大丈夫

志水←日野

 走り通しで辿り着いた森の広場。乾いた冷たい空気が喉から肺に到達して、ひりひりと痛んだ。
 木の幹に片手で縋って、香穂子はずるずると、土に汚れるのも構わず、その場に膝をついて座り込む。
 呼吸が落ち着かなくて、耳の後ろ辺りで自分の鼓動がうるさく響いている。呼吸を整えようと息を吸い込むと、喉の奥でひゅうと乾いた音がする。幹に縋る片手が冷たい。息を吐き出す瞬間に、どこかのネジが外れたみたいに、土の上にぱらぱらと涙の粒が振り落ちた。
(……駄目だ)
 心の中で呟いた。
 泣いちゃ駄目だ。折れちゃ駄目だ。
(言われても仕方ないんだ)
 それでも。
 香穂子は、こんな思いをするために、ヴァイオリンを手にしたのではなかったはずなのに。




 アンサンブルコンサートの話があった時にも、コンミスの話があった時にも、香穂子が自分から望んだものは何一つなかった。
 ヴァイオリンを始めて一年にも満たない自分が、何か物事の中心に立って事態を動かしていくことに、一番違和感を抱いていたのは、おそらく香穂子自身だろう。今振り返ってみても、何故こんな状況に自分が追い込まれているのかがよく分からない。
(救世主気取りですか?)
 呆れたような冷たい声。
 そんなつもりはない。そんな誤解をされたくて、理事長からの提案を受けたわけじゃない。
 あの厳しい理事長のことだ、本当に香穂子には無理だと思うのなら、初めから香穂子にコンミスを任せるとは言い出さないだろう。確かに学院の宣伝としてはこれ以上の話題性はないが、失敗した時のリスクは測り知れないのだから。
(よく、恥ずかしげもなくコンミスだなんて言えますね)
 相応しい人は別にいるのに。
 そんなことは、香穂子だって分かっている。自分が代表として沢山の構成員で形作られるオーケストラを率いていける自信なんて、これっぽっちもない。
 だけど、香穂子は一度引き受けたことから逃げ出したくはなかった。
 期待に応えるとか、そういう格好のいい話ではない。
 この学院が、大切なものが何もなかった香穂子と、ヴァイオリンというものを出逢わせてくれた。
 おかげで充実した、何かに夢中になれる輝かしい毎日を手に入れた。
 その礼に、自分が出来うることであるならば、力を尽くしてみようと心を決めただけ。
 ……だが、それは、そんなに誰かから厳しく糾弾をされなければならない決心だったのだろうか。
「……っ」
 その場に両手をついて、香穂子は嗚咽を噛み殺す。
(自分は悪くないと思えるのなら、堂々と胸を張っていらっしゃい)
 そう香穂子を励ましてくれたのは、香穂子がコンミスを任されたオケを指揮する都築だった。だから香穂子はずっと顔を上げてきた。周りにどんな目で見られても。どんなことを言われても。
 どんなに批判をされたとしても、自分が悪いことをしているのだとは、到底思えなかったのだ。
 だけど、強がり続けるには香穂子にはまだ覚悟が足りなかった。
 限界が近いのだと、聞こえよがしの批判に、自然と浮かんできた自分自身の涙がそれを教えてくれた。
 その場から走り出して、香穂子は逃げた。
 逃げたくはなかったけれど、平気な顔をしてその場に立っていられるほどには強くいられなかった。
 ただどこかで、思いきり泣いてやりたかった。
 そうして、辿り着いたのがこの場所だった。
 これで思う存分に泣ける。……そう思ったのに。
 ずっと泣くことを我慢していた香穂子は、子どもみたいに大声で泣き喚くことは、もう既に出来なくなっていた。


「……先輩?」
 香穂子の心境に、全くそぐわない、のんびりとした低い声が滑り込んで来る。
 聞き覚えのある声に、香穂子ははっと我に返って顔を上げた。視線を巡らせると、側の茂みの間から、志水がひょっこりと顔を覗かせている。
 ふわふわの癖っ毛に葉っぱが絡まっているから、いつものようにその辺りで転がって寝入っていたのだろう。
「あっ、し、志水、くん……っ」
 慌てて香穂子は身を起こし、地面についていた片手を持ち上げて、乱暴に頬の涙の跡を拭う。怪訝そうに顔をしかめた志水が、四つん這いでのそのそと茂みから這い出して来た。
「汚れます」
「えっ!?」
「手に土がついてるから」
 淡々と告げた志水が、ポケットからハンカチを取り出し、香穂子の片手を掴んで頬から外すと、ごしごし、と不器用な手付きで頬を拭ってくれた。
「あ、……ありがとう」
 香穂子が懸命に笑ってお礼を言うと、穏やかな表情の志水が、ふと首を傾げ、静かな声で香穂子に問う。
「……泣きたいことが、あったんですか?」

 こんな場所で、一人きりで。
 声を殺して泣かなければならない何かが、貴方にあったんですか?

 唇を引き結び、香穂子が息を呑む。
 その場に躊躇うことなく腰を落ち着け、志水はただ、じいっと香穂子を見つめた。
「そんなこと……は」
 ない、とは言い切れない。
 負けては駄目だ。堂々としていないと。
 そう、心で幾ら強く思っていても、容赦なく叩き付けられる悪意に心は傷付いていく。
 だけど、アンサンブルで懸命に協力してくれている彼らには、そんな自分を知られたくなくて。
(だって、私はアンサンブルをまとめなきゃいけないから)
 ゆくゆくは、もっと頼るもののいない環境で、オーケストラを。
 それなのに、たったあれだけの悪意で、泣くなんて。
 志水は、ふと視線を巡らす。
 何か、言葉を探すようにしばし空を彷徨ったその視線は、やがて香穂子の上に戻って来て。一つ瞬きをした志水は、落ち着いた声で一言呟いた。
「……大丈夫、ですよ」
 香穂子が息を呑む。見つめ返す香穂子の視線の先で、志水はただ穏やかに笑んでいる。
 そうだよね、と香穂子が懸命に笑った。
「大丈夫、だよね。アンサンブルとか、オケとか……他の誰が何て言っても、私は……」
「そっちじゃなくて」
 香穂子の言葉を志水が遮る。え、と驚いて声を上げた香穂子の手を、志水の優しい手が、ぎゅっと握った。
「時々は、辛くて泣いたりしても。先輩は、大丈夫ですよ」

 志水があまり興味のわく話題ではないけれど、香穂子の評価がいいものだけではないことは、嫌でも耳に入って来る。面と向かって「あの普通科に関わるのはやめれば?」と言われたこともある。
 だが志水は、彼女以上に側に寄り添って心地よくなれる音楽を、他に知らない。
「先輩がどんな気持ちであっても、先輩の音は変わりません。だから時々は泣いたり、挫けたりしていいんです。先輩の音が、先輩らしい音であるなら、きっとアンサンブルの皆さんは……僕は。コンミスに相応しいのは先輩だって気持ちは、変わらないから」
 心無い中傷に負けていい。
 泣いていい。
 それで、何か彼女の根本にあるものが……コンミスに選ばれたその資格が、消え去るとは志水には思えない。
「だから、大丈夫。先輩は、時々泣いていいんですよ」

 大丈夫、大丈夫と無責任に繰り返す言葉は、上辺だけの慰めでしかない。
 その言葉を香穂子に告げる志水にだって、何が「大丈夫」なのかは、はっきりと言葉で示せないのだ。
 だが、楽しい音楽を聴けば心が浮き足立つように。
 哀しい音楽を聴けば、ふと涙が落ちるように。
 そこに根拠がないただの言葉だけでしかなくても、信じて大事に繰り返していれば、それは確かに胸の奥に抱くに相応しい、心を守る言葉になる。

 香穂子は顔を上げる。
 変わらない志水のふわりとした笑顔がそこにはあって。
 ただ、何も言わず、大丈夫だと信じて。
 穏やかに笑ってくれるだけで、救われる気持ちがあることを知った。

 懸命に押し止めていたものが、決壊する気配がした。
 やっぱり、子どものように声をあげて、全力で泣くことなんて出来なかったけれど。
 それまで降り積もっていた重いものを洗い流すくらいには長く、香穂子はただ、その場で泣き続けた。

 志水は、特に何を言うでもなく。
 時折思い出したように、大丈夫と呟く他は。
 ただ、黙ってそこにいて。
 強く、ぎゅっと香穂子の手を握り締め続けてくれていた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.21】

がーっと泣いちゃえばすっきりするはずなのに、何だか泣けない時ってありますよね。大人になると特に……(遠い目)「泣かないで、愛しい人」の香穂子視点になってます。「大丈夫」の一言を、誰かに言って欲しい時ってありますよね。あと、「休んでいいよ」とか「他は私(もしくは僕)がやるよ」とか……(笑)
所詮、渡瀬は現実で体感したことをそれっぽく創作として書き記すだけなので、元になったことって現実的過ぎて嫌だなあ(笑)

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