幸せなひと時

志水×日野

 息苦しいな。
 懸命に首だけを伸ばして、香穂子は大きな溜息をつく。狭い空間でもぞもぞと身体を動かすと、耳元で心配そうな声が響いた。
「……苦しいですか?」
 その声のあまりの近さに、香穂子は思わず身震いした。慌てて出来うる限りその耳元にある唇から身体を反らして、ふるふると首を横に振る。
「ぜんっぜん!大丈夫!」
 意外に大きくなってしまったかもしれないと焦った香穂子の声は、がたんと揺れる電車の音にかき消された。そうですか、と何故か残念そうに志水が俯いた。




 一緒に動物園に行こうと約束したのは、昨日の夜のこと。
 全く遊ぶ予定なんて決めていなかったけれど、この春生まれた動物の赤ちゃんを特集していたニュースを観ていたら、俄然実物を見に行きたくなった。直接抱っこできるのも今週一杯だというので、慌てた香穂子は志水の携帯に電話を入れる。
 突然なんだけど、明日動物園に行かない?と誘ってみると、しばし沈黙した志水は、嬉しそうな声でゆっくりと呟いた。
「ちょうど、動物の赤ちゃんをテレビで観ていて……僕も、行きたいなって思ってたんです」
 私も!としばし同じ映像を観ていたことに二人ではしゃいで、じゃあ、一緒に行こうねと約束して電話を切った。その時は予想していなかった。
 香穂子たちが暮らす領域の中で、同じニュースを観ていたのは、香穂子たちだけではなかったこと。
 今度の休日で触れ合い期間が終わってしまう、赤ちゃんたちを抱っこ出来る休日は、翌日しかなかったこと。
 結論として、香穂子たちと同じことを考える動物好きの人間は、一人や二人ではなかったこと。


 電車通学をしたことがない香穂子は、ラッシュというものを知らなかったので、通勤ラッシュ並に混み合っている休日の電車内に、まず呆気に取られた。
 だが、普段はほやっとしているようでも、きちんと電車で通っている志水は幾分慣れているようで、あわあわと人波に押されてしまう香穂子を、咄嗟に扉前に引き寄せて、両腕で囲って、空間を作ってくれる。押される息苦しさにようやく慣れて来ると、今度はその自分の置かれている現状に、香穂子は戸惑った。
 空間を作ってくれるとは言え、のんびりと向かい合って話すほどの余裕はこの電車内には荷物棚の上くらいにしか存在しないので、香穂子と志水の身体は密接している。少しでも余計な空間を取らないようにと香穂子に覆い被さるようにしている志水の唇が香穂子の耳のすぐ側にあって、微かに熱い呼吸が触れていた。
「ご、ごめんね。志水くん。苦しくない?」
 自分を守ってくれている志水に、香穂子は小さな声で問いかける。電車の騒音がうるさいとは言え、人が密集している車内で喋っている人は他にいなかったから、自然と話し掛ける声が小さくなった。ちらりと香穂子を見下ろした志水が、笑ってふるふると首を横に振った。
「大丈夫。慣れてます」
 その一言が、また柔らかく空気を震わせて、香穂子の耳に滑り込む。
 話しかけたことを、香穂子はすぐに後悔した。
(志水くんに話させちゃ駄目だ……!)
 心臓が、持たない。

 真っ赤になって俯いて。
 一言も喋らなくなった香穂子を見下ろして、志水は首を傾げる。
 香穂子が何を警戒したのか、赤くなった耳から悟ったから。
 ちょっとした嗜虐心がわいて来る。
「先輩?」
「うわっ」
 低く、彼女の耳元で囁くと、小さく香穂子が悲鳴をあげるので、志水は嬉しくなる。
「僕は、全然苦しくないです」
 脈絡のない言葉が、先程の香穂子の問いかけから続いていることに香穂子はしばらくして気がついた。
「こんなに、幸せなひと時は……他にないです」
 香穂子の背後には、切り取られた景色を早いスピードで流していく窓があって。
 彼女の左右には、背を向けた家族づれのお父さんらしき人がそれぞれ背を向けてつり革を握っていて。
 香穂子を庇う志水の背には、先程から長身の青年の背中が当たって、彼が両耳に引っ掛けているヘッドフォンからは、シャカシャカと流行りの音楽の欠片がこぼれ落ちている。
 だから、間違いなく。
 こんなに周りに人がいたとしても。
 志水と香穂子は、確かに二人きりだったのだ。

 香穂子の顔の横に、志水が片手をつく。
 あまり身長差のない二人の唇は、少し志水が身を屈めただけで、容易く触れた。
 軽く触れたキスのあと、驚きに目を見開いた香穂子の表情を、少しだけ身を起こして離れた志水が満足げに見やって。
 それから、志水は。
 周りを人垣に覆われた、誰にも見られない狭い空間で。
 香穂子に深い、深いキスをした。


 開いた自動ドアから、大量の人が吐き出される。
 楽しげに声を上げて笑いながら、動物園へ向かう親子連れ。
 ポケットサイズの地図を広げながら、出口を確認する数人の女子中学生たち。
 同じように同じ場所へ向かう人達が作り上げる喧噪の中、香穂子が何かを叫んで、志水が穏やかに何かを返して。
 そして、打って変わって中身が疎らになった電車がまた次の目的地へ走り出すために、発車のベルを軽やかに構内に鳴り響かせる中。

 不満げに真っ赤な顔で志水を上目遣いに睨む香穂子と、楽しそうに笑っている志水は。
 磁石がくっつくみたいに自然に、ぎゅっと互いの手を握り締めて歩き出した。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.21】

志水でこういう雰囲気の話が書けたことは、自分的には収穫だと思っています。志水最強(笑)の持論は以前から持っていたのですが、イメージだけが先行してて、形にならなかったので。ネタはもちろんキャラソンから来ております(笑)
毎年、春頃に何とかの赤ちゃんが産まれましたーのニュースを見るとそわそわしてしまうタチなんですが(笑)さすがに、小さい子どもでもいないとなかなか「行こう!」ってことにはなりませんね。

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