけないんだよね」
「あのう……段階踏めば良いって言ったんじゃないですからね。ちゃんと私の意志を尊重してくださいね」
「……心外だな」
 かなでの抗議に、本当に不本意そうな口調で天宮は呟く。
 珍しい天宮の反応に、かなでが首を傾げた。

(君にずっと僕を好きでいてもらうために、君の意志を蔑にするようなことはしない)

 共に幸せな朝を迎える、そのためには。
 お互いが同じ強さの幸福感で眠りにつかなければ。


「まるで、音楽と同じだね」
 自分とは違う音を共に重ねる時に、どちらかが先走っても、一拍遅れてしまっても、それは綺麗な調和にはならない。
 理想の音楽を作り上げるために、呼吸を、歩調を合わせて歩まなければならない時がある。
 かなでの言う段階を踏む、というのも、きっとそういうことなのだろう。

 だから、まずは。
 ほんの少しだけ、彼女へと歩み寄って。

「それじゃ、行こうか。……『かなでさん』?」

 初めてファーストネームで呼びかけると、かなでは一瞬目を丸くして天宮の顔を見上げ。
 そして、この上なく嬉しそうに笑った。



 呼吸を合わせて。
 歩調をそろえて。
 二人並んで辿る恋路のその先に。

 君と共に幸福な朝を迎える。
 そんな瞬間があればいい。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.10.4 加筆修正:2018.8.12】

天宮の人物像って実はすごく掴みにくくて、この創作以外期限に間に合わなかったわけなんですが、いまだにどっちに向かおうかと思っています(苦笑)
黒いのか無垢なのか……無印コルダでは、多分志水くんに一番近いのではないかと思ってます。そういう意味で、いろんなことに躊躇がなさそうとは思ってますけどね(笑)

Page Top