眠れないのは気のせいじゃない

土浦→日野

(おかしいだろ)
 誰に言うでもなく、声にも出さず、唇の動きだけで、土浦は一人で呟いてみる。
 明かりの落ちた見慣れた自室。ベッドの上に仰向けに倒れ込んで、目を細めてベッドの脇にある時計を見た。薄暗いから文字盤まではよく見えない。微かに見える針の位置関係から、ベッドに入ってから一時間以上経っているのが分かった。
 おかしいだろう、ともう一度呟いてみた。
 目を閉じて、鮮烈に浮かび上がるものならば、納得もする。
 何か、劇的なきっかけがあったのなら、頷けもする。
 だが、胸の中に息づく彼女は、ただ当たり前のようにそこにいて、ただ穏やかに笑っていて。
 土浦くん、と呼ぶ。特に癖のあるような、珍しい呼び方をするのはなくて。
 ただ、普通に。いつものように。
 でも、彼女の声は妙に発音がしっかりとしていて、一文字一文字を綺麗に区切るようにして、土浦の名を呼ぶ。
 土浦くん。
 彼女のその一言だけが、やけに心地よく脳裏に浮かぶから、重症だと自分でも思う。

 好きだと気付いた途端、眠れないほどに彼女を想う。
 どこの乙女思考かと、自分の純情さに、些か呆れ返った。


 決して、「これだ」と言えるほどの明確な理由があったんじゃなくて。
 いつの間にか、気がついたら好きになっていたのだと思う。
 彼女は、特に目を引く容姿をしているわけではないし、特に人前に出たがるような派手な性格でもない。どちらかといえば、ほやんとしてて、危なっかしい。そういう意味では、何かと人の世話を焼きやすい土浦の気を引くには、確かに充分な引力を持った人物なのかもしれないけど。
(そういうんじゃなくて……)
 ほやんとしてて、危なっかしくて。
 あまり人と争うことを好まないような、呑気で穏やかな性格。
 だけど、その頼りなさげな印象の裏に。
 絶対に、諦めない。
 揺るがない。
 ……そんな強さを隠し持っていた。

(土浦くんのピアノが聴きたいよ)
 あんなに、頑に退け続けていたのに。
 彼女は最後まで、めげなかった。
 幾ら突き放しても、平気で近寄って来て、そう言って。笑って。
 とうとう、土浦をピアノへと引きずり戻した。

 面倒なことに巻き込まれてしまったと思った。
 どうして自分がこんな目にと、きっかけを作った彼女を、こっそり恨んでみたこともある。
 だけど、いざ久し振りに真正面からピアノに向かい合ってみて、分かったことは。
 ……そんなものはいらないと目を反らしたその裏で、結局のところ自分が一番ピアノを必要とし続けていた、その事実。

 彼女には、感謝をしている。
 だけど、それで終わるはずだった。
 だって、他には何も。
 ……自分の事を捕らえる要素なんて、彼女にはなかったはずなのに。

 危なっかしくて。
 どこの方角からみてもやっかまれる立場なのだから、人一倍神経張り詰めてなきゃいけないはずなのに、妙に呑気で。
 でも、肝心な時に。
 ……一番、誰かの助けを必要としていた時に。
 絶対に誰にも頼らずに、自分一人の力で立ち続けた。……そんな人間。


(守りたかったんだ)
 何か、彼女に返せたらよかった。
 逃げ続けていた自分を、ピアノに向き合わせてくれた礼に。
 失いかけていた大切なものを、取り戻してくれた礼に。
 だから、ずっと気にしていた。
 重責を背負い続ける細い背中から、目が離せなかった。
 そうして、土浦はいつの間にか。
 恋に、落ちた。

「おかしいだろ……」
 何度か寝返りをうって、闇に慣れた目で、見慣れた天井を見上げた。
 自分の中で呟き続けた言葉を、実際の声にしてみたら、午前二時の静謐に、その微かな声は妙にはっきりと響いて、土浦はほんの少し息を呑む。

 おかしいだろう。
 こんなふうに、特別ではない彼女を繰り返し、脳裏に並べて。
 思い出して、心臓が跳ねて。
 そうして、眠れなくなることは。
 もう、今や、気のせいで済まされることじゃない。

 それなのに、厄介なその残像こそに。
 確かに心は暖かいものに満たされるのだから。

 おかしいだろう。
 たったこれだけのことで。
 ……眠らずに、彼女を想う時間を過ごすだけで。

 それが幸せだと想える。
 そして、浅い眠りのその淵で、ゆっくりと目を閉じて、その幸せを噛み締める。


 きっとそれこそが。
 些細なことに、幸福を感じられる、そのことこそが。

 恋の醍醐味というものなのだろうから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.26】

書き手自ら突っ込みましたが、ホントにどこの乙女思考かと(笑)
でも、土浦にこのお題が来た時に、なんか既に香穂子がどうこうではなく、ベッドで悶々と恋愛に悩む土浦像が浮かんでいたりしました。所詮へたれている訳だね、渡瀬の中の土浦は(笑)
話の内容に関わらずこの話では結構好きな「表現」が出来たので、それが満足です。ホントにこのお題で土浦が書き切れるのかなと不安だったんですが、何事も書いてみるもんですねえ(笑)

Page Top