春が、来た。
「花びらを食うなよ」
背後から突然声をかけられた。
ふと我に返って小さく瞬きをし、香穂子は徐に背後を振り返った。そこには呆れたように笑う土浦が立っていた。
「食べないよ。食べるものじゃないもの」
「嘘つけ。ぽかんとまぬけな顔で口開けて、空見上げてたくせに」
むう、と膨れて香穂子が言うと、土浦が大きなストライドで香穂子の側に歩み寄って来る。その間も絶え間なく、はらはらと白い花弁が舞い落ちる。
「満開、だな」
「土浦くんも、しばらく見てたら食べたくなるよ!」
足元に落ちた花びらを、香穂子がじいっと見つめながら、何だか負け惜しみみたいに呟く。
……食べたくはならないだろうが、同じようにぽかんと口を開けて見入ってしまうのかもしれないなと思いながら、土浦は苦笑して、ぽん、と香穂子の頭を軽く叩いてやった。
「……で?」
香穂子の隣に腰を下ろし、土浦が尋ねる。
「で?……って?」
真面目な顔で香穂子が尋ね返す。脱力して、崩れ落ちそうになった。
「聞き返すなよ。俺が聞いてるんだろ?」
「土浦くんが、何を聞こうとしたのかなーと思って」
邪気のない表情で香穂子が首を傾げる。がしがし、と髪の毛に突っ込んだ指先をかき回しながら、土浦が溜息をついた。
「何か用があったんじゃないのかよ。わざわざ呼び出して」
今日は、特に約束をしていたわけではない。
来月には二人とも音楽科への転科を控えているから、心身共に準備に忙しい日々だ。お互いにそれを分かってるから、ここ最近の休日には、特に予定を入れてなかった。
「ああ。……これが用」
納得したように一つ大きく瞬きをした香穂子が、片手で降り落ちる花弁を指し示して、しれっと言い切った。「は!?」と大声で返す土浦が、しかめっ面になる。
「まさか、花見するために呼び出したのか? わざわざ?」
「そうだよ」
香穂子がにっこりと笑う。その曇りのない笑顔に、土浦は怒鳴りかけた唇を、何も言えずに引き結んだ。
はあ、と再び大きく溜息をついて項垂れる土浦をちらりと横目でみやって、香穂子は苦笑しながら目の前の桜吹雪を見上げた。
「だって、土浦くんと見たかったんだもん。……綺麗なものは、一緒に」
ささやかなものでも。
毎年、繰り返し見られる風景でも。
本当に同じものと言える風景を見ることは、二度とない。
だから、今この瞬間に『綺麗だ』と、感動出来るものは。
……プラス要素へと導いていくものは全て。
好きな人と、一緒に。
互いに忙しいのは分かっている。
こんなに、のんびり桜を眺める余裕なんて、あっていいわけがないのだろう。
それは、どちらかといえば土浦よりも香穂子が気を付けなければならないことだ。土浦と比べて、香穂子は音楽の知識も、技量も全く足りてはいない。
……それでも。
(ささやかな風景を『綺麗』だと思える心をなくしちゃったら、音楽をやる意味が本当になくなっちゃうと思うんだよ)
一流と呼ばれるほどの技術を身に付けたいわけじゃない。
コンクールやコンサートで、喝采を浴びたいわけじゃない。
ただ、思う通りに、自分の中にある感情を全てヴァイオリンに歌わせて。
その想いを、別の誰かに届けたいだけ。
「今年見た桜吹雪が、どれだけ綺麗だったかっていうのを、誰かに伝えたくなる時が来るかもよ?」
その時に、知らなかったら弾けないでしょう?と。
香穂子は、悪びれもせずに言ってのけた。
ひらひらと舞い散る花弁。
毎年、繰り返される同じ風景。
それでも、その風景に全く同じものは存在しない。
今日、この時。
新しい道へ踏み出そうとする自分達が、期待と不安、入り混じったたくさんの気持ちを抱えたまま目にしたこの桜吹雪の舞う景色を。
……いつか、音楽で表現したいと思う日が来るのだろうか。
それは、分からないけれど。
いつか、万が一そんな日が来るのだとしたら。
こうして、春の午後の徒然に、意味もなく桜吹雪を眺めることは、無駄にならない。
(……嫌な気持ちじゃないからな)
……例え、無駄にしかならない時間であったとしても。
二人で肩を並べて、綺麗な風景に目を奪われる瞬間に抱く気持ちは、悪いものじゃないから。
本当は、それだけでいい。
隣り合って、ただ目の前に降る桜を眺める。
足元の石畳が、見る間に薄紅色の色彩に染まっていく。
それに見愡れて。黙ったまま、空を見上げて。
二人の間に静かに降りて来る沈黙の中、ふと横目で土浦を見つめた香穂子が口を開き、
「……土浦くん。桜は一応食べ物じゃないから、食べちゃ駄目なんだよ」
と、妙に真面目な顔で土浦に告げた。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.1】
とりあえず、本当に桜を眺めるだけの花見を書いてみました。そういえば、花見ネタはもう1本書いたのか……。
ここ最近、宴会!カラオケ!的な王道の花見というのをやってません。遠巻きに「咲いとるなー」と眺めるだけ。しかもこれが職場になったりすると「掃除がー!」ととても現実的な事情も入って来るので(笑)素直に「綺麗だなー」の一心で眺めることができません。つまり、それだけの花見というのも充分贅沢ですってことで


