何度目かのミスに、香穂子は思わず声を漏らす。
肩からヴァイオリンを下ろし、天を仰いで一つ溜息をついた。
何度弾いても同じ箇所で躓いてしまう。数日前に練習を見てもらった時、焦り過ぎるせいだと月森には指摘されたけれど、落ち着こうと思えば思うほどに、弦を押さえる指はぎこちなく予想外の場所に辿り着いてしまう。
(落ち着け。……落ち着け)
目を閉じて、自分に言い聞かせる。
落ち着け、落ち着いて。数日前の月森の指摘通りに。肘の動きに気を付けて、力まず、ゆっくりと次のポジションへ。
脳裏の自分は、とても上手に苦手な箇所を弾きこなす。それは、香穂子の理想で、空想で。……月森の演奏姿に似ている。
駄目だ、と一人ごちた。
月森のヴァイオリンは、香穂子の目標だ。それはいい。自分より実力の高い者に憧憬を抱くことは悪いことではないから。だが、勝手に彼の姿に自分自身を投影していては駄目だ。香穂子は香穂子で、決して月森ではないのだから。
(上手くならなきゃ)
何度も月森に嗜められる焦り。
君は君のペースでいいから。月森はちゃんとそう言って、香穂子に無理強いはしないのに、勝手に香穂子の方が月森に追い付こうと足掻く。
(だって、置いて行かれるのは、怖い)
月森が遠い未来で繋がるはずの、音楽という道のどこかで待ってくれているのは分かっている。それでももし、どうしても目指す場所にたどり着けないとしたら、それは間違いなく香穂子の方だ。
諦めないつもりでも。
月森にどれだけ遅れても、いつか必ず、同じ場所へ辿り着くつもりでいても。
本当に、今月森と別の方角ヘ一歩を踏み出そうとする香穂子が、未来で彼と重なる道の上に踏み出せるかは、分からないから。
だから、どうしても香穂子は足掻く。
手が届かなくても、せめて月森が見ている道が、自分にも見えるように。どれだけ遅れても、遠回りしても、いつかはきちんと月森と同じ道の上を歩けるように。
……そう幾ら思っていても、現実は優しくはなくて。
煮つまるのが分かり切っているから、香穂子はヴァイオリンから一度手を離す。ケースの中にそっとヴァイオリンを置いて、側にあった椅子の上にどさりと腰を下ろした。
俯いて、両膝に肘を付いて、両手で顔を覆う。
どうしよう、せっかく月森くんが、ちゃんと教えてくれたのに。
私の世話を焼いてる暇なんてないのに、それでも時間をかけて、丁寧に教えてくれたのに。
……私の実力が、追い付いて来ない。
月森は、香穂子と一緒に練習するために予約を入れた練習室のノブを回す手をふと止めた。
摩り硝子の向こう、漏れるはずのヴァイオリンの音色が耳に届かない。
訝しげに眉をひそめ、月森はそっとドアを開いてみる。やはり、音楽は流れ出しては来ない。ふと視線を上げると、椅子に座り、小さな身体を増々縮めるようにして、両手で顔を覆っている香穂子がいた。
「……香」
口を開いて、名前を呼びかけて。
呼ぶことが出来ずに、月森はふと口を噤む。それでも香穂子はドアを開ける音と一文字分の月森の声で、月森の到着に気付いたようだった。一瞬細い肩がぴくりと震えたが、それでも香穂子は項垂れたままだ。
困惑しながら、月森はそっと香穂子の側に歩み寄る。床に自分の荷物とヴァイオリンケースを置いて、委細構わず、その場に片膝を付く。下から覗き込むように香穂子の様子を伺うと、香穂子が小さくしゃくりあげ、月森は息を呑む。
……香穂子は、泣いているのだ。
「香穂子? ……その、どうかしたのか……?」
恐る恐る尋ねた月森に、ふるふると香穂子は首を横に振る。
どうしていいか分からず、ただ膝を付いて香穂子の様子を眺めるしか出来ない月森の耳に、小さな香穂子の声が届く。
「……自分が、情けなくて。……悔しい、だけ」
音楽で躓くことは誰にでもあると、香穂子に教えてくれたのは月森だった。
月森ですら、上手く行かないことはたくさんあったのだと、苦笑混じりに話してくれたのを覚えている。
そもそも、香穂子はこれまでが順調過ぎたのだ。……音楽に踏み込むきっかけが、あまりにも特殊で。そして幸運であったが故に。
だから、耐えなくてはならない。上手く行かないことにどれだけ苦しい思いをしても。
それが、音楽を志す者が皆辿って来た道であるならば。
悔しくて泣くことも、きっと誰もが経験して来た苦さなのだろう。
月森は香穂子へと手を伸ばし、触れかけて、それを躊躇うように拳に握りしめる。
上手くいかないことの苛立ちや焦りに、悔しく思うことは確かに何度もあった。それが誰もが通る道であるというのなら、香穂子もやはり、この苦しみを呑み込んでいかなければならない。
だが、それでも。
月森は香穂子が泣く姿を見たくない。
彼女には、苦しんで欲しくない。
目の前で泣かれてしまっては、それは自分が彼女のために何も出来ないことの証でしかないから。
とどのつまりは、月森の自分勝手なエゴでしかないけれど。
……それでも、自分の目の前にいる彼女には、いつだって笑っていて欲しい。
(俺は、どうすればいい?)
何をすればいい?
彼女のために、どんなことが自分に出来るだろう。
そう考えた時、月森は自分が彼女に取って有益な、何事も出来ない事実を知る。
これまでの自分自身が、あまりに狭い世界に生きていた所為で。
誰かの為に何かをするなんて、考えたことすらなかった。
そんな時、ふと心に浮かぶのは。
やはり、彼女が教えてくれたこと。
(何かを誰かにしてあげたいって思ったら、自分がしてもらって嬉しいことをしてあげるといいんじゃないのかな?)
それが、『思いやり』の第一歩だと思うよ。
(どうすればいい?)
過去の記憶を紐解いて、考える。
月森も、これまで一度もヴァイオリンを弾くことに躓かなかったわけではない。そんな時、誰にどんな言葉をもらって、どんなことをしてもらえたから、乗り越えられたのだろう?
……たった一人で乗り越えて来たと嘯くには、あまりに自分という存在は弱いものだから。
(……ああ、そういえば)
まだヴァイオリンを手に取って間もない頃。
上手く弾けなくて、悔しくて泣く自分に、母がしてくれたことはなんだったろう。
思い出して、香穂子に『そう』する自分を空想して。
ひどく躊躇う気持ちはあるけれど。
それでもきっと、それは泣いている彼女を目の前にして、本当は最初から、自分の中にあった選択肢で。拙い記憶の中から引きずり出して来た、優しい記憶だから。
相手の反応を気にして、迷うな。
『そう』したいと願う、本能にこそ従え。
両腕を伸ばし、その華奢な身体をそっと、柔らかく抱き締める。
「……え?」と香穂子が困惑する気配が伝わるが、一度踏み出してしまえば、もうそんな彼女の反応は気にならなかった。
両腕に柔らかな感触と。
鼻孔の奥に、彼女の甘い香りが満ちて。
……何だか月森の方が幸せな気持ちになった。
「……大丈夫だ、香穂子」
大丈夫と言える根拠も何もない。
だけど、それでも。
大丈夫、と月森は繰り返す。
遠い昔。
まだ幼い月森が、思い通りにヴァイオリンを弾けず、悔しくて涙を流す時に。
優しく抱き締めてくれた母が、言ってくれたのと同じように。
大丈夫、大丈夫と繰り返し、香穂子の背中を撫でていると、やがて香穂子の細い腕が月森の背中に回って、きゅっと華奢な身体がしがみついて来る。
そうして香穂子は姑くの間、月森の腕の中で存分に泣いて。
やがて腫れた瞼を指先で抑えながら、身を起こして月森を見つめ。
「ありがとう」と、恥ずかしそうに笑った。
愛すべき存在が、目の前で泣いていて。
それを抱き締めてやりたくなるのは、ただの本能の現れなのかもしれないけれど。
そうしたことで、少しでも何か癒されるものがあるのなら。
その本能に従うことも、決して悪いことじゃない。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.27】
お題そのまんまの話にならないようにするのに苦労しました。だって、お題から受け取る雰囲気まんまを書いてしまったら、うちの月森サンが暴走するじゃないか!(笑)
本能と言う言い方をしてますが、咄嗟の時に出て来る対応、言動などはやはり普段から身に付いているもの?頭で考えるより反射で出て来るものじゃないかと思います。つまり、そういう時の行動言動が本質な訳だから、気を付けておきたいですね。
しかし、私これを「切ない」系に分類したんですけど、甘くてもよかったのか?


