頭の中で何度も同じ場面を繰り返し再生してシミュレーションしているから、自然と口数が少なくなる。和樹先輩、具合悪いんじゃないですか?と、結構本気の表情で心配をされた。
火原が大学に合格したら、敬語を止めて名前を呼び捨てで呼んでくれると約束してくれた香穂子は、「いきなり変えるのは照れくさいし、難しいから徐々に変えていきますね」と言っていたけれど、あれから3年が経っている今でも、火原先輩が和樹先輩に変わったくらいで、あまり全体的に変化はしていないように思う。それでも、ほんの時々。ものすごく稀に、あの時の約束を守ってくれるようになったから、それで火原は満足している。……というよりも、一度呼んでくれないことを抗議したら、「じゃあ、先輩が私を『香穂子』って呼んでくれたら、ちゃんと呼んであげます」と条件を付けられ、結局、照れる火原が通常時には彼女を呼び捨てで呼べないためだ。だから、火原が「香穂子」と呼べる時だけ、彼女も自分を名前で呼んでくれる。……それがどの時点でかというのは、今のところ二人の秘密だけれど。
(そんなふうにさあ。結構おれたち、長く一緒にいるよね)
高校よりも1年長い大学生活。少し長く感じるのかなと思っていたら、意外にもあっけなく過ぎてしまった。
友達を作って、トランペットを吹いて。勉強には時々四苦八苦しながら、それでもやっぱり学校に通う日々は楽しくて。そんなふうに、高校時代と大差はない学生生活を送る中で、唯一高校時代と違っているのが、香穂子の存在だった。
香穂子は違う大学に通っているけれど、時間を見つけて逢う度に、楽しいこと、嬉しいこと、辛いこと、苦しいことを、語って、聞いて受け止めてもらって。……そんなふうにいろんな感情を分け合える存在がいた。それは、随分と大きなことだった。
そんな大学生活も半分以上を過ぎ、そろそろ火原が次の行く先を決めなければならない時期が来た。
とにかくトランペットが吹ければいい、と漠然と思っていた昔と違って、今ははっきりと行きたい道が決まっている分、心は穏やかだった。その道が容易いかどうかはこの際別の話として。
そして、火原はこれから先の自分が歩いていく道を想像した時に、その隣に香穂子がいないことが、もう考えられないのだ。
(だったらさ。ちゃんと言っておかないと駄目だよね)
兄に相談すると、先走るのもいい加減にしておけと嗜められそうだけど。
それでも、どれだけ考えてみても。
これが言ってはいけない気持ちだとは思えない。
「……あのさ、香穂ちゃん」
自分の思考に沈んでいた火原が、ようやく口を開いた。
火原が話し出すのを根気強く待っていた香穂子は、不満そうにすることもなく、はい、と丁寧に返事をする。
名を呼んで、また火原は躊躇する。何度か大きく息を吸い込んで、吐いて。
自分の両膝をぎゅっと握って。
目を瞑って、思い切って。
「あのさ。おれが先生になって、ちゃんと香穂ちゃんと一緒に暮らしていける準備が出来たらさ、おれと結婚してくれないかな!?」
一息で言い切った。
目を閉じているから、香穂子の反応は分からない。
香穂子がどう、というよりも、まず自分の激しい鼓動の方がうるさい。
「あ。……はい」
分かりました。と香穂子が何だかとても、普通の会話の続きみたいに答えた。
「ヒドイよ!香穂ちゃん!」
がばっと顔を上げた火原が、大声で叫ぶ。きょとんとした香穂子がぱちりと一つ大きく瞬きをした。
「おれが、これ言うのにどんだけ緊張して……いきなりこんなこと言ってドン引きされたらどうしようって……一応すっごく悩んだのに、バカみたいじゃん!」
「だって」
まだ、普通の会話の続きみたいに、穏やかな表情の香穂子が小さく首を傾げる。
ものすごく当たり前の常識を諭すみたいに、迷わない口調で火原に告げた。
「今の言葉なら、断る理由がないですから」
「……え?」
緊張から一瞬で解放された火原が思わず涙目になっている。それを見つけて、苦笑して、香穂子が先輩、いい子いい子、と頭を撫でてくれた。
「だってね、先輩。私、和樹先輩が大好きなんですよ」
知ってるでしょう?と香穂子が笑う。
これが、例えば。
今すぐ結婚しようと言われたら、香穂子は躊躇する。
結婚が、単純に好きな人とずっと一緒にいられる、という甘いだけの、夢物語じゃないという現実が、高校時代より大人になった今は、少しは分かるようになったから。
だが、火原は「自分が教師になってから」という但書きを付けた。
それは、浮ついた一時的な感情なのではなく、きちんと地に足を付けた状態で願う、未来の姿。
「本当はね。数年後の未来なんて、私には分かりません。もしかしたら、私も和樹先輩も、全然別の人を好きになっちゃったりするかもしれない」
変わらない想いを信じていたい。
それでも、人の心はずっと同じものじゃないから。
今は考えられなくたって、数年後の自分たちは、お互いに愛情を抱けないかもしれない。
「だけど、今ここで。誰が一番好きで、誰と一生一緒にいたいかって聞かれたら、やっぱり私は和樹先輩を選ぶんです」
今すぐに、というプロポーズなら躊躇った。
もしかしたら、数年後、何もかも心配事がなくなった時に告げられるプロポーズでも、やっぱり躊躇うのかもしれない。
だけど、今、誰よりも火原を好きでいる香穂子に。
いつか、本当に『結婚』という状況が望める時に、そうしようと言われるのなら。
香穂子には、今のこの申し出を受け入れる以外の選択肢はない。
「……あのさあ、香穂ちゃん」
「はい?」
「おれ、感動して泣きそうなんだけど」
もう既に、言葉尻が震える声で呟いた火原に、香穂子が声を上げて笑った。
火原が、香穂子の片手を握る。
訝しげに火原の顔を見つめる香穂子に、目が合わせられない火原が、視線を宙に泳がせながら言った。
「さっき、びっくりして何か余韻かみしめる暇もなかったから。もっかい、やり直していい?」
思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえて。
はい、と丁寧に香穂子が答える。
一つ咳払いをして。
珍しく、とても真剣な顔で。
火原が香穂子の顔を覗き込んで。
「……いつか。おれと結婚してくれる?」
と尋ねるので。
香穂子は、今度は少しだけ気を使って。
とても嬉しい気持ちを、きちんと表情に浮かべて。
桜色に染まった頬で笑いながら、静かに答えるのだった。
「……はい。喜んで」
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.4】
私的に、ものすごく火原らしい話を書いたなあという気分です(笑)
これ、他のキャラが相手なら絶対香穂子の方が火原みたいな反応になるんですけどね。何故か火原が相手の時には幾分香穂子がしっかり者になってます。
さあ、この二人が愛称じゃなく名前で呼び合ってるのはいつなんでしょうね!(大笑)


