目を閉じて…

月森×日野

 腕を組んで窓辺に寄りかかり、目を閉じて香穂子のヴァイオリンの音色の行く先を追っていると、不意にその流れるような旋律が途切れる。
 訝しんで、そっと目を開いてみた。
「うわ、びっくりした!」
 驚いたのは月森も同じなのだが、香穂子の方がその衝撃を口にするのが早かった。月森の様子を覗き込んで伺った香穂子と、至近距離で目が合って、お互いに目を丸くして、息を呑む。ややして、香穂子が小さく笑って、数歩後ずさって月森から距離を置く。
「目、瞑ったまま黙ってるから、あんまり私の演奏がつまんなくて、寝ちゃったのかと思った」
「……そんなわけがないだろう」
 冗談めかした香穂子の言葉に、穏やかに笑い返して月森が視線を伏せる。
 そうだよね、と屈託なく香穂子がもう一度笑った。

 彼女の音色を追う時には、目を閉じる。
 それは、彼女の音色と、その音楽を奏でる姿とを、しっかりと瞼の裏に焼きつけるための儀式。

 数カ月後、この場所を旅立つ月森が、新たに降り立つ場所に、香穂子の姿はない。
 これまでの自分は、目の前にあるもの、この手で触れるもの、鼓膜を震わせるもの。そんな、確実に認識出来るものしか、信じては来なかった。空想の中、思想の中にあるものは、他の第三者にどうして示してみせることも出来ず、曖昧な、陽炎のようなものでしかないから。
 だが、認識出来るものしか信じられないままでは、月森は香穂子という存在を失くしてしまう。
(触れられないから)
(実際に目で見ることすら出来なくなるのだから)
(全ては、心の奥底に)
 記憶の中に焼きつける。
 いつか、遠い場所で夢を追う自分が。
 その陽炎のような存在を、支えにして歩いていくために。

 ……そんな不確かなものを支えに出来るだろうことを、教えてくれたのは。
 やはり、いつだって香穂子だった。

(月森くんが側にいるうちに、いっぱい、いっぱい一緒に過ごすんだよ)
(そうしたら、ちょっとしたことをきっかけにして、いつでも月森くんのことを思い出すから)
 その記憶を支えにして。
 貴方がいない年月を、越えてみせるから。
(……どうか、怖がらないで)

 目を開いた前方に広がる可視の世界に、存在しないものを描くことは出来ない。
 そんなふうに、容易く現実からは目を逸らせない。
 唯一自分を語ることの出来るヴァイオリンですら、月森の知らない世界を、月森が創り上げることは出来ない。
 不器用だと言われても、その誠実さが月森の誇りだった。

 だが、目を閉じて。
 瞼の裏に描く、無限の闇の世界。
 そこに、大切なものを描けるかどうかも。
 やはり、全ては。
 己の心次第で。

(俺の好き勝手に、君という人間を描くことは出来ない)
 いい意味でも悪い意味でも、香穂子という人間は、月森の想像出来る限界を超えている。
 月森の予想を遥かに超える存在だから、月森は彼女に惹かれたのだから。
(君という人間を、完全に知り得ることは出来ない)
(そして、俺は自分が知っているもの以外を心に留め置くことが出来ない)
 ならば、より多くの彼女の欠片を。
 月森は心に焼きつける。

 目を閉じて……ただ。
 瞼の裏に浮かぶ、君を想う。


 君が目の前に存在する現在だから。
 瞼の裏の君の姿が、真実の君の姿と違っていたとしても。
 少しずつ、少しずつ。
 描き直していくことが出来るから。

 目を閉じて、自分の心の中に棲む君を。
 瞼の裏に投影することを繰り返す。

 閉ざされた視界の、暗闇の世界に。
 また新しく、香穂子が優しいヴァイオリンを響かせる。
 窓辺にもたれかかって、腕を組んだまま。
 目を閉じて、その音色に身を委ねて。
 月森はただ、小さく微笑んだ。


 たとえ、遠く離れても。
 心の中に、瞼の裏に。
 君の姿は、色濃く描き出されるから。
 俺は、それを抱き締める。
 大切に、……大切に。

 そうして、心の奥深くに潜む君の残像に、折れそうになる心を支えられて。
 きっと、俺は強く生きていける。

 ……願わくば。
 俺がいなくなってしまった後の、君が生きる道筋で。
 君もそうして、俺の残像を抱き続けていてくれたなら。

 目を閉じて。
 その瞼の裏に浮かぶ、君の支えになれる誰かが。

 未来永劫、俺一人であるならば。

 ……きっと、それ以上に。
 幸せなことはない。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.19】

「目を閉じて、君を想う」っていうモノローグが過去に読んだ漫画の何かにあった気がするんですが(笑)
韻の踏み方から何から、何となく残るフレーズなので、このお題を見た時にまっ先にこの一文を思い出しました。
二人がヴァイオリン弾きであるからこそ、「目を閉じて、音を聴き、君を想う」という流れに(笑)
うまいこと、私が持っていた言葉の印象を形に出来たかな……?

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