目を開いて視界に入った風景を、認識するのにわずかな時間を要した。ぎゅっと目を瞑って開くと、焦点の合っていなかった視界に、重なる枝と葉と、間から見隠れする冬の青空が見えた。
(また、寝ちゃった……)
こんな季節に転がって寝ていたら風邪を引くよ、といろんな人から嗜められるのに。
風邪を引くかどうかは特に気にすることではないけれど、月森がよく言う「練習もだが、自身の体調管理も必要だ」という言い分はもっともだと思うので、ちょっとだけ反省をした。
今体調を壊せば、アンサンブルを組んでいる彼らに迷惑をかける。何よりも、そのアンサンブルをまとめているあの人に。
それだけは駄目だと、志水は一人頷いた。
「……っ!」
茂みの向こうから、誰かのしゃくりあげる音。
それが、よく知っている人の声だったから志水は身体を起こした。そういえば、誰かがここに来たから自分は目を覚ましたのだ。
四つん這いで這って、茂みの間から顔だけを覗かせる。
志水がいた茂みのすぐ側ににょきっと伸びている樹木の根元に、香穂子が項垂れている。
泣いているんだと、綺麗な頬の曲線をきらきらと光を弾く水滴が落ちていくから、すぐに分かった。
「……先輩?」
状況にそぐわないのんびりとした声で、思わず志水は彼女を呼んだ。
はっと目を見開いた香穂子が、弾かれたように身を起こしてこちらを見る。
「あっ、し、志水、くん……っ」
光の届かない樹の根元だけ、芝生は生えていない。地面についていた片手を上げて、咄嗟に涙を志水から隠そうとするので、香穂子の頬は濡れていることもあって泥まみれになった。
「汚れます」
「えっ!?」
「手に土がついてるから」
忘れないように、と、いつも叔母がチェックをしてくれるから、ジャケットのポケットには綺麗にアイロンをかけたハンカチがきちんと入っていた。それを取り出して、香穂子に近付いた志水は、ごしごしと少し乱暴にハンカチで彼女の頬を拭う。
「あ、……ありがとう」
懸命に無理をして笑う香穂子は、痛々しかった。
志水はふと首を傾げ、穏やかな声で尋ねてみる。
「……泣きたいことが、あったんですか?」
志水は、彼女がこうして、こんな場所で人目を忍んで泣かなければならない訳を知っている。
コンミスに抜擢されて以来、一時期学校の二分化を阻止したことで英雄扱いだった香穂子は、一転して今度は批判の目に晒されていた。
特に、自分たちを差し置いて学校代表としての立場を奪い取られたと思い込んでいる音楽科の生徒からの風当たりは厳しいらしい。
アンサンブルの練習をしている時……志水や月森、音楽科でも評判のいい実力者が側にいる時にはそういう陰口は聴こえて来ないが、教室で机に突っ伏して寝ていると、志水は聴いていないと思っているのか、聞こえよがしに香穂子の悪口を言うものがいる。それは、どうしようもなく不快なノイズ。
だが、それに反論する気は、志水にはなかった。
いちいち反論しなければならないとすら思えないほどに、随分と的外れな評価だと思っていた。
(先輩の音を聴いたら分かる)
個性の強い(らしい)自分たちを繋いでくれる、彼女のヴァイオリンの音色。
それが、どれほど素晴らしく、意味のあるものなのか。
……どれほど志水の心を、惹き付けるものなのか。
(……泣かないで、愛しい人)
泣く必要なんてない。
傷付く必要なんてない。
だけど、どうしても。
挫けて立ち止まって、迷ってしまう時には。
(我慢をしないで)
泣いてもいい。
弱くなってもいい。
彼女が弱さを見せたとしても、アンサンブルの仲間たちは、誰一人として彼女を見捨てない。
それは、もちろん志水だって。
何故ならば、彼女の奏でる音楽で、自分たちは繋がれているのだから。
大丈夫だと告げる志水の言葉に安堵したのか、香穂子はやがて、とても静かに泣き始める。
無意識なのであろうが、その前に繋いだ志水の手を離さずに、縋るように握り締めて来るので、志水もまた、離さずにその手を握り返す。
泣いても大丈夫。
何一つ変わらない。
だけど、泣き止んだら。
重いものを全て吐き出したら、その時には。
(どうか、笑っていて下さい。……香穂先輩)
志水に向ける彼女の表情は、どれもとても愛おしいものだけれど。
陰りのない、素直な彼女の笑顔こそが。
何よりも好きだと、志水は想うから。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.21】
ちょうど「2fアンコール」に手を付け始めた時期だったので、発売後に書いた土、水、火、木辺りにはこの辺りのネタが多いです。また、この話は「大丈夫」の志水視点になっておりますが、別々に読んでも問題は全くありません。
志水としては、噂話とかには全く頓着しなさそうだけど、それで香穂子が傷付く→音が乱れるという図式になるのならば、一番不快感を示しそうです。


