何もかも投げ出して

月森×日野

 目の前に在るもの、たった一つを選べたらいい。
 だが、それを選びとってしまっては。
 ……結局全てが駄目になる。




 周りの風景に、春の訪れを感じるたびに、奇妙な痛みに胸が締めつけられる。
 本来なら、その到来を喜ぶべき春なのに。
 窓の外に見える木々の先に、新たな息吹の気配を見つけるたびに、月森は小さな溜息を落とした。
 理由なんて、考えるまでもない。春が来たら、自分はこの場から旅立たねばならない。
 ……何よりも大切なものを、置き去りにしたままで。
(何もかもを投げ出して)
(君一人を選べたら、どんなに楽だろう)
 その選択が、実際は酷く簡単であることも、月森は知っている。
 未来へ続く道筋の一つを切り捨てればいいだけだ。彼女の手の届かない場所には行かず、自分が生まれ育った故郷の地で、ヴァイオリンで身を立てる道を模索するだけ。……彼女への想いを自覚して以後、何度か自分の脳裏を掠めた選択。
 だが、何よりも月森が一番良く分かっているのだ。
 今、選びとったこの苦難の道。この道を選ぶ自分でしか、本当の意味で望む未来の自分には、手が届かなくなること。
 ……ここで、自分の中に妥協を許してしまえば。
 自分という人間が、本当につまらない人間になってしまうことを。


「だからね。それを月森くんは『自分が悪い』なんて思わなくていいんだよ」
 練習室の窓辺にもたれかかり、香穂子は困ったように笑う。
 春が近付くたびに、……月森の留学する日が近付くたびに。表情を陰らせていくべきなのは、本来置いていかれる香穂子の方であるはずなのに、
 置いていく月森の方が、余程痛そうな表情をする。それはきっと、月森が自分を責めるからだ。
 香穂子をこの場所に置き去りにしていくことを。
 ……置き去りにすると分かっていながら、誰よりも愛おしく想う気持ちを、告げてしまったことを。
「……だが、俺は……」
 本当に、香穂子の事を思うのであれば。
 たとえ、彼女の心が誰にあるのだとしても、言うべきではなかったことではないかと、今でも月森は迷っている。
 届いてしまえば。強く結びついてしまえば、離すのが困難になる気持ちだ。
 淡い憧れで済んでいるうちに、殺してしまうべき想いだったのではないかと……迷っている。
 想いを香穂子に告げたのは、彼女に同じ想いがあることを知っていて、それを成就させるためなどではなかった。ただ月森の方が、育ち過ぎた想いをどうにも出来なくなって、香穂子に曝け出してしまっただけだ。
 だからこそ余計に、月森の心を占める罪悪感。
(お互いの胸の内に収めたまま、いつか自然に枯れるのを待てば)
(もう少し君の傷は浅くて済んだのではないだろうか)
 全ての想いを、ヴァイオリンに捧げることができる月森はともかくとして。
 まだ、目指す道を迷っている彼女の傷は。
「……月森くんは、悪くないよ」
 香穂子が繰り返す。
 だが、それは月森への気遣いだと知っているから。
 そうなのだ、と、簡単に呑み込むことが月森には出来ない。
「悪くない。……もし私が、月森くんがいなくなって、寂しくて、辛くて、泣いて、傷付いて。……そうして、胸を痛めるんだとしたら、それは」
 一気に話し切って、香穂子はふと言葉を切る。一つ小さな息をついて、ふわりと笑った。
「それは、きっと。……私の罪だから」
 静かに告げた香穂子の言葉に。
 月森は、目を見開く。

(何もかも投げ出して)
(私が、貴方を追えればよかった)
 迷いも不安も、全てを見ない振りして。
 ただ、月森が歩むものと、同じ道を選べばよかった。
 もちろん、これまでヴァイオリンなどというものに娘を関わらせて来なかった家族や、普通科という場所に身を置いている香穂子を知る教師たちに告げれば、そんなに容易いものではないと猛反対されるのは目に見えている。
 それでも、本気で香穂子がそれを願うのであれば、決して選び取れない選択ではなかった。
(でも、私は知っているの)
 どんなに考えてみても。
 香穂子は、月森と同じ道を選べない。
 もちろんそれは、ヴァイオリンの技量の違いや、幼い頃から留学という選択肢を頭に置いて準備を進めてきた月森との心構えの違いとか、周囲の環境とか、いろんな理由があるけれど。
 香穂子は、ヴァイオリンで高みを目指すことを目的としているわけではなく。
 ……ただ当たり前の日常を、ヴァイオリンと寄り添って生きて行きたいだけだから。

「それなのに、月森くんを望んだのは、私だから」
「……香穂子」
 今まで身に付けてきたもの何もかも全てを投げ出して、月森を追うことは出来ないと分かっていたのに。
 受け入れることも、いつか月森を苦しめることになると分かっていたのに。

「少しの時間でも……月森くんに愛されたいって思ったのは、私の我侭だから」

 だから月森は、自分を責めなくていい。
 寂しくなることも、その寂しさに泣くことも。
 全部香穂子自身が、自分の手で選び取ってきた。

 香穂子も月森も。
 自分たちが、お互いを愛す前に選び取ってきた全てを投げ出して。
 一番、楽に寄り添って歩いていけるはずの道を選べないというのなら。

 それは、他の誰でもなく。
 自分自身が背負うべき罪。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.18】

2~アンコールの設定で考えるなら、こういう感じが渡瀬の月日の基本形です。
自分が楽器が出来ないせいか、高2から楽器を始めてそれでメシ食ってくまでになれるかな?って、どうしても自分の中で迷いが生じます。たとえファータの御加護があってもね!(笑)
香穂子が万人に受け入れられる音楽を奏でる弾き手ということから考えても、敷き居を高くせず、ホントに道端で平気で弾いちゃう的な触れやすさを持っていて欲しいと思うのです。
よって、何度か「香穂子が月森を追いかけていくってことはないの?」と読み手様から要望を受けたこともあるんですが、うちの設定ではこういう感じですね。

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