ラスト・チャンス

月森→日野

 小一時間続けた練習に休息を取るため、月森は練習室の窓を開けた。
 途端に様々な場所から生まれて来る音楽の欠片が、室内に忍び込んで来る。月森は、わずかに顔をしかめた。
 ひとまとめで鼓膜に飛び込んで来る音色は、きちんと一つ一つ解いてやらないと音楽ですらない、ただの音の羅列。……雑音と言ってしまってもいい。
 そして、月森はその紐解いた音楽の中から、たった一つの心地よい音を探す。
「……日野?」
 目を閉じて、耳を澄ませて。
 鼓膜に入り込む雑多な音を紐解いて、たった一つの音色を探していると、その音色が案外身近から聴こえて来ることに気付く。眉をひそめて月森は窓から身を乗り出し、隣を覗く。……探す音は、隣の練習室の、わずかに開いている窓から聴こえていた。
(練習時間が重なるようなら、声をかけてもいいと言ってあるのに)
 月森の練習を邪魔しないように、という彼女の気遣いだと分かっているから、ありがたく思わなければならないはずなのに、少しだけ苛立ちを覚えてしまうのは、月森の方の勝手な事情で。
(少しでも一緒にいたいと願ってしまうから)
 やはり、所詮は俺の我侭だな、と。
 月森は苦く笑った。


 こんこん、と扉をノックする音がする。
 弓を上げて振り返ると、摩り硝子の向こうに音楽科の白い制服を見つけた。顔はよく分からないけど、胸元に赤い色彩があるから、すぐに誰なのかが分かる。
 慌ててドアに駆け寄ってそれを開くと、想像に違わず、そこには月森が立っていた。
「あ、あれ? どうしたの、月森くん」
「ああ、……いや」
 歯切れの悪い月森が、指先で隣の練習室のドアを指し示す。隣にいたんだ、と言われ、香穂子は一つ瞬きをする。
「そっか、窓開けてるから聴こえてたのかな。……私の演奏、何か可笑しいところあった?」
 真面目な表情で香穂子が月森を見上げる。更に月森が困った様子で、頬をわずかに赤らめながら、片手で口元を覆う。
「いや、そういうわけじゃなくて……」
 ……特別な用があるわけじゃない。
 彼女のヴァイオリンに言いたいことがあるわけでもない。ただ。
 一緒に過ごせる時間があるなら、できる限り一緒に過ごしたい。

 月森は、来年初めにはウィーンへの留学が決まっている。
 彼女が取りまとめるアンサンブルに参加することを決めたおかげで、彼女との関わりは少しだけ深いものになっている。一緒に過ごす機会も、ただ、過去に同じコンクールに参加したという関係性の時よりは増えているはずだ。
 それでも。
 失う、とはっきり分かっているために、ささやかな時間が何よりも大切に思える。ただ一緒にヴァイオリンを練習するというだけでも、来年の今頃には叶わない望みになってしまうのだ。
(これが、最後の機会かもしれない)
 アンサンブルという形式上、彼女と音を重ねるのは自分だけじゃない。……今はまだ、彼女の曲の完成がまだ不完全だから、教えるという名目で、二人で一緒に練習することはできる。だが、もう少し彼女の完成度が高くなれば、今度はアンサンブル参加者全員で音を合わせることになる。そうなると、二人だけの時間というものは、増々望めなくなってしまう。
 ……練習に熱心で、真面目な分、彼女の上達は早い。それ故に、月森が望む何気ない優しい時間も、掴める頻度は減っていく。
 来年春には逢えなくなることが確実な分、今、一つも取りこぼさずに彼女と一緒に過ごせる時間を拾っていかないと、二度と一緒にはいられなくなるのかもしれない。
 ……だから。
「君が迷惑でないのなら、出来る限り、一緒に練習がしたいんだ。……その。おそらくそうした方が、すぐにミスを指摘出来る分、君にも有益だと思うし……」
 我ながら苦しい言い訳だと思うのだが、香穂子はあまりそういうことに頓着しない。うん、と素直に頷いて、にっこりと笑った。
「月森くんの迷惑にならないなら、是非こっちからお願いしたいところだよ」

 ……無邪気な分、君はとても残酷だな。

 彼女のその無邪気さは、否応なく月森に、期待する心と。
 それ以上に、ずっと疼いていくだろう鈍い痛みを与えるのだ。

 だが、彼女と二人で過ごせる優しい時間は、それが最後のものになってしまうかもしれないから。
 触れたら痛むことを知っていながらも。
 それ以上に、それに触れることの暖かさと心地よさを知っているから。
 手を伸ばし、掴む。

「月森くん、今度の土曜日って空いてる?」
「ああ、特に予定はないが」
 香穂子の練習室に、自分の荷物を持ち込んで、さあ練習を始めようと構えた途端、ふと思い出したように香穂子が問う。月森が応じると、月森と目を合わせない香穂子が、わずかに頬を赤らめて、思い切ったように切り出した。

「……あの。あのね、よかったら、一日練習に付き合ってもらえないかなあ?」

 もう、本当にこれで。
 最後かもしれない、一緒に過ごす時間を。
 君も望んでくれるというのなら。
 俺達の心は、本当は、とても近い場所にあるのではないだろうかと。
 ……否応なく、期待してしまう。
 だが、君と一緒にはいられない未来が、確実にすぐそこに迫っている以上。
 どうしても、この恋は終わる。
 その現実が、心に癒えない傷を穿って。
 ずっと疼いていくだろう、鈍い痛みを与えてしまう。
 ……それでも。
 いつだって。

「……ああ、俺でよければ、喜んで」

 掴めば、後に傷だけが残ることを知っていながら。
 それでも、目の前にちらつく、二人で過ごす時間の、その甘さ故に。

 もう最後になるのかもしれないそのチャンスを、この手を伸ばして、掴まずにはいられないのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.4】

ドラマCDを聴かれている方は「ん?」と思われたかと思うんですが、意識して書いてます。ああいう月森って基本形だと思うので(笑)
香穂子に逢うまで、ヴァイオリン以外の物に執着することを知らなかった月森が、ちょっとでも欲張りになってくれたらなと思いつつ書いてみました。うん、もうちょっと我侭を言ってもいい気がするよ!(笑)
言うことは辛辣だから誤解されるかなと思うけれど、彼はいろいろ内に蓄積するタイプだと思うので、少しは外に向かって発散しないとね~。

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