どんなに努力をしても、練習を重ねても、誰よりも認めて欲しかった人物は、天宮のピアノを本当の意味では評価してはくれなかった。
だが、それを理不尽にも感じたことはない。自分のピアノの音に何か大切なものが欠如していることは、天宮自身にもよく分かっていたからだ。
表現力不足というのともまた違っていた。天宮のピアノは決して無機質なものではなかったからだ。人の感情の基本である喜怒哀楽も、きちんとそれなりに表現が出来ている。
だが結局、『それなり』でしかない。
そんなふうに天宮のピアノのことを表現したのは、唯一師と仰ぐ人物だっただろうか、それとも成り行きに任せるまま、いまだに腐れ縁が続いているあの気難しい幼馴染みだっただろうか。
ならば、『恋』をしてみよう。
何故そんなふうに思うようになったのか、今ではもうそのきっかけを覚えていない。だが、『恋』というものを理解できれば、自分の音は確実に変化する。
……いつしか、天宮はそんなふうに思い込むようになっていた。
楽譜上の音符を追い、躊躇することなく白黒の鍵盤の上を指先は滑らかに走る。それは、恋をする前も今も、変わらない指先の動き。
技術的には何も変わっていない。練習を怠ることのない天宮の演奏は劣化をしない。
そして、劇的な向上もない。理想の音楽を求めていくうちに、今習得できうる技術はあらかた習得してしまうことが出来た。これからも長く続いていくであろう、演奏家としての人生の中で、習得した技術は更に洗練されていくのだろうが、今更全く未知なものを見つけられるほどに、天宮とピアノ……音楽との付き合いは浅くはない。
だが、天宮が奏でる音色は以前とは確かに違っている。
自分の指先からこんなふうに感情豊かな音が生まれることを、天宮はこれまで想像したこともなかった。
「……ブラボー!! 天宮さん、すごいです!」
感嘆の声と、一人分の拍手とに天宮は我に返る。
声の方に視線を向けると、頬を上気させた小日向かなでが、目を潤ませてぱちぱちと懸命に両手を叩いていた。
「すごいって……何が?」
微笑んで、天宮はピアノの前から立ち上がり、かなでに歩み寄る。小柄なかなでと目線を合わせるために少しだけ身を屈めて、彼女の目の中を覗き込んだ。
「確かに今のは自分でも納得のいく演奏だったけれど、ものすごい難曲というわけでもないしね。小日向さんにすごいって言われるほどじゃないと思うけど」
「もう、そういう意味じゃありません」
淡々とした天宮の言葉に、かなでは拗ねたように頬を膨らませた。
「そりゃ天宮さんの言うとおり、天宮さんにとっては特別難易度の高い曲ってわけじゃないかもしれないですけど。演奏の善し悪しって、難しいかどうかがすべてじゃないでしょう?」
どんなに易しい曲であっても、人の心を感動させる曲というものはある。
それは技術力の話ではなく、演奏によってどれだけ聴衆の心を震わせるかだ。
「今の天宮さんの演奏は、ちゃんと私の『ここ』に」
片手で胸元を押さえ、かなでは微笑んで目を閉じる。
「『ここ』の奥の方に、ちゃんと響きました。天宮さんのピアノ、私は前からずっと好きですけど、今の演奏が一番好きって言えちゃうくらいに素敵でした」
「……そう」
かなでの言葉に一瞬天宮は目を丸くして。
そして、穏やかに笑った。
愛を語る曲を弾くことが苦手だった。
名曲と呼ばれる楽曲には、愛や恋を歌うものが多い。天宮もそんな曲を演奏する時には、決してただ楽譜通りの音をなぞっていただけではなかった。天宮なりの愛や恋を、きちんとピアノに歌わせたつもりだった。だが、そんな天宮の音は誰にも伝わらなかった。
本当の恋を知った今ならば、天宮にもそれが理解できる。
自分がピアノに歌わせた愛や恋は、とても綺麗で、華やかで……そして、酷く空虚だった。それは、天宮が愛や恋を表面でしか理解していなかったせいだ。
甘くて綺麗で、ふわふわとした。そんなとりとめのないもの。
自分が恋をする前に持っていた『恋愛』というものの印象は、そんな上辺だけのものだった。
(恋は、確かに幸福で甘く綺麗なものかもしれない)
だがその反面、時に無様で滑稽で……醜くドロドロと濁ったもの。
この目の前にいる少女に生まれて初めての恋をして、そんな負の要素も恋の一部になるのだと、天宮は知った。
先人が作り上げたどんな恋の曲にも、これまで天宮の心が揺れることはなかった。
天宮にとって曲はただ曲でしかなく、天宮の中で他の何を題材にした曲とも隔てられることはなかった。ただ、他人に望まれるままに奏でてはきた。
だが今は。
『恋』を語るために並べられた旋律に、天宮の心が寄り添うことが出来る。
指先が紡ぎあげるこの音に乗せて、伝えたい天宮自身の想いがある。
「小日向さん」
そっと手を伸ばして、先ほどまで恋の曲を奏でていた指先でかなでの柔らかな頬を撫で、天宮は穏やかに笑む。
「……僕は、君に恋をしているよ」
改めて、告げてみる。
かなでは頬を桜色に染め、嬉しそうに笑って頷く。
「……はい。ちゃんと、さっきのピアノの音で、伝えてもらいました」
知っていたはずなのに、本当の意味では分からずにいたことを、かなでとの出逢いで天宮は『理解』する。
ピアノを弾くということは。
……音楽を奏でるということは。
きっと、心の奥底にある漠然とした言葉にならない想いを。
自分ではない誰かに正しく届けるために、形にする行為。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:2014.12.16 加筆修正:2018.8.12】
天宮は似たようなお題が集まってしまって、この話ももう一つ別のお題とどっちで書こうかなと結構悩んでました。
天宮は何で恋をすると自分の音楽が変わると思ったのかなあ……(自分の中の謎)
別に感情が薄い子ではないので、案外冥加の影響なんじゃないかなあとか考えたりしてます。最初は恋とは言えないかもしれないけど、あの人の執着は尋常じゃないからさ(笑)


