一度に複数のものを抱え切れない。目の前のことに、たった一つのことに全身全霊をかけてしか生きられない。
だからこそ、今。自分はこうして戸惑っている。
大切に想う二つのものの、どちらか片方を捨てることでしか。
自分は何一つ、この手に掴めはしないだろうから。
お互いの音色が重なって、綺麗な和音を響かせる。
この、重なって混じる音色にどうしようもなく心が惹かれる。これは、ずっと月森が欲しいと望み続けていて、だけど月森一人では生み出されなかった音色だから。
暖かくて、優しくて。人の心に直接語りかけて来る音色。
どうしてこれまで、どれだけの努力を積み重ねても弾けなかったのか、今ならその理由が分かる。
月森は、ヴァイオリンだけを見つめ過ぎていて、知らなかったのだ。誰かに暖かい気持ちを与えることも、優しくすることも。……自分の心にある何かを、誰かに語りかけることも。
知識としては知っていた。幼い頃ヴァイオリンを教えてくれた、音楽家として名を馳せている偉大な家族たちが、繰り返し月森に言い含めて来たことだから。
(ただ、上手くなるだけじゃ、駄目なんだよ)
それでも、家族が教えてくれることが、どうしても月森には理解出来なかった。ヴァイオリンに真摯に向き合っていれば、いつか分かるのではないかと思っていたけれど、なかなか月森はその答えを掴むことが出来なかった。
だが、その長年月森が抱き続けていた疑問を解いてくれたのは。
家族でも、教師でもなく。
意外なところから月森の目の前に現れた、異質な存在だった。
「……こんな感じで、どうかな?」
アンサンブルコンサート用の楽曲を一曲分月森と合わせ終えた香穂子が、まだ不安げな表情で月森を振り返った。
月森はその彼女の不安を払拭するために、微笑んで軽く頷いてみせる。
「よく仕上がっている。……若干、君が苦手としている箇所に不安がないわけではないが、他の楽器を混じえて全体練習を重ねていれば、そのうち弾き慣れて来るだろう」
「そっか。やっぱり練習の積み重ねが大事なんだよね」
納得したように笑って頷き、香穂子はまた、楽譜に並んだ自分が弾くパートの音譜の並びを辿っている。
そうして、彼女が小さな声で歌う旋律が。
月森の鼓膜を柔らかく揺らして、ひどく心地のいい音になる。
……ただ、隣に並んで座って。
こうして側にいることが、かけがえのない大切な時間なのだと知る。
留学することは、幼い頃から心に決めていた。
本当なら、中学を卒業してすぐ、日本の高校には進学せず、そのまま渡欧することも考えていた。だが進路を決める際、留学を希望する旨を告げた月森を、家族全員が引き止めたのだった。
(もう少し、日本で音楽を学んで。それから留学しても遅くはないんじゃないのか?)
日本で学べることが、ヨーロッパで学べないとは思えない。月森は出来るだけ早く、本場の音楽に触れてみたかった。そうすることが、目指す音楽をなかなか掴み切れない自分に、何かの活路を開いてくれるのではないかと思っていたから。
そう訴えてみても、哀しげに表情を陰らせる父は、首を横に振るばかりだった。
(蓮……今のお前では、まだ早いんだよ)
今なら、あの時留学しようとした月森を止めた、家族の気持ちが理解出来る。
本場の音楽に触れて、同じような道の先を目指すたくさんの音楽家の卵たちに囲まれて。
確かに今以上に、技術は身についたのだろう。
それでも、きっと。
何も分からないまま新天地で音楽を学んでも、月森は自分が目指すはずの音楽を、永久に手に入れることはできなかった。
あれは、学内コンクールが終わった直後だったように思う。
部屋で練習していた月森の音を聴いた父が、何故かとても嬉しそうに笑い、月森に一つの提案したのだった。
(蓮。……そろそろヨーロッパの方へ留学をしてみないか?)
月森が待ち望んでいたはずの、家族の留学の許可に。
何故、一瞬躊躇ってしまったのか。
その時の自分は、分からなかったけれど。
学内コンクールを経て。
……そうして、拙いヴァイオリンを懸命に奏でる、真直ぐに生きる存在に出逢えたことで。
確かに、月森の中に、今まで知らなかった感情が芽生え始めた。
簡単に一口で説明出来ない、複雑な想い。
自分でも制御することが出来ない、不可思議な感情。
今まで関わったことのない、イレギュラーな存在に触れることで。
凪いだ感情の水面を乱された。それが月森の音色が変わり始めた、最初の兆し。
……それは、ただの小さな揺らぎだと、軽く考えていたのに。
その揺らぎこそが淡い恋の始まりだったのだと。
香穂子を想う気持ちを自覚している月森は、もう気付いてしまった。
並べることの出来ない、二つの大切なもの。
ヴァイオリン……音楽と、愛おしい彼女。
それでも、どちらかを切り捨てることでしか。
月森という人間は、生きていけない。
そうして、ヴァイオリンを弾くことでしか自分の価値を示せない月森に。
ヴァイオリンを取ること以外の選択肢は、許されはしないのだ。
(俺は、自分自身の理想の音楽を手に入れるために、君という存在を切り捨てる)
その選択に、どれだけ月森自身が胸を痛めるのだとしても。
……どれだけ香穂子という存在を、愛おしく想っていても。
幼い頃からヴァイオリンに捧げて来た想いを、今更全て捨て去ることは出来ない。
(それでも、俺は)
(俺が目指す音楽を見つけるために)
(君の存在が必要不可欠だったことも)
(今ではもう、知っているんだ)
……香穂子に出逢った学内コンクールを経た後で。
月森の音は変わったのだと、父は言う。
表面的な上辺だけの解釈ではなく、ちゃんと人間が持つ感情の機微を理解して、ヴァイオリンを『歌わせる』ことができるようになったんだなと。
父は嬉しそうに笑ってくれた。
些細なことに感動する心を。
豊かな、彩りに満ちた感情を。
暖かな優しさを。胸を締め付ける切なさを。
……抑え切れないほどの、愛おしさを。
全部、全部。香穂子が月森に、教えてくれた。
幼い頃から、月森が追い続けて来た夢に抱く想いと。
今、月森の心を捕らえて離さない存在に抱く想いと。
二つが並び立つ日は、おそらく永久に来ないのだろう。
それでも、その二律背反な想いこそが。
行くべき道を見つけられず、彷徨っていた月森の未来を。
明確に指し示してくれるのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.26】
「二律背反」のはっきりした意味が分からなかったっていうね!(笑)
ニュアンスとしては分かりますが、曖昧じゃいけないので、ちゃんと辞書引いて考えつつ書きました。
衛藤と理事を書いたせいか、今回は無意識のうちに無印よりも2~アンコールベースで書いたものが多かったです。よって月森は自然と切ない系が増えました。


