教室に入るなり、目敏い柚木がそう指摘した。やっぱり分かる?と顔をしかめて、火原は片手で頬を押さえた。
「それが、おれにもよく分かんなくて……」
どっかりと自分の椅子に腰を下ろし、火原は大きな溜息をつく。
「心配だっただけなのに、何で香穂ちゃん、怒っちゃったのかなあ……」
「なるほど? やっぱりそれは、日野さんの手形なんだ?」
苦笑して、柚木は小さく伺うように首を傾げる。
いまだに火原が痛そうに撫でる彼の頬には、赤い紅葉のような平手の痕が残っていた。
「朝から香穂ちゃん、具合悪そうでさあ……」
机の上に頬杖をついて、柚木が尋ねもしないのに火原は詳細を語り出す。何かが起こった時、火原が全てを話し、それを柚木が聞くのがいつもの光景だったから、柚木も特に疑問符を挟むことはなく、静かに火原の隣の席に腰を下ろし、彼の話を聞いている。
逆の光景を火原が夢見ていることは知っているが、出会ってから約3年、逆の図式が展開されたことはただの一度もない。
「どうしたのかって聞いても、教えてくれなくて。保健室に行かないなら、おれが何かしてあげられたらって思って、いろいろ聞いてたら」
ぱちん、と耳の側で乾いた音がして、一瞬火原は何が起こったのか分からずに、反射的に熱いと思った頬に手を当てて、ぽかんとした。真っ赤になって、涙目で火原を睨む香穂子が、小さな声で呟く。
『……先輩の、馬鹿……!』
そのまま、香穂子は走り去っていった。何がどうしたという理由を聞くことも出来ず、火原は呆然とその背中を見送るしかなかったのだ。
「ふうん……」
火原の説明を聞いた柚木は、何かを考え込むように顎に指先を当て、空に視線を巡らす。
「……ねえ、火原。もしかして、その時周りには人が大勢いた?」
「え? ……あ、うん! 登校途中だったから、うちの生徒が結構……でも、何で?」
首を傾げる火原に、柚木は困ったように苦笑する。
「それは、火原。……君が悪いよ」
「え!?」
意外な柚木の言葉に、火原は目を丸くする。そんな火原を宥めるように、柚木の片手がぽん、と火原の肩を叩いた。
「女の子には、女の子の事情があるってことだよ。……どうしても気になるなら……そうだな。日野さんと二人きりの時に聞いてみたら? そうしたら、ちゃんと答えてくれると思うよ」
その時、予鈴が鳴り響き、詳しいことを聞けないままに柚木との会話は終わってしまった。
授業中、頬杖をついたまま火原は考え込む。
いつになく真剣な火原の表情に、「心を入れ替えたか? 火原」と笑った担当教師の言葉も、耳に入らない。
考えても考えても、自分の思考が柚木のように正解にたどり着けないのだと分かっていたから、火原は決心をする。
柚木の言う通り、香穂子と二人きりの状態で、理由を聞いてみようと。
「保健室!?」
昼休み、早速香穂子の教室を訪ねると、見知った彼女の友人たちが、香穂子が保健室に行ったことを教えてくれた。
「そんなに、具合が悪いの?」
「何か、お腹痛いみたいです。多分……」
「こら、美緒。余計なことを言わない」
何かを言おうとした香穂子の友人を、もう一人の友人が肘で小突く。あ、そっか、と美緒と呼ばれた友人は口元を押さえた。
「ついさっき行ったばかりだから、まだ保健室にいると思いますよ」
「うん、分かった! おれ行ってみるよ。ありがとう!」
ひらひらと片手を振って、火原が笑って走り出す。友人二人は、「相変わらず元気な先輩だねえ」と、苦笑しながら、走り去る火原の背中を見送った。
「香穂ちゃん!」
すぱん、と保健室の扉を横に勢い良く滑らせると、保健室の中心で椅子に腰掛けていた香穂子がぽかんとして火原を見た。昼休みのせいか、保健室の主である養護教諭は部屋の中にはおらず、香穂子一人だけがぽつんと取り残されていた。
「火原先輩!……何でここに……」
「教室行ったら、お友だちがここだって教えてくれたんだ。そんなに具合悪いの?」
「えっと……具合悪いって言うか……痛み止めの薬が欲しかったんですけど、先生がいなくて」
朝に平手をお見舞いした手前、居心地が悪くて香穂子は表情を硬くしたまま、火原を見ずに自分の足元を見ている。構わずに、火原はずんずんと大きなストライドで室内に入り、香穂子の前にあった丸椅子に、すとんと腰を下ろした。
「あのね、香穂ちゃん。おれ、柚木に怒られた」
「え?」
別に、叱られたわけではないが、意味合いとしては同じだと火原は思う。
まだ良く分かっていないけど、柚木がああ言ったからには、自分には何か、香穂子を怒らせるほどの落ち度があったのだ。
「きみにはきみの事情があるんだって……。まだよく分からないんだけど、おれ、きみにしつこく聞いちゃいけないことを聞いたんだよね? だから……ごめん!」
両膝に手を置いて、火原は大きく頭を下げた。
……彼女が、辛い時、苦しい時。
自分には何でも話して、遠慮なく頼って欲しいと思う。
だけど、それは火原の勝手な、ひとりよがりの感情だ。
何でも話し合いたい、分かち合いたいとは思っていても、彼女に話せない思いは、火原だって持っているはずなのに。
「……あの、先輩」
戸惑う香穂子の気配がする。「顔、上げて下さい」と香穂子が言って、火原はおそるおそる、上目遣いに彼女を見つめる。
「……引っ叩いちゃって、私もごめんなさい。人が多い場所だったから、火原先輩が心配して聞いてくれてるのに、理由言えなくて。どうしていいか分からなくて」
「……え?」
真っ赤になって俯く香穂子が、消えそうな細い声で。
「……生理痛だったんです……」
と、教えてくれた。
「……えっ、……あああ!」
椅子を鳴らして、火原も真っ赤になって立ち上がる。
女の子には女の子の事情があると言った柚木の言葉。
何かを教えてくれようとした彼女の友人を、もう一人の友人が「余計なことを言わない」と制止したこと。
全てに合点がいった。
「ごごご、ごめん! おれ、ホントにデリカシーが……」
「いいんです。多分そこまで考えてないな-って思ったし。心配してくれてるだけっていうのも、ちゃんと分かってたから」
頭を抱えてうずくまる火原に、小さく笑う香穂子がそう言った。
衆人環視の中で、体調不良の理由を聞いて来る火原に、本当のことを言うのは恥ずかしくて、どう誤魔化していいのか、分からなくて。
動転してしまったとはいえ、随分と酷いことをしてしまったのだから、香穂子も同罪だ。
「……まだ、赤いです、よね? ホントに、ごめんなさい」
申し訳なさそうに言って、同じようにしゃがみ込んだ香穂子がそっと火原の頬に指先で触れる。火原は自分の浅はかさに溜息をつきながら、苦笑してみせた。
「いいよ。これはおれのデリカシーのなさが悪いんだから」
「……叩いたの、許してくれる?」
上目遣いに、香穂子が尋ねる。火原は大きく頷いた。
「もちろん! それより、おれの方こそごめんね。ほんっとおれって、いろんなこと分かってなくて」
香穂子は微笑んで首を横に振る。
……柚木並みに、一言で全てを察するような人間ならば、そっちの方が余程怖い。
指先で触れた頬には、紅葉を散らしたような香穂子の掌の大きさの赤い色。
自分にも、もうちょっと対処の仕様があったのに、上手く出来なかったことが、申し訳なくて。
いろんな感情を込めながら、香穂子は火原の痛々しい頬を撫でて。
そっと、その平手の痕に口付ける。
「……っ!」
絶句する火原が、ざっと後ずさって、自分の手で今香穂子にキスをされた頬を押さえる。
朝、叩かれた時以上に、熱い頬。
そんな火原をしゃがみ込んだまま見つめている香穂子が、困ったように笑った。
頬に散った紅葉の色を隠すように。
小さなキス、一つだけで。
身体中が別の感情に、染め変えられる。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.6】
渡瀬が痛みが酷い人なので、ついついこういう話を書いてみたり……。
お題が赤味を差す、という意味で「紅葉」とされたのか、そのままなのかがはっきりしなくて、どうせなら「紅葉」らしいネタにしてみようと、こんな話に(笑)
火原が叩かれるとしたら、こういう理由だろうなあと。(聞かれたくないことをずっと聞かれるとか)お題を提供して下さった方はもっと情緒あるものを求められていたのかもしれないですね。申し訳ないです(苦笑)


