そっと歩み寄って覗き込むと、予想通りそこには志水が眠っている。周りに楽譜が散らばっているところから見ても、譜読みをしている最中に、力尽きて眠り込んでしまったのだろう。
「もう、よくこんな場所でじっくり眠れるなあ」
半ば呆れたように、笑い混じりの声で呟いて、香穂子はそっと、志水の隣に腰を下ろしてみる。眩しい陽光は陰って、優しい風が木々の葉を揺らす。秋の気温はまだ寒くもなく、暑くもなく。快適と言えばそうなのかもしれないけれど。
体育座りの要領で、両膝を立ててちょこんと芝生の上に座っていた香穂子は、ふと思い付いて、志水の隣で同じように寝転がってみる。志水と同じ状況になってみれば、彼の気持ちが分かるかもしれないと思って。
ぼんやりと木々の隙間に青空を眺める。
ゆっくりと雲が流れて。グラウンドや練習室から聴こえて来る喧噪があるために、決して無音ではないのだけれど、周りに誰もいないその場所は、確かに静寂に満ちていて。
世界が遠いな、とぼんやり思った。
話しかける人も話しかけて来る人もいないから、それは今この場に、自分だけ、たった独りだと言うことだ。
香穂子はぱちりと緩慢な瞬きをした。ふわあ、と小さく、欠伸も一つ。
(……気持ちいいかも)
そして、心の中に消えない、心地よい音楽。
それが、志水がいつも見ている世界。
……成る程、こんな優しい世界は眠りを誘う。
納得して、香穂子は目を閉じた。
「……香穂先輩?」
目を開けて、正面に見えた顔を、まだ眠りの淵にあるぼんやりとした脳裏で認識する。
最初から、側に先輩がいたっけ? と首を傾げながら、じいっと目の前にあるものを凝視する。
くうくうと安らかな寝息を立てて眠っている香穂子は、穏やかな表情をしている。思わず顔を綻ばせる感情は、彼女のヴァイオリンを聴く時と似ている。
優しくて、愛しくて。
何よりも甘い感情。
「……先輩?」
呼びかけても、香穂子が目覚める気配はない。
こんなに気持ちのいい午後だから。ゆっくりと瞬きをして、志水も納得する。
無造作に芝生の上に投げ出されている香穂子の片手に、そっと手を伸ばして、触れてみた。
柔らかな、小さな手。
はぐれないよう、ぎゅっと握りしめるけれど、香穂子はやはり起きる気配はない。
見上げた空は、優しく澄んだ青色で。
風は心地よく、緩やかに雲を流して。
煩わしい喧噪は、遥か遠く。
ここはただ、志水と香穂子、二人だけの世界。
眠っているだけで時間は否応なく過ぎて。
もう、この心地よい眠りから目覚めて、この世界を後にしなければならない時間は、間近に迫っているけれど。
(あと少しだけ……いいですか?)
答えない香穂子に、心の中で問いかけて。
そして、彼女の手を掴んだまま、志水はそっと目を閉じる。
誰にも脅かされない、侵食されない。
二人だけの、小さな世界。
うたた寝の、浅い眠りの度に覗き込む。
そこは、心の奥底に大事に大事に抱いている、安らかな音楽に満たされた。
穏やかで優しい、幸福な世界。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.2】
うたた寝大好きです!(違)まあ、私はいつの間にか爆睡になりますが。
うたた寝という言葉のほのぼの感が出せていればと思います。


