そんな瞳で僕を見ないで

柚木→日野

 屋上のドアを開けると、視線の先のベンチに日野香穂子が座っていた。
 ドアの開く音に気付いた彼女は、振り返って柚木の姿を目に止めた。声にならない言葉で、柚木先輩、と呟いたのが分かった。
 香穂子は何かを言いたげに更に唇を開いたが、結局何も言わずに唇を引き結ぶ。くるりと柚木に背を向けて、元の位置に収まった。
 いつもだったら、笑顔で挨拶をするというくらいの反応があってもいいのに、妙に大人しい香穂子の様子を柚木は訝しむ。柚木に嫌味を言われたり、からかわれたりしても、最近では慣れて来たのか、あまり頓着はしていないようだったから、余計にその不自然さが際立った。
 柚木はゆっくりとベンチに歩み寄り、承諾も得ずに香穂子の隣に腰を下ろす。それは、外側の優雅な面には不似合いな行動であったが、屋上には香穂子以外は誰もいなかったので、不都合はなかった。
 一瞬驚いたように柚木を見た香穂子は、やはり何も言わずに視線を戻し、手元にある楽譜を眺めている。だが様子を伺っていると、次の頁へと進まない譜読みはあまりはかどってはいないようだった。
「……何?」
 低い声で、溜息混じりに柚木が問いかける。「え?」と香穂子が弾かれたように顔を上げた。
「だから。……何か、言いたいことがあるんだろう? 聞いてやるから、早く言えば?」
 彼女は隠し事が出来ない性格だ。いつも通りの応対が出来ないのは、何か言いたいことがあるのにそれを言い出せなくて、掛ける言葉に迷う所為だ。それならば、その言いたいことをさっさと白状させてしまえば、彼女はいつもの彼女に戻る。
 隣で、香穂子が躊躇する気配。ベンチの背もたれに体重を預け、柚木は彼女が話し出すのを、黙ったまま待った。やがて、意を決したように口を開いた香穂子が告げたのは、少しだけ予想外の言葉だった。
「……柚木先輩、音楽を辞めるんですか?」
 微かに柚木が目を見張る。ちらりと隣に視線をやると、どこか不安そうな表情の香穂子が、じいっと柚木を見つめていた。
「……誰から聞いたの?」
「エントランスで、親衛隊の子たちが……その、噂をしてて」
 ああ、と柚木は息をつく。
 自分の進路というものは、そういう連中には格好の話題だと分かっていたから、漏洩しないよう充分注意していたつもりだったが、特に箝口令を強いているわけではないのだから、きちんと自分の意志として教師連中に伝えれば、その情報が広まる可能性がないわけじゃなかった。
「本当なんですか? 音楽を辞めて、経済の方に進むって……」
 ふわりと風が柚木の長い髪を泳がせる。反射的に煩いな、と心の中で呟く。それが、風に向けて呟いたものなのか、それとも彼女へ向けたものなのか、咄嗟の判断は出来なかったけれど。
 指先で髪をかき上げ、耳に掛けながら、柚木は笑った。
「……本当だよ」
「柚木先輩」
「元々、コンクールが終わったらもうフルートは辞めるつもりだった。……予想外の事態で、アンサンブルに参加する羽目になって、時期が延びてはいるけれどね」
 最後の退屈しのぎ、とばかりに参加したアンサンブルだが、自分が内心、まだフルートを続けられることを喜んでいることを、柚木は知っていた。こういう機会でもなければ、春の学内コンクールが終わった時点でフルートから距離を置いていたのだろうから、彼女には感謝をしている。……その柄ではない気持ちを、彼女に気付かれるような真似はしないけれど。
「……いいんですか?」
 真剣な声で、香穂子が尋ねる。柚木は視線だけを香穂子へと向けた。
「柚木先輩は、それでいいんですか?」
 はっきりとした口調で、香穂子が繰り返す。唇の端を歪めるようにして、柚木が笑う。
「いいも何も。……柚木の家に生まれた時点で、自分の好きなように生きることなんて、諦めなきゃいけなかったんだよ。分かり切っていたことだから、今更どうということもないしね」
 静かに告げた柚木に、香穂子は黙り込む。
 そんな彼女の様子を、斜めに見おろして。
 そして柚木は、ほんの少しその美眉をひそめた。
「……何? その顔」
 香穂子は、まるで自分が痛いような。
 今にも泣きそうな瞳で、柚木を見つめていた。


(なんで、お前で遊んでみようなんて思ったんだっけ?)
 本性を晒すことは、柚木の安定した地盤を揺るがすことになりかねない。
 それでも、彼女のような平凡な存在が何かを言ったところで、周りにどんな影響を与えることもないだろうと、高を括っていたことも否定しない。
 だが、何よりも。
 彼女の簡単には諦めない、揺るぎない意志が。
 常に前を向く心根が。
 柚木の頑な心を揺らすのも本当で。
 きっと、それが心地よかったから、彼女に本当の自分を見せる気になった。
 何も変わることはないとひねくれる心のどこかで、変えてくれるはずの希望の光を、自分はずっと求め続けていたのだから。
 ……そう。今更何が変わることもないと、分かっている。
 祖母の言うなりに生きることしか、自分には許されないのだと、初めから諦めている。
 だが、そんなふうに凝り固まっていた柚木の心を。
 彼女だけが、揺らすから。


「……柚木先輩、自分で分かってないんでしょう?」
 小さな声で、俯く香穂子が呟いた。
「本当にどうでもいいんだったら、音楽がない道でも、それなりに楽しんで、歩いていけます。だけど、柚木先輩は『諦める』って言う。……それは、心のどこかで、柚木先輩に音楽を望む気持ちがあるからです」
 ああ、やはり。
 彼女は、こんな自分の綺麗に繕った外側を、いとも簡単に撃ち破って。
 本心を、暴いて揺らす。

 何だか不意に。
 戸惑うのも、怒るのも突き抜けてしまって。
 柚木は、やけに、優しい気持ちになった。

「……そんな瞳で、俺を見るなよ」
「柚木先輩」
「お前が、俺を哀れまなくても、……いいんだよ」
 流されるのも、その流れに逆らえないのも、全ては柚木の弱さだと分かっている。
 彼女のような心根の強さがあれば、本当は柚木にも抗えるしがらみかもしれないのに。
(本当は)
(ただ、言いなりになって、決まったレールの上を歩いている方が、楽なだけだよ)
 逆らって、抗って。
 今まで大事に積み重ねてきた我慢を、なかったことにするのが面倒なだけだ。

 だから、哀れまなくていい。
 哀しまなくていい。

 ただ、揺るがない意志で。
 変わらぬ笑顔で。
 幸せで、いてくれさえすれば。

 『そう』である香穂子こそが。
 全てのしがらみを打ち砕くために。

 柚木が抱く、希望の光。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.3】

あとがきという名の言い訳/今回のお題振分けにあたって、一人称はそのキャラに合わせて変えるようにしてました。
柚木にこのお題があたって、自分で書くことが決まった時に、恋人設定前の話を書くことになるだろうから「僕」でいいや~と思っていたら、蓋を開けてみれば普通に「俺」でよかったんだな、と(笑)

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