腹に何かを溜め込むことのない、喉元過ぎれば何とやらの性質を持つこの親友にしては珍しいことだと、冷静に柚木は分析する。そうして不快感を覚えるのが自分のことではなく、全くの他人事だというのは、火原らしいと思えるのだが。
「……僕らまでが周りの評価に振り回されないことだよ。彼女が頑張っているのは、一緒にアンサンブルを組んでいる僕らが、一番分かっていることだからね」
苦笑混じりにそう告げると、火原は硬い表情のまま唇を引き結び、うん、と頷く。下手に火原たちが反論を試みると、事態が余計にややこしくなるのは分かり切っている。
柚木は小さな溜息をつく。ちらりと視線だけで背後を振り返った。
自分達に聞かせるためだったのか、そういう意図すらもないくらいの軽い噂話だったのかは分からないが、すれ違いざま、聞こえよがしに普通科の日野香穂子の批判を漏らしていた音楽科の女生徒達の、後ろ姿を見送った。
コンクールの時には、あんなに彼女を評価していたじゃないか、と火原は思う。
確かに初めは拙い音色だった。コンクールのあれこれも、音楽についての知識も足りない彼女が、戸惑って、手探りのままでいたことを火原は知っている。それでも彼女は実力者揃いの学内コンクールで好成績をおさめた。それこそが、彼女のヴァイオリンが皆に認められたことの、その証明だと信じていたのに。
(いい気になるなって言いたいのよね)
理事長の大抜擢で、オーケストラのコンミスを任された彼女。
秋から冬にかけて、星奏学院の存続すら揺るがした諸々の事態を、そのヴァイオリンの音色で収束させた彼女の功績は誰もが分かっていて、今回だって、皆が彼女を応援してくれると思っていたのに。
「出過ぎた杭は打たれるってことだよ」
自分よりも冷静で、周りのいろんなことが見えている親友は、淡々とそう言った。
「皆、自分の損得が第一なんだよ。学院が二分されることについては、都合が悪い人間が多かった。だから自分が労を費やすことなく、万事丸く収まってくれれば言うことはなし。だけど、オケのコンミスとなれば話は別だ。いくら学院の宣伝を兼ねてとは言え、音楽科専攻の自分たちを差し置いて、普通科の日野さんが代表としてコンミスを務めるのは、誰しも納得がいかないんだ」
あまり綺麗なオブラートに言葉を包まなくなった親友の言葉は、以前よりも火原には理解しやすくなった。「音楽ってそういう狭いものなの!?」と憤る火原に、頬にかかる長い髪を指先でかきあげながら、柚木は溜息を付く。
「残念ながら、音楽は楽しいもの、文句があるなら音楽で勝負、なんて真っ当なことが言えるのは、君みたいに真直ぐな人間か、それこそ月森くんや土浦くんのように実力があり、且つ音楽に対して誠実な人間だけだよ、火原。……皆、それだけ音楽という世界の中で、自分自身が浮くことに必死なんだ」
「でも、香穂ちゃんだって、いい加減にやってるわけじゃないよ! コンミスに選ばれたことで、いい気になってなんか、ない!」
「それを、遠目にしか事情を知ろうとしない他の連中が、理解出来ると思う?」
穏やかな柚木の目が、火原をじっと見つめる。言える言葉をなくして、火原は勢いで立ち上がってしまった身体を、糸の切れた人形みたいに、椅子の上にすとんと下ろした。
「でも……だからって、あんな言い方……」
「悔しくて、不本意だと思うのなら、皆に音で納得させるしかないんだよ。分からず屋の理事連中ごとまとめて、アンサンブルコンサートでね」
小さく笑って、柚木が言った。ぱちぱち、と瞬きをして、火原は柚木を見つめる。
……素直には言わないし、きっと柚木のことだから、そういう彼女への評価も、当然あるだろうと冷静に受け止めてはいるのだろうけれど。
それでも、ここ最近の学院内に満ちた彼女の評価は、彼にとっても本意じゃないことだというのが、その言動から伺い知れた。
(そうだよね。アンサンブル、一緒にやってる子たちは分かるんだ……)
彼女がどれだけ頑張って、努力を重ねているのか。
どれだけ一生懸命、目の前の難題に取り組んでいるのか。
アンサンブルだって、コンミスだって、彼女自身が望んだわけじゃない。面倒なら逃げてしまったって誰も彼女を責めないと思うのに、彼女は結局、最後にはその細い両肩の上に全ての重責を背負い込む。
そんな彼女の、力になりたいけれど。
何か手伝えることがあるのなら、何だってしてあげたいけれど、火原にできることなんて、本当はたかが知れている。
(柚木の言う通りだ……)
火原が火原のできる範囲で彼女にしてやれることといえば、柚木の言うように、アンサンブルコンサートを成功させ、誰の目にも彼女がコンミスとして相応しいことを見せつけるしかない。
(後は、どれだけたくさんの人にコンサートを聴きにきてもらえるか、だよね!)
練習中の音じゃなくて、きちんとまとめられた本番の演奏を耳にすれば、きっと皆納得してくれる。そうすれば、彼女への不快な噂話や不本意な評価も、払拭されるだろう。
うん、と拳を握って頷いて、火原はふと前方に視線を上げる。
赤味の強い長い髪の後ろ姿。普通科の制服に不似合いなヴァイオリンケース。数メートル先を、日野香穂子が歩いているのが見えた。
「香穂ちゃ……」
呼び掛けようとして、ふと火原の声が中途半端なところで止まる。
彼女の耳に火原の声が届くより先に、火原の耳に飛び込んできた第三者の声があったから。
「あれでしょ。普通科のコンミス」
「ああ……やあね、ちょっとアンサンブルコンサートが評判良かったからって、調子に乗ってるんじゃない? これ見よがしに、ヴァイオリンケース握ってさ」
火原は息を呑んで、こそこそと話している音楽科の女生徒達を見る。香穂子のいる位置ならば、この声は届いている。
最近、学院内に蔓延するこの手の噂話に、火原がいちいち反論しようとすると、必ず柚木に「火原、火に油だよ」と嗜められる。だから、火原がここで彼女たちに突っかかっていくわけにはいかない。
香穂子に視線を戻す。
どうするの? 香穂ちゃん。
言い返すの? やり過ごすの? 気にしないの?
……どっちでもいい。香穂ちゃんが納得できる選択なら。
だから、傷付かないで。
きみが、傷付く必要は、これっぽっちもないんだから。
祈るように香穂子を見つめる火原の視線の先で、香穂子がほんの少しだけ、歩く足を止める。
怒る気配も、泣く気配もなく。
ただ、香穂子はほんの少しだけ。
哀しそうに俯いた。
「……香穂ちゃん!」
委細構わず、火原はその場で大声を上げた。
陸上とトランペットで鍛えた肺活量の為せる技か、はたまた昼バスでの声出しの賜物か。周りの連中が一斉に視線を向けるような大声に、香穂子が驚いたように火原を振り返った。
「火原せんぱ……」
つかつかと香穂子の側まで大きなストライドで歩み寄り、火原はがしっと香穂子の二の腕を掴む。
「ヴァイオリン、出して!」
「え? あの……?」
「練習するんでしょ? いっしょに弾こ!」
香穂子の腕を解放し、火原はその場で持っていた自分のトランペットの準備を始める。戸惑っていた香穂子が、つられるようにおずおずと自分のヴァイオリンケースを近くのベンチの上に置き、ぱちんと音を立てて鍵を外し、そうっと中からヴァイオリンを取り出した。
何事かと呆気に取られて二人の一挙一動を眺めている観衆に、火原はトランペットを向ける。視線で香穂子を伺うと、まだ困惑気味の香穂子が、うん、と頷いた。
彼女が奏でる音は、とても優しい音だと火原は思う。
確かに、技術は足りていないのかもしれない。だけど、コンサートやオケで弾くべき曲は数曲ほど。残りの日数で練習を重ねれば、彼女の努力次第で確実に弾けるようになる。
(だけど、コンミスに必要なのは、それだけじゃない……)
指揮者と他のオケのメンバー、それらを繋ぐこと。
両側の意志を、自分を挟んで対岸の互いに伝える橋渡しの役目を担い、そうして指揮者と共に、大勢のオケを構成する様々な音を、一つにまとめあげていくことだ。
(香穂ちゃんなら、大丈夫)
音を楽しむことを知っている彼女。
構成員の少ないアンサンブルとはいえ、あのクセの強いコンクール出場者たちをまとめあげていくことは、第三者が考える以上に大変だったはずだ。
……本当は。
火原が簡単に、大丈夫だと言ってしまうことも、今は彼女の重圧にしかならないのだと知っているけれど。……それでも。
(大丈夫だよ)
誰かと重ねる彼女の音は、こんなにも。
優しくて、暖かく、心に染みていくものなのだから。
数分のデュエットを終えて、香穂子と火原は閉じていた目を開く。
いつの間にか、周りに増殖していた観衆が、わっと歓声を上げて、一斉に拍手を打ち鳴らす。
火原は、視線を巡らせてその輪の中に、先程の女生徒達を探した。
輪の一番外側で、バツの悪そうな表情のままのあの二人は。
それでもしっかりと、火原と香穂子の即席のデュエットに、拍手を贈ってくれていた。
「……火原先輩」
傍らで、ぽつりと香穂子が火原を呼ぶ声。
はっと我に返った火原が、慌てて香穂子を見下ろした。
「あっ……! ご、ごめん、おれ、ちょっと強引? ……だったよね? 香穂ちゃん、行くとこあったのに……」
ううん、と香穂子がふるふると首を横に振る。
真直ぐに火原を見上げて、少しだけ瞳を潤ませた香穂子は。
とても、綺麗に。
「ありがとうございます、先輩」
静かなお礼の言葉と共に。
火原のために、笑ってくれた。
(おれは、柚木みたいに黙って見守ることなんて、できないよ)
(ちゃんと考えて、冷静にしなきゃって思っても、反射的に身体が行動しちゃうんだ)
それでも。
ちょっと強引に思える、無理矢理な演奏だったとしても。
柚木が言ったみたいに、音で納得させることは出来るのだ。
(だって、音楽って。多分、そういうものだと思うから)
彼女の音楽への誠実さも。
一生懸命さも。
音を聴けば、きっと皆分かってくれるんだ。
それは理想論だよ、と。
火原に対しては、もう歯に衣着せることのない友人は、苦笑して言うのだろうけど。
その直球ストレートの強引さが、彼女のあの笑顔を導き出すものならば。
きっと、悪くないって。そう火原には思えるのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.13】
これは意識して、お題の持つ雰囲気を裏切りました。火原らしいお題だとは思っていたんですが、これは素直に書きたくなかったので。
単純に、今回は火原で切ない要素の話を書いてなかったので、切ない方向に持っていきたかったという私的な事情も有(笑)
火原に対しての柚木は、やはり本性バラしてからの方が書きやすいですね。若干素直に言える点で、変に彎曲させずに済みますので(笑)


